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キャット&バスルーム

「今日こそ風呂に入ってもらうぞ、シガロ!」
 目の前に立ち塞がる壁は一歩も退く気がない意志を示すように仁王立ちとなり、嫌々見上げた長躯に据えられた顔は常ならぬ厳しい表情だった。数十分にも及ぶ追いかけっこの末、廊下の隅っこまで追い詰められた猫はどうにも分が悪い。瞬発力や一撃必殺の技術であれば見劣りするべくもないが、鰐の特徴をその身に持つ彼は体力と怪力にかけては怪物みたいなものだった。きろりと六つの目で睨み付けても怯む素振りも見せない。当然だろう。シガロには追い立てられるだけの理由があり、そして数々の前科もあるのだ。
「…先日入ったばかりだぞ」
「三日も前の話だろう」
「三日ぐらい…」
「よくない」
 こういうときばかり歯切れ良くきっぱりと断然する彼が恨めしい。しかし反論する言葉を持たない猫は喉の奥で無駄に唸り声をあげるばかり。ゴールドの瞳は心なしか凄みを増してこちらを見下ろし、純然たる肉食獣の気迫が彼から立ち上っているかのような錯覚さえおぼえる。
 それに気圧された一瞬を彼は見逃すことはしない。逞しい筋肉と強固な鱗に覆われた腕が伸びてきたかと思ったら、予想していた以上に俊敏な動きで捕獲される。さながら鰐の捕食だ。先程までの愚鈍な動きはフェイクだったと今更気付いてももう遅い。男はまんまと捕まえた猫を小脇に荷物のように抱えるとさっさと歩き出す。
「は、離せ!」
「だめだ…そう言ってこの間逃げただろう」
 二の句が継げないとはこのことだ。その通りだ。その通りだから何も言えない。しかし、風呂は回避したい。
 そもそもシガロは風呂が嫌いだ。猫なのだから当然だ。そしてカルーアは風呂が好き過ぎる。鰐だから当然なのだとは言ってほしくない。彼は時間が許すのであれば一時間でも二時間でも湯船に浸かってぼーっとしていることができる生物だ。正気の沙汰じゃない。あんなぴかぴかに磨かれたタイルが冷たくて、換気扇の軽い駆動音がとどまるところを知らず、置かれたボディソープの香りが充満し、猫足のついたバスタブから絶え間なく湿気が放出される個室にシガロは一秒だっていたくはない。
 なんとかここから脱出を試みなければと策を練るが、がっちりと腰に回された腕は頑丈で浮き上がった両手両脚はどうにも自由がきく気配がなかった。
 奥歯を噛み締め唸るうちに廊下は見慣れた様相を呈してくる。男娼館の地下におもむろに現れる「蜘蛛の巣」と記されたドアの向こう。そこが他ならぬ館の主人の執務室兼居住スペースであり、常のシガロの寝床でもあった。
 彼は金色のドアノブを回し、猫を連れて悠々と自室への帰還を果たす。執務室の奥の扉を抜け、更にもう一つ部屋を抜ければキングサイズのベッドが据え置かれた寝室とその奥には浴室へと通じる扉。彼が難なく片手で開いたその先、脱衣所とガラス張りになった仕切りの向こうには猫足のついたバスタブが澄まし顔で鎮座している。すでに準備は万端なのか立ち昇る湯気は決してシガロを逃しはしないと言わんばかりに紫色の毛並みに入り込み、鼻の奥まで湿気が満たす。
「いい加減…諦めるんだな…」
 ようやくここまでシガロを連れてこれたことに安堵したのかいつもの調子を取り戻してカルーアが言う。脱衣所のマットの上に降ろされたシガロは上空にある彼の顔をきつく睨みつけてみたが、無論そんなささやかな反抗は今更通用しない。
「シガロ、万歳」
 唸っても睨んでも黙っても通用しない。恋人はここ数ヶ月で揺るぎない鋼の精神を鍛えつつあった。
 のろのろと両腕を上げれば追い剝ぎの勢いで衣服を奪われ、両目を覆うアイパッチも外される。下半身にも伸びてくる手を辛うじてかわし、すでに入浴から逃れられぬことを悟った猫は自ら下着ごと衣服を脱ぎ捨てると湯船に飛び込んだ。
 熱すぎないお湯が全身をゆるりと圧迫する。尻尾の毛の一本一本まで温められる心地に思わず目をつむれば大きな掌に破れ耳ごとわしわしと撫でられる。
「髪を洗うから…目を閉じていろ」
 薄っすらと目を開けば腕まくりに足まくりした恋人がシャンプーのボトルを手にとっているところだった。いつの間にか適温に準備されていたシャワーのお湯が一声とともに髪にかけられる。シガロの猫っ毛は水分を吸ってあっという間にボリュームをなくし、うなじや額に張り付いた。そこに香料を限りなく少なくした洗剤が振りかけられ、十本の指が隈なく頭皮を撫で回す。心地よい振動と感触に思わず猫が喉を鳴らせば、彼は小さく笑ったようだった。
 やがてすっかり泡も洗い流されると、もういいぞの声を待ってシガロは頭を振るう。飛んだ水飛沫の向こうには相変わらず穏やかな顔をした恋人がいて、シガロは湯船に顎をのせるとなんとなく顔だけで彼を見上げた。視線が合うわけではないから当然彼の表情は伺えないが、それでよかった。その方が都合がいい。
「シガロ?どうし…」
「お前は入らんのか」
 ぽそっと落とされた言葉に彼の時間が停止する。一秒、二秒、三秒。
 正気に戻った彼は何よりも誰よりも素早かった。脱衣所で身にまとう一式を脱ぎ捨ててきた男はすぐさまとって返し、その体躯に似合わぬ慎重さでそろりと湯船に足をつける。その様を横目で見ながらシガロは湯の中の短い尾を揺らし、そうして彼の言葉を待つ。シガロと名を呼ぶ甘くて柔くてほんの少しの緊張感を孕んだ声を。濡れたオリーブ色の髪を、熱を持った金色の目を、湯の中にあっても常にひやりとした温度を伝えてくる鱗を、待つ。
「シガロ」
 かくしてその名は紡がれる。ぱっと振り向けば浴槽の端に背を預け、濡れた髪をかきあげた恋人がそこにいる。屈強な鰐の尾は水中で本来の役目を思い出すかのように揺れ動き、小さな水流を巻き起こす。伸ばされる両腕がこの世で一番安心できる場所であることをシガロは知っている。知るがゆえにその誘惑は何よりも抗いがたい。
「おいで」
 気の向くままに赴くままに。そうは言ったところで十中八九猫はその声に逆らえない。興味のないフリをして、気まぐれなフリをして、そのくせ気になって仕方がない。素直になるのなんて存外簡単だとわかっているからこそ、シガロは小さく湯船の縁に爪を立てるのを最後の矜持と割り切って、彼の腕の中へと飛び込んだ。
 厚い胸板は全力でぶつかってもビクともせず、掌に触れた鱗の手触り、わずかに香る彼の体臭まで好ましい。その肩口に額を預ければ吐息がかかってくすぐったいのか、彼が微かに揺れ動く。その晒された皮膚に刻まれたタトゥーが目に入る。思いつくままにその流線型を描くパターンを指先でなぞれば、途端に恋人が機嫌の良さそうな横揺れをやめた。ちらりと見上げればその頬は微かに赤い。ふふっと喉の奥から漏れる笑みを隠しきれぬシガロにゴールドの視線が落ちてくる。
「…確信犯だな…」
「青いな、カルーアよ」
「ふざけるな…お前にだけだ」
 そうひどい殺し文句を吐いて、 鰐の唇が猫のそれを塞ぐ。まるで噛み付くみたいに深く交わされる口付けは湯気に紛れ、熱に浮かされ、猫の劣情を確実に呼び覚ます。舌に絡みつく湿った感触をたっぷりと味わい、やがてどちらともなく離した顔をお互い見遣って笑みを交わす。バスルームという小さな密室に閉じ篭もった恋人がすることはただ一つ。漂う甘ったるい雰囲気を助長させるように、シガロはニヤついた唇を更に深め、にゃあと小さく啼いてみせた。


2016.01.25

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