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魔女は銀の弾丸を抱いて眠る

 「それ」は月のない夜に限られると決められていた。
 いつから「そう」なったのか、アレクセイはすでに記憶していない。ただ霧が森の全てを覆い尽くす夜、薄い雲が空一面に広がりやがて重なり合って深い闇を呼び込む夜、湿気を含んだ風が稲妻を伴って大粒の雨を落とす嵐の夜。天空に散りばめられた星々は塗り潰され、日々刻々と太ったり痩せたりを繰り返す月は隠れ、黒色のインクを流し込んだような闇夜だけが世界を支配し、人里から離れた森の奥にぽつんと立つ館に灯る明かりが格子窓の隙間から漏れ出すのが唯一の光源となる無二の夜。
 アレクセイの主人はどこからともなく音もなく帰宅し、ダイニングのテーブルで鱒のソテーに蒸かしたじゃがいもの付け合わせ、酸味の強い黒パンにバターを塗って平らげ、食後にブランデーを垂らした紅茶を所望すると部屋へと戻り、アレクセイはケトルでゆっくりと湯を沸かし、ポットとカップを温める。耳を澄ませれば屋敷を揺らす強い風の音に混じって、シャワーを使う水音が微かに聞こえてくるようだった。もちろんそれは幻聴だ。実際に耳へと届くのは湯気を吐き出すケトルが小さく踊る音。よく沸いた熱湯をポットに注げば小さく縮こまっていた茶葉は弾け、オレンジに似た香りが立ち昇る。銀のトレイに用意するのは金の縁取りのティーカップと琥珀色のブランデーの瓶。ポットも忘れずに携えて、アレクセイはキッチンを後にする。ポットの口から細く吐き出される湯気を棚引かせながら屋敷のホールを抜け、主人の部屋まで何度も何度も歩いた道筋。おそらく目を瞑っていても危なげなく辿り着けるはずだ。試したことはないけれど。
 儀礼上のノックだけをして金色のノブを回し、部屋へと入る。落ちている本や暗闇で明滅する鉱石や植物の乾燥したのやらを踏まないように細心の注意を払いながら、すぐ目の前に聳える螺旋階段を登りきれば、空気は濃密な彼女の気配に満たされる。
 サイドテーブルにトレイを置くと、微かな物音でようやく従者の来訪に気付いたのか、青い視線がゆっくりと動く。ベッドヘッドに背を預けた主人は何をするでもなく、ぼんやりと窓の外を眺めていたようだった。白いシャツが薄い明かりの中で仄かに浮き上がって見える。
「カーテン、閉めますか?」
 かぶりを振った主人に首肯代わりの微笑を返して、アレクセイはポットから熱い紅茶を注ぎブランデーを垂らす。芳醇な香りがたちどころに花開いたカップを差し出せばすぐに口をつける彼女は猫舌とは無縁だ。美味そうにアルコールを含んだ呼気を吐き、その肢体は僅かに弛緩する。
 ベッドの軋み、リネンの皺。
 そういったものがやたらと目に付くのは自身の気が昂ぶっているからだ。風が強い。梢が揺らされ、森がざわめく。外の天候が荒ぶるほどに屋敷は孤立を深め、窓も扉も固く閉ざされる。まるで世界に二人きりのような錯覚はこの上ないほど甘やかで、アレクセイは息を呑む。爪の先は何かを探して勝手に蠢き、犬歯の根元はじわりと疼いた。
 そんな従者の様子を察したのだろう。飲み干したカップをサイドテーブルに戻した主人は薄く微笑んで、手招きする。
 おいで、と。
 その声は柔らかく、少なくともアレクセイにはたっぷりと慈愛を含んでいるように聞こえた。促されるまま膝をつき、差し出された左腕を手に取る。白い肌には傷一つなく、世界を喰らう敵と日夜戦いを繰り広げている猛者の身体にはとても見えない。けれど、それは魔女の特性。咎を背負う魔女は自らの意志で死ぬことはできない。肉体の損傷は傷跡も残さず自動的に修復され、その心臓は決して止まらない。その罪を償うその日までは。
「マスター、」
「んー?」
「マスターは、どうして私を傍に置いて下さったんですか?」
 指の腹で血管を探しながらアレクセイは問う。今更と思ったのか、またかと思ったのか。主人は喉の奥で薄く笑って、いつもの調子で答える。
「そりゃお前を拾ってきたことか?それともお前を使い魔にしたことか?」
「…両方で」
「前者なら、俺が適任だと黒蜥蜴に詰め寄られて仕方なく。後者なら、お前が受け入れたから、だ」
 そういつものように答えて、彼女は青い瞳をすっと遠くに遣った。
 魔法使いにとって使い魔は身近な存在ではあるがその本質を魔法使い以外の者が理解するのは難しい。それは心を持ちながら心を縛られた存在であるということ。主人が右と言えば右を向き、左と言えば左を向き、殺せと言われれば親でも殺し、死ねと言われれば自ら喜んで死ぬ生き様を通常意思を持つ生き物は耐えることはできない。
 心が壊れれば、肉体は滅ぶ。だから、魔法使いたちは使い魔を慎重に選ぶ。
 年を重ねて魔法の力を得ていない猫、巣から飛び立ったばかりの大梟、罠に引っかかった間抜けな鼠。精々その程度で留めてきた。留めなくてはいけなかったし、留めることしかできなかった。使い魔を使役するということは同時に使役する術者の力量も求められるということだ。もし意思のある生き物を使い魔にしようと試みた魔法使いがいたとしても、それは失敗に終わった可能性が高い。普通の魔法使いであるならば、禁忌は犯したくとも犯せないのだ。
 だから、アレクセイは感謝をしなくてはいけないだろう。魂さえも捧げてもいいと思った相手が世界における規格外の魔法使い、魔女であったということに。
「どうした?」
 主人の気遣わしげな瞳が目の前で瞬く。なんでもないという風に微笑めば、彼女は綺麗に眉を跳ね上げ、鼻を鳴らした。大体お前はな、と何か言いかけたかと思えばすぐに口を噤んでしまう。しばらく待ってみたが、それ以上口を開く気はないらしく、沈黙を続ける主人に今度はぎろりと睨まれた。
「早くしねえと夜が明けるぞ」
 そう言われてしまっては、最早手を離すこともできない。探り当てた血管の上に慎重に唇をつけると、ふわと彼女の体臭が温度を伴ってアレクセイの指先を痺れさせ、最早後戻りなど到底無理な話だったと改めて悟る。柔らかい皮膚に鋭く尖った牙の先をあてがい、なるべく痛みのないようにゆっくりと力を込めた。
 ぐす、と特有の肉を突き破る感触とあっという間に鼻腔を支配する甘い甘い血液の香り。溢れ出す真紅の液体を余すことなく啜るため、口を離さぬまま見上げれば青い瞳と視線がかち合う。マスター、と声に出さずに囁けば彼女は多少機嫌を直したのか、その後頭部を勢い良く羽毛の詰まった枕に預けた。ラピスラズリの髪が軌跡を描いて宙を舞い、サファイアの瞳に瞼が落とされる。
 吸血行為の際に分泌される吸血鬼の唾液には血液の凝固を遅らせる作用と痛覚を鈍くするための麻酔の作用がある。そのどちらもが人間に対して深い眠りを誘うことは吸血鬼たちにとっては常識で、それが魔女にとっても有効であることを知っているのはおそらくアレクセイぐらいだろう。
「大体、お前はなあ…」
 欠伸を噛み殺しながら魔女が言う。早くも相当の眠気が彼女を襲っているらしい。
「色々気にし過ぎなんだよ…俺が良いって言ってんだから、良いんだよ…」
「………」
「吸血鬼だなんて百も承知で配下にしてんだ。飯の世話をするのは主人の務めだろうが」
 そう、言って。彼女は深い眠りに落ちる。呆気なく、あっという間に。その瞳は夜明けまで開かない。開いたことはない。
 甘く熱い血を存分に味わいながら、彼女の言葉の余韻に浸りながら、アレクセイはうっとりと目を閉じる。
 彼女の使い魔であるアレクセイにとって彼女の言葉は絶対で、世界の真実よりも真実だ。この奇妙な感覚はきっと体感しなくてはわからない。身も心も支配され、生殺与奪の権利さえ自身で持たない。そんな生を罵倒し、気味悪がる連中はきっとこの甘美な束縛を知らないのだ。深く絶望した世界の果てで差しのべられた手の優しさを想像することさえもしないのだ。それはこんなにも「幸福」な日々であるというのに。
 たっぷりと時間をかけて食事を摂ったあと、主人の腕から口を離した吸血鬼はすでにその「変化」が起こっていることを確認して小さく目許を緩ませた。
 口元を拭う彼の視界に映るもの。それは豊かなロングヘアーでも女性らしい丸みを帯びた肩でもなだらかな丘陵を描く肢体でもない。幾つもの消えない古傷が刻まれ日に焼けた肌、剣を握っていたと思われる掌の皮膚は固く指は逞しく、必要な箇所に必要なだけ筋肉のついた身体はとても華奢とは言えない。魔女の面影は青い髪に僅かながら残すのみ。きっと開いた瞳も変わらぬ青色なのだろうけれど、アレクセイはその色を見たことがなかった。従者が主人の真実の姿に出会うのは、彼女ー否、彼が深い眠りに落ちているこのときだけ。ほんのひととき、「彼女」すら知らない秘密の逢瀬。
 健やかな寝顔を静かに覗き込めば、整った顔立ちが手に取るようにわかる。性差による違いはもちろんあるが、魔女たる主人はどちらの姿であろうと変わらず美しいというのがアレクセイの個人的な感想だ。ただ、見慣れぬせいか、他の誰も知らぬ無防備な表情が殊更愛しく思えるせいか、絶対に目覚めないとわかっているせいなのか。従者は「彼」に対して少し大胆に接することができた。緩慢な動作で手を伸ばし、「彼女」であるときは終ぞ触れたこともないその前髪をかきあげる。露わになった額にほんの一瞬、小鳥の羽根が掠めるような動きで唇を落とす。熱、吐息、香り、「彼」にまつわる何もかもをその瞬間に余すことなく感じ取ってすっと身を離す。
 それ以上は決して踏み込まない。ただの吸血鬼から魔女の忠実な従者へと戻る過程は目にも留まらぬほどの速さ。
 すぐに毅然とした表情で剥き出しになった主人の腕をベッドへと戻し、枕の位置を直すと、掛け布を引っ張り上げる。そして、ゆっくりとした呼吸を取り戻し、改めて主人の寝顔を見下ろした。その閉じた瞳。その青が何よりも美しいと、この世界における全てを差し置いても麗しいと思うのは、アレクセイが使い魔だからであろうか。
 それとも。
 彼はまだその答えを正確に捉えきれず、掴みあぐねていた。胸の内は靄のようなものに覆われ、自身ですら覗くことはできない。意思すら持たない使い魔であるはずの自分がどうしてと思う疑問さえ、さらさらと手中の砂のように零れてわからなくなってしまう。問う相手はアレクセイにはいない。当然答えを差し出してくれる相手もいない。その唯一である主人はいつも深い眠りの中。嗚呼、もし「彼」が何かの間違いで今正に目覚めたのなら。
「貴方は答えを下さるのでしょうか………セラフィータ…様」
 当然、返事はない。そのことに安堵し、一方で失望し、静かな混乱を深く身の内にしまい込む。
 幼い迷い子のように不安げな吸血鬼の表情をいつの間にか顔を出した今にも折れてしまいそうな繊月だけがじっと見ていた。その儚い光は何もかもを照らし出すためにはいささか明るさが足らず、今はまだすべてはぬるい闇の中にあった。時が満ちるそのときまで、かの魔女は銀色の弾丸を抱いて眠り続ける。吸血鬼には触れられぬ、沈黙の茨の檻の中で。


2015.05.17

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