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ティーカップに満月を

 月の輝く夜だった。
 静かの森と呼ばれる静かな森にその家はあった。こじんまりとした造りは小屋と呼んでも差し支えはなさそうだったが、ドアに掛けられたミモザのリースに玄関までたった三段の階段を飾る鉢植えの花はよく手入れされ、家主のこだわりを感じさせた。曇った格子窓から中は伺えない。人の気配は先程から絶えることなく、かっしゃかっしゃとひっきりなしに何かを混ぜるリズミカルな音が聞こえてきていた。旅人ならそれを小屋の家主か誰かしらが何かしらの料理を作っている最中と思うだろう。けれど、近隣に住む木こりやこの小屋の存在を黙認する森のエルフたちはそうは思わない。彼らはこの家にもしかしたら家主がいない可能性をすでに知っている。この小さな家とその周囲に限って、不思議なことが起きても何ら不思議ではないのだ。なぜなら。
「…思ったより遅くなってしまったわ」
 独り言と共に少女が森の小径を駆けてくる。その手にした籠には真っ赤なラズベリー。熟れた赤い実はチーズタルトのクリーム色によく映えるから。
 そのパフスリーブのワンピースは若草色でよく洗濯されたエプロンには細かなフリルの縁取りがある。十六、七に見える少女の容姿に若干幼趣味なその衣装はとてもよく似合っていた。ハニーブロンドの髪を後ろで一つ黄色のサテンのリボンで結い、ぱっちりと開いた瞳は芽吹いたばかりの新緑の色、または透き通った草原の兎が大事に隠し持っている宝石。
 その印象を裏切らない彼女の名はペリドット・ルース。緑の魔女と称される女王の剣が一人。緑の指先ーグリーン・フィンガーと呼ばれる手を持ち、草木を深く解して愛する心優しき魔女。けれどその本質が繁栄と衰退を意味することに気付く者は少ない。彼女の手は全てを慈しむように育てるが、実りの先にはやがて死と冬がある。流れる限り避けることのできない終わり。グリーンの果てには必ずブラウンがある。
 彼女は当たり前のように先程の家へと軽快な足運びで滑り込んだ。
 その背で結ばれた大きなリボンがふわっと揺れれば、柔らかな空気が全身を包む。魔女の小屋は見た目通りの小さく簡素な造りで、部屋の中央付近の天井から吊り下がったランプから漏れる橙色の灯りに部屋中の大体のものが照らされていた。小さな本棚、床に置かれた大小の籠には薬草の束や胡桃の実が無造作に入れられていて、ガラス戸がはめ込まれた棚には棚板が四段。シナモン、クローブ、アニス、キャラウェイシードなどのスパイス類が納められた瓶に何種類かの蜂蜜、季節ごとの果物で作るジャム、彼女がおやつにいただくためのナッツのクッキー、スミレの砂糖漬け。とっておきのヌガーはこっそり小さな陶器の箱にしまってある。大きな樫の木のテーブルは傷跡が目立つがまだ現役そのものといった頑丈さで、今その上は正にお茶の用意と言うべき品々が所狭しと並んでいた。
 蝋紙に包まれているのは茶葉を入れたクッキーにスコーン。切り口が鮮やかなサンドウィッチの具は胡瓜、ハム、チーズ、それからクランベリージャム。小さな瓶に幾つも詰めたのはマーマレード、ブルーベリー、クロテッドクリーム。
 魔女はテーブルに向かうとチーズタルトを切り分けて箱に入れ、林檎のマフィンを四つ包んだ。ボウルの中の泡立てたばかりの生クリームは改めて瓶に詰める。摘んできたラズベリーを手早く汲み置きの井戸水で洗うと、使い込まれたチェックの布巾で二重に包んだ。次いでテーブルの下から取り出した両手で抱えるほどの大きな籠に並べられた茶会の品をてきぱきと詰めていく。
 ほんの僅かな時間で準備を整えると、ペリドットは大きな姿見の前に立った。
 鏡面に映った少女。見慣れぬ、けれど見慣れてしまった自身の姿。魔女が魔女になる前、彼女はただの老婆だった。一人の愛した男に裏切られた、否、長年に渡って裏切られ続けた一人の老婆だ。彼女はその裏切りを許すことができなかった。許せてしまえればどんなにか幸せなことだったろう。彼女はきっと何事もなく更に老いて、やがて死に、ささやかな葬列のあとに男と同じ墓に入ったはずだ。けれど、そうはならなかった。引き寄せた絶望は世界の崩壊と引き換えに老婆を魔女へと作り変えてしまった。奇しくも男と出会った当時の鮮やかな少女の姿として。
 ふと、吐息をつく。考えても、悩んでも、詮のないことだ。少女は魔女だ。女王の剣だ。世界に仇なす敵と唯一戦う手段を持つ者だ。それ以上でも以下でもない。
 靴の踵を鳴らす。ドアを開けると湿った夜気が全身を包み、大きく息を吸って月夜の小径を小走りで駆け出す。
 白い月は真昼のように森の合間の道を照らし、蹴られた小石は波打ち際の真珠のようにきらめいた。ホウホウと鳴く夜の鳥。暗闇では狼が目を光らせているのかもしれないが、少女に恐るべきものは何もなかった。飴色の革靴は足によく馴染み、歩は少しも緩まない。やがて空間が歪み、絡み合う木々が徐々に解け、より強く月下に何もかもが晒される頃。
 辿り着いたのは背の低い草が一面に覆った広場だった。
 柔らかい夜風が吹く度にざわりと大地が揺れる。紺碧の夜空に丸い月。放たれる光の下には眩しい程に真っ白なテーブルクロスの掛かったラウンドテーブルと用意された四つの椅子が浮かび上がる。すでに招待客は席に着いていて、どうやらペリドットが最後のようだった。
「遅かったな」
 青い髪、青い瞳、青いウィッチハット、青いジップアップのワンピース。何もかもが青く、青色の世界に溶けてしまいそうな魔女が紅茶を啜りながら言う。青の魔女、セラフィータ・セフィラムは尊大な口調と態度が誰よりも様になる。
「お前が遅れるなんて珍しいね、ペリドット」
 一聴、冷徹とも思える声音。黒い髪、黒い瞳、青白く大理石のように美しい肌。身体のラインに沿う黒いワンピースはセラフィータのものと異なり彼女の小さな踝辺りまで丈がある。紫煙を美味そうに食む魔女の名は黒蜥蜴。これは通り名。本来の女王から与えられた名を彼女はほとんど自ら名乗らない。
「ディートォ…セフィがいじめるよーひどいんだよー…」
 白い魔女は椅子の上からではなく、なぜか地べたに寝そべってぐすぐすと泣いていた。白いシャツに白いショートパンツ。覗く腕も脚も細く、華奢な身体はなお白く、真っ赤に熟れた瞳だけが悪夢のように目立つ。名はメフィストフェレス・ナイトメア。男と女、両方の性を持つ魔女は享楽を愛するトリックスター。
「いじめてねえよ。大体お前が悪いんだろうが」
「何がありましたの?」
「こいつ、流れの人狼を半殺しにしやがったんだ。敵と間違えてな」
「あら。まあ」
「だってー怪しかったんだもん」
「だからっていきなり両腕、両脚落とすやつがいるか。人狼だから適当な治癒術でくっ付いたが、そうでなきゃペリドットに来てもらうところだったぞ」
「あら。呼んでくれて構いませんのに」
「ディート…優しい…!」
「あまりメフィストを甘やかすな、ペリドット」
「クロトは意地悪!」
 テーブルの上にはすでに一揃いのティーセットが並べられていた。空いた席に伏せられたカップは来賓の気配を感じてか独りでに回転してカタカタと鳴り、ポットに被せられた花柄のティーコゼーはふわりと中空に浮き上がった。
 ペリドットは自席に着くと、籠に詰めてきたものを次々と取り出す。お茶だけではお茶会は始まらない。空間と時間を自在にする魔女たちは食事を摂らずとも生きられないことはないが、こうして定期的に集まっては共にテーブルを囲む。
 いつだったか忘れないためだと黒の魔女が言っていた。魔女になるその前のこと。遠い遠い昔の記憶。生きた昨日と生きる明日のその意味を忘れないように。もうそれしかないのだから。罪を償うだけの日々において唯一魔女の糧となるのは過ぎ去った優しい思い出だけ。
「さあ、メフィストももう席に着きましょう?あなたの好きなチーズタルトを持ってきましたよ」
「ほんと!?わーいディート大好きー!」
「クロテッドクリーム、あるか?」
「ありますよ。はい、セラ」
「ん」
「やあ、今宵も良い茶会になりそうだ」
 月明かりの下、魔女たちがお菓子と紅茶を囲む。果ての世界の果てのまた果ての出来事。やがて銀色に輝く輪ができれば誰ともなく踊りだし、誰ともなく歌い出す。妖精たちはその歌声に惹かれ、その蜉蝣の羽根を震わせ遠慮がちに姿を見せる。
 今宵は満月。さあ誰も咎めはしない。その手を取れば、たとえ子供でも娼婦でも職人でも老婆でも魔法にかかる。この世界の終わらぬ時間という名の魔法に。だから今日も明日も明後日も月は昇り、やがてその日を連れてくるのだ。月満ちる魔法の夜を。


2015.05.11

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