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そのシュガーキスは届かない

 丘とレモンの街、 アルマタリアに春がやってきた。
 鮮やかな黄色の花を群れなして付けるミモザも満開となって彩りを添え、吹く風は馥郁たる新緑の香りを運ぶ。街はにわかに活気づき、長い冬の間に滞った澱を洗い流すかのように誰もが窓を開いて、シーツを洗い、庭先に芽を出したカモミールを撫で、デッキチェアをバルコニーへと出す。蜂蜜色の煉瓦を積んだ塀には尾を立てたさび柄の猫が悠々と歩き、駒鳥は忙しなく苔蒸した樹皮の隙間や葉裏を確かめて回る。広場にはアコーディオン奏者が現れて哀愁漂う演奏を始めたかと思えば、噴水の前では大道芸人が色鮮やかなピンを空中に放り投げては受け止める。子供達の歓声は止むことはなく、大人たちも街の特産であるレモンを使ったリキュールをソーダ水で割った飲み物で思い思いに乾杯し、顔を赤らめては笑みを交わす。アルマタリアは一年で最も美しい季節を迎えて陽気な空気に満ちていた。
 一種の祭のようと言ってもいい賑わいはただの訪問者であるはずのアレクセイの頬も思わず緩ませるほどだ。手にした紙袋にはレモンがいっぱいに詰まっている。アルマタリアの春は即ちレモンの最盛期であることも意味していた。この街で作られるレモンが世界一の品質を誇ることは街の自負でもある。
 その自信を裏付けするかのように鼻先をくすぐる柑橘の香りは爽やかで、目に飛び込んでくる黄色は小さな光の結晶のように輝いていた。バランスのとれた紡錘形、きゅと引き締まったへた、程良い凹凸の付いた果皮。思わず手に取ってしげしげと眺めたくなるような具合の良さ。しばらくテーブルの上に転がしておいてもいいし、輪切りにして蜂蜜へと漬け、紅茶に浮かべてもいい。絞った果汁を使ってレモンカードを作れば、タルトにも使えるし、薄くバターを塗ったトーストにのせるのも楽しみだ。それに何よりメレンゲをたっぷり使ったレモンパイは外せないし、これからの季節に向けてシャーベットをこしらえておくのもいい。当然、盛り付けの際にはボリジの砂糖漬けとミントをあしらう。
 あれやこれやとレモンのことばかり考えながら歩いていたせいだろうか。
 気がつけばアレクセイは甘い匂いと油の弾ける音が楽しげに響く屋台の前にいた。青と白の太いストライプ模様の庇にレモンを象った木製の看板。メニュー板には簡潔に「ドーナツ」と一言あるのみであとは値段の表記しか見当たらない。白いシャツの袖をまくりあげた女性は額に汗を浮かべて黙々とドーナツを揚げている。客足は途絶えることはなく、アレクセイがぼんやりその手つきを眺めるそばから一つ、二つと次々に売れて行く。
 知らずレモンを抱える腕に力が入り、片手は財布を探っていた。すみません、と声をかけると女性は人好きする顔をぱっと綻ばせて白い歯を見せた。
「ドーナツ、一つ」
「はい。すぐ召し上がりますか?」
 頷くと彼女は素早く油を切ったドーナツを砂糖にくぐらせ、曲芸のごとき素早さで包み紙へと挟み込んでくれた。コイン二枚と引き換えに手渡された香ばしい匂いはアレクセイの鼻腔を満たし、屋台の前から立ち去るのも早々にその真円の頭頂へとかぶりつく。
 甘い。
 すぐさま脳裏に浮かんだ味覚を追いかけるように柔らかな酸味がやってくる。生地にレモン果汁と果肉を練りこんで、更に周囲にまぶした砂糖にもレモンピールが含まれているらしい。実に産地らしい惜しみない果実の使い方だった。
 そういえばドーナツなど食べたのは久しぶりだ。ましてや屋台で物を買うなんていつ以来だろうか。少なくとも彼女に、今の主人に仕えてからはないような気がした。途切れることのない人々のざわめきとどこか足元が覚束ない浮ついた感覚も久しく感じていなかった。だからだろうか。確かに晴れやかな気分であるにも関わらず、郷愁が胸をつくように一抹の寂しさが胸を過ぎるのは。あれはどの世界のいつの記憶なのだろう。忘れてしまったあの日はもうこの手には戻らないと痛いほどに思い知らされているのに。記憶を探ることを止められないのは、アレクセイもまたかつては人の子だったせいだろうか。
「買い食いか?」
 神出鬼没だけれど聞き慣れた声は突然耳に飛び込んできて、思わずドーナツを喉に詰まらせかけたアレクセイは驚いて立ち止まった。
 顔を上げれば案の定、全身を青色に包んだ主がやや意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。腰に手を当て、やや斜に構えた格好が何とも様になる。陽光を浴びたウィッチハットが作り出す影は淡い色彩の石畳を紅茶色へと変えていた。
 あまりにも青い魔女が一人街角に現れても誰も騒ぎ出さないところを見ると、魔法を使って自身の存在を希薄にしているのだろう。そうとなれば彼女は仕事の最中である可能性が高い。と言ってもアレクセイに話しかける余裕があるくらいだから、危急の用件ではないのだろうが。
「行儀が悪いじゃねえか、お前らしくもない」
「マスター、これは、」
「気にするな。確かにこの騒ぎだ。浮かれたくもなる」
 そう言って目を細めた彼女の青い髪を風がさらう。視線は軌跡を追いかけ、温かな日差しを注ぐ太陽を見上げた。きらめいたのは何よりも美しい至高の宝玉。水面を揺らめく人魚の鱗、地中深くで静かな呼吸を繰り返すブルーサファイア、夜明けに空を泳ぐ小鳥の風切り羽根。真夜中の魔女の時間に見るのとは異なるその色彩に目も心も奪われる。もう何度見てきたのかもわからないのに。何度その色に見惚れ、忠誠を誓って跪き、何度その色のためならこの矮小な命さえ惜しくないと思ったか。
「アーク、」
 はっと我に返ったときにはもうその顔が間近に迫っていた。ヒールの音さえ気づかなかったのに彼女の甘い首筋の匂いに頭の中心がくらりと揺れる。唇が開く。吐かれる息は青い幻想を伴う。
「一口でいいから、それくれ」
 そう、言われた言葉はアレクセイの虚を突いた。
 甘い香りはドーナツのそれに取って代わり、目の前にはあーんと口を開けて待つ主人の姿。
 アレクセイはこれとそっくり同じ光景をつい先日森の中で見た。小枝と苔と羽毛でできた両掌ほどの大きさの巣に親鳥が舞い降りた途端、一斉に大口を開ける数羽の雛鳥。それに今のマスターの姿は重なって見えます、と言おうものなら脛に向かって渾身の蹴りが飛んできそうだった。死んでも言えない。
「…なんだよ早くしろよ馬鹿みたいだろうが、俺が」
 あんまりアレクセイがぽかんとしていたせいだろう。早口で告げる主人にアレクセイは従者として素早く動いた。彼女の口元にドーナツを運べば、小さな口は大きく開いてすでに破られた円の片端しにかぶりつく。弾ける香りはレモンとバター。むしゃむしゃと咀嚼したのち、うまいなと呟いた唇の砂糖を真っ赤な舌が拭い取った。基本的に行儀作法に関して雑なのは彼女の方であることに間違いはない。
「それ、お前も作れたりしないのか?」
「…あ、はい。できると思います。レシピさえあれば」
「なら作ってくれ」
 そう事なげに言って彼女は髪をかきあげる。その目線が宙を彷徨い、風ではない何かを追いかける。仕事を再開するために必要なものが見つかったのかもしれなかった。なぜならその瞳はすでに青く鋭く底光りして、正真正銘魔女のそれであったから。帽子の縁を青に染めた爪が引っ張って位置を整え、高い靴底が石畳を鳴らす。ひゅっと風が人にはわからぬ音程で鳴り渡り、青い空を背景に一筋の黒い流星が駆けて行くのが見えた。
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
 凛と告げた主人にそう返して腰を折れば、ふと何かを思い出したように彼女は足を止めた。ちょうど姿勢を戻したアレクセイの視界いっぱいが青一色に埋め尽くされ、声をあげるよりも早くその唇が近づいてくる。べろりと。舐めあげたのは口の端だが、そういう問題ではない。そういう問題ではないのだが、主人は素知らぬ顔で甘いなとだけ呟いて大地を蹴ると、あっという間に重力を自在にする魔女と化して飛び去ってしまった。
 手には食べかけのレモンドーナツ。
 一人残されたアレクセイは呆然と彼女が舐めとった己の皮膚に触れ、指先に残るざらっとした感触でようやくそれを悟る。いや、だからって何も舌でとらなくてもいいではないか。それは吸血鬼であるアレクセイとマスターである魔女セラフィータは主従の関係であるし、吸血鬼である以上血液を定期的に摂取する必要のあるアレクセイは彼女の柔肌に牙をたて溢れ出る鮮血を啜り舐め取ったことさえ一度や二度ではないが、それにしても。これは。勝手が違うといえばいいのかなんというのか。
「………マスターの方が余程行儀が悪いのでは…」
 ぼそりと呟いた恨み節をもちろん彼女が聞いているはずもなく。とにかくレモンドーナツを作るにしても砂糖をまぶすのだけは絶対にやめておこう、とアレクセイは一人固く心に誓い、手にしたそれを無理矢理口に押し込んだ。
 レモンが高らかに香る柔らかな生地は、なぜか先程口にしたものよりも数倍甘く感じられた。




アルマタリア -ArmaTaria-

東南の半島にある小さな町。幾つもの丘が連なって続き、その斜面を利用したレモン栽培が盛ん。
特に春先のレモンの収穫期ともなると、町は連日祭のような活気に満ちる。

アルマタリアにおけるレモン栽培の起源には諸説あるが、南方の遊牧民族が羊の群れとともにレモンの苗木を持ち込み、
土地への定住と同時にそれらを農作物として栽培し始めたという説が有力とされている。

名産品として知られるレモンリキュールの歴史も大変に古く、
かつてレシピを知りえた職人たちは「錬金術師」とも呼ばれていた。

歴史学者 ルーマ・クーロ著
『都市歴史探訪~東の章』より引用


2015.05.10

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