ibaraboshi***

home > 小説 > > 最果ての旅立ち

最果ての旅立ち

 その日は朝から曇天が広がり、強い風が吹いていた。樹影を整えられたばかりの街路樹はざわざわと音を立てて横揺れし、常ならば塵一つ落ちていない通学路には折れた小枝やビニール袋など様々なものが散乱していた。出窓の鉢植えをしまい込んだ家並みは素っ気なく、耳障りな風の音は時折悲鳴のように尾を引いた。頭上に腰を据えた低気圧は重たい湿気を含み、乾いた空気を常とするこの街まで熱帯地方のねっとりとした濃密な気配を引き連れてきているようだった。
 ハイスクールの制服に身を包んだ少年は吹き荒ぶ風から身を守るように慎重に歩を進めていた。手にしたバッグはぺしゃんこでとても大事なものが入っているとも思えないのに決して離すまいときつく両手で抱えられている。染み一つない白いシャツは身体にぴったりと張り付いて縦に長い痩身を強調した。規則正しい折り目の付いたスラックスは余った布地が逐一風にあおられて、けたたましくはためく。
 この街では珍しくもないテンプレートな学生服に身を包んだ彼は、けれども決定的にその典型にはまりきれない身体的特徴を有していた。衣服に覆われていない皮膚のあちこちで見ることができるそれは少なくとも左手の手首と甲、左鎖骨付近から首にかけて、そして右頬。薄いシルバーフレームのレンズの奥は凡庸な黒色で、短く切り揃えた髪もまた同色であるにも関わらず、示された箇所だけは微かな光さえ吸い取ってきらきらと虹色にきらめく。彼の持つゼリー状の皮膚は所謂クラゲであるというのは正式な医師の診断で、それは概ね自己診断とも他人からの第一印象とも相違なかった。
 この世界において「異形」と呼ばれる獣と人間の交雑した突然変異。実際彼も純粋な二人の人間を両親に持つ。歯科医と教師という世にあふれる仕事の中でもまあまあ上流に属し、それなりの地位と名声を大事に守ってきた彼らにとって一人息子が軟体動物の異形であることは何よりの悲劇だった。ふくふくした身体のあちこちに半透明の部分を持って生まれ落ちた赤ん坊は百戦錬磨の助産師の頬を引きつらせ、母は産後の疲労も忘れて絶叫し、その叫び声を聞いて駆けつけた父は天を仰いで神を呪った。これらすべては唯一自分を普通の孫と変わりなく接してくれた祖母からの伝聞だが、今思うとこれも果たして善意ある真実なのか悪意ある虚偽なのかわからない。確かめようにも闊達な老婦人は一昨年の冬に肺炎を患って呆気なく死んでしまった。八十八歳。人間ならば大往生ともいえる年齢だろう。
 異形にとって死は遠い遠い感覚の果てにある。第一に異形は強い。交雑した種に応じて強靭な牙や爪や鱗を持ち、高い再生能力を備えているのが一般的だった。第二に異形は寿命が長い。通常人間が長くとも百年程度でその生を終えるのに比べ、異形の平均寿命は二百五十年から三百年にも及ぶ。第三に異形は生存本能が強い。人間の自殺者数が右肩上りなのに反して、異形はほとんど特別な事情がない限り自ら死を選ぶということがない。おそらく自死という選択肢そのものが思考回路に組み込まれていないのだろう。その理由に関してはっきりとした結論は出ていない。だが、一般的には異形の思考、心理そのものが獣に寄っていると考えるのがセオリーだった。つまりそれは生存本能と呼ばれる生物共通の最も根本的な欲求。高度な思考を獲得し、考える葦となってしまった人間はその欲求を容易く殺すことが可能だが、異形にはそれができない。どんなに辛くとも、どんなに苦しくとも、どんなに悲しくとも、どんなに惨めでも、生きて、生きて、生きて、とにかく生きる。そこに疑問を挟み込む余地などなく生き続けたいという意志だけがそこにある。
 それが種として優れた進化なのか少年にはわからない。ただ、また彼も生存本能に突き動かされる生物の一人として正に今人生の岐路に立たされている。異形とはいえ人間から生まれ、人間の社会に組み込まれて生きる以上、獣のように本能だけで生きるというわけにはいかない。しかし、ハイスクールの卒業を控えた彼を入学させてくれるというカレッジは皆無だったし、また雇い入れてくれる企業すらも絶無だった。
 この街は人間たちの街だった。多くの学術機関と学校で構成され、知恵と知識を集めるために作られた整然たる都市、それが復興再生都市No.5《ミネルバ》。この街に異形はほとんど存在しない。存在していたとしても裏路地にある薄暗いクラブでチケットもぎをしていたり、客の目につかない飲食店の裏方で従事したり、橋の下で日がな一日ぼんやりと川面を眺めていたりしている。異形と人間は異なる生物として明確に区分けがされていた。少年は子供という免罪符を全身に貼り付けられ、親の庇護という傘の下、どうにか人間社会の片隅に席を置いてもらっているに過ぎなかった。そして、その用意された場所さえも他ならぬ「保護者」の考え一つで容易になくなってしまうことも彼は十二分に理解していた。
 風はより一層強くなる。バタバタという音が自分のスラックスのものか、忘れられた哀れなシーツのものなのか、最早わからない。レンズ越しに見る世界に人間はおらず、異形も獣もいない。迫り来る曇天はいよいよ重みを増して少年の行く末を鈍色で埋め尽くす。早春の鮮やかさに満ちていたはずの街並みはすでにモノクロームまで彩度を落としていた。
 いっそ盛大な嵐でも来れば諦めもつくだろうにと恨めしげに空を見上げるか否かというタイミングでひゅっと一際強く風が吹いた。と、次の瞬間にべしっと顔面に直撃した何か。一瞬で視界を奪われパニックになった少年はあれほど大事に抱え込んでいた鞄を取り落とすと慌ててその何かを剥ぎ取った。
 それはくしゃくしゃになったチラシのようだった。強い風でどこかのゴミ捨て場から飛ばされてきたのだろうか。ざらざらした紙はよくぞ今まで散り散りにならなかったと感心するほど安っぽい。使われている濃紺のインクはところどころかすれているが、ちらりと見えた箇所には力強い書体で「ヤツハカココアルキガイド」と記されている。
 チラシではなくてガイド?
 脳裏をよぎった疑問の答えを出すべく、手にした紙を両手で大きく広げた。片面四段組のそれはどうやらどこかの街の商工会議所が発行しているフリーペーパーのようだった。商店街の案内やギルドの館主へのインタビュー、ラーメン屋のオススメ商品の紹介など地域に密着した情報が所狭しと記され、丁寧な取材に親愛あふれる筆致は地元への愛情が伺える。しかし、それだけなら、それだけであるならば特に少年の興味を引くことはなかっただろう。この街にもフリーペーパーぐらいはあるし、街に対して敬愛を持ち貢献したいと考える人間もたくさんいる。少年が着目したのは中央部に描かれた猫のイラストだった。「ギルドマスターにきく!」と題された記事にはインタビューされている館主が猫の異形だとはっきり明記されていた。よく読めばインタビュワーも鼠の異形であるようだし、商店街の記事には人間と異形が生活圏をともにし、賑わいに満ちた雑踏を作り出していることが当たり前のように書いてある。それに何より一つの求人広告が少年の目を釘付けにした。詳細はほとんど書かれていない。店名も含めてわずか三行。数秒で目を通してしまえるほどの小さな四角の中を彼は何度も眼球を往復させて読み返した。

求ム、厨房勤務
まかない有・寡黙な方歓迎
ペンギンのやる店 焼き肉 凍土亭

 ペンギンが「いる」店ではない。「やる」店だ。しかも焼肉屋だ。肉を焼くのに店名は氷の大地を思わせる。まるで意味がわからない。
 未知だった。そこには少年の知らない世界があった。生まれてこのかたずっと暮らしてきたこの人間たちの街とは違う街。違う暮らし。違う常識。違う人々。新たな環境は新たな希望でもある。ひょっとしてそこなら自分は受け入れられるんじゃないか、そこなら自分は顔を上げて生きていけるんじゃないかという一抹の光がチカチカっと瞬いた気がした。惨めな人間の成り損ないとしてでなく、一人の異形として、誰に後ろ指さされることなく、誰に憐れまれることもなく、ただ普通に生きていけるんじゃないか。
 少年は手にした紙の皺を丁寧に伸ばすと角を揃えて四つ折りにし、そっとポケットの中にしまい込んだ。なんでもない風を装って落とした鞄を拾い上げ、胸に抱え直すとゆっくりと慎重に家路を目指す。その様子は先程とまったく変わらず未来に彷徨う少年のように見えた。けれども、その鼓動があふれる期待を抑えきれずにずっと早鐘を打っていることを彼自身だけが強く自覚していた。



8p


2016.03.14

新しい記事
古い記事

return to page top