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きらわないで、メアリ・アン

 後ろ手に閉めた扉がバタンと鳴って外界との拒絶を明確にする。「蜘蛛の巣」へと戻ってきた青蜘蛛は毛の長い絨毯を一歩一歩踏みしめて歩きながら、眉間に寄った皺を揉む。
 ここにはどんな雑音も届かない。たとえ鉄の牢獄を震わせる蝙蝠の鳴き声であったとしても。
 それを重々承知しているにも関わらず、ようやく金切り声から逃れられた耳の奥にはまだその絶望がこびりついているようにしか感じられなかった。愛したつもりの骸に寄り添い、愛しそうに腹を撫でる異形の吸血蝙蝠は今も地下の薄闇の中で微笑んでいるのだろうか。先行きの見えない未来を何一つ知らずに。無知であるが故に恐れなく。ただその身をかき抱いて、あえかなる絶望に陶酔しているのだろうか。
 考えたところで栓のないことだった。あれの考えを真に理解できるものなど、この世にはいない。きっと本人でさえ正しく理解しているとは言えないのだから。
 懐古趣味な部屋の中央に座すのは金のノブが付いた抽斗を備えた重厚感のある執務机。天井から吊り下がったシャンデリアだけでは不十分な光源を補うための読書灯は飾り気のないデザインで、質のいい万年筆には丁寧に使い込んだ跡が見える。積み重なった書類、硝子製の文鎮、唐草模様が彫り込まれた真鍮のペーパーナイフ。それらが規則正しく並んだ己の居場所に青蜘蛛は吸い込まれるように近づいて行く。
 黒く染色した革張りの椅子は彼の体躯に合わせて特注で作らせたものだ。頑丈な木目に掌を沿わせて引き出し、薄く長い吐息と共に腰を下ろす。ほとんど崩れ落ちるように背もたれへと全体重を預けて足を伸ばすと、ようやく人心地着いた気がした。
 頭が、目が、耳が疲労している。思考は散漫で覚束ない。倦怠感が全身を支配していた。
 ずるりと背もたれにかけた体重が落ち、踵が絨毯を滑る。抵抗する気力もなく自重に身を任せれば、靴裏は程なくして机の壁に当たるはずだった。しかし、予想に反してその行く手はぐにっとした何かに阻まれて直前で押し止まってしまう。
 おやと首を傾げたのも束の間。すぐさま思い当たった青蜘蛛は慌ててその身を起こした。体勢を取り戻してから椅子を後ろに引き、少々苦労して長駆を折り畳むとデスクの下を覗く。
 すると、やはりというか。
 ゴールドの瞳に飛び込んできたのは身を丸くして眠る愛しい獣の姿。薄く上下する胸板、ほんの微かに聞こえてくる寝息。
 柔らかな絨毯で覆われた広い床も程良くクッションの効いたソファも洗いたてのシーツが敷かれたキングサイズのベッドも、彼はすべて自由に使うことができるというのに。狭く暗く埃っぽく、決して快適とは言えないこんな場所であえて眠るのは彼が猫だからという理由以外にない。
 ほぼ無意識の苦笑を口の端に浮かべて、青蜘蛛は太い両腕を眠る猫に向かって差し伸べると、躊躇なく両脇に掌を差し入れ、いとも簡単にずるりと引きずり出す。異形の怪力によって、軽々と目の前に宙吊りにされても彼は一切起きる気配がなかった。
 男娼館Spiderの館主、青蜘蛛の愛猫、シガロ・ゼムン。
 かつては数多の物騒な二つ名で謳われ、裏路地を駆け抜け返り血を浴び、手甲鉤を携えてギルドを束ねた猛者は今やすっかり飼い猫の風情である。拷問によって所々破けた三角形の耳も短く切り落とされた尾の毛並みもいつの間にかベルベッドのような艶を湛え、浅黒く汚れていた指の爪は美しく整い、岩肌のように浮き出た肋も幾許かの柔らかな肉に包まれた。本来双眸があるべき場所を覆う革製のアイパッチは常に新品同様で、着込んだ衣服もデザインはともかく生地は上等。身につけて片時も離すことなかったその武器も今や平気で放り投げ、ただ安心しきったかのように全体重をパートナーの大きな掌に預けて惰眠を貪る猫を。
「………シガロ……!!」
 何を隠そう青蜘蛛は溺愛していた。
 だから彼の全身全霊をもってして行われる抱擁は決して猫を抱き潰すのが目的ではない。ない、のだが、かと言って万力のような圧力で捻じり上げるが如き加減の知らないそれは猫の短い尾を一瞬で総毛立たせ、本能が赴くまま鰐の首筋へと歯を突き立てさせるのには充分だった。
 鈍い痛みは鱗の隙間からじんわりと滲む。
 彼のそれもまた加減というものを知らないのであろうが、たとえ獰猛な獣の名残を残す猫の牙であっても鰐の鎧を突き破ることはできない。無論、痛いものは痛い。だが、青蜘蛛にとってそんなものは痛みのうちに入らなかった。もっと鋭い痛みを青蜘蛛も、また彼も知っていた。これは言ってみれば情事の後に背中に幾筋も走る爪痕や太腿の裏に赤黒く残った鬱血と同じだ。生きていることを実感させるだけの甘く柔らかい、心地良い痛み。
「…ふぉーいうふもりだふぃさま」
 がっちり噛み付いたまま、猫がふがふがと口を開く。どうやらご立腹である。最もだ。
 青蜘蛛は彼の問いには答えず、ただその小さな頭を小さく撫でる。二度、三度、何度も。
 物言わぬ青蜘蛛に何を思ったのか、猫はゆっくりとした動きで牙を離した。言葉よりも余程雄弁に感情を語る耳が下がり、短い尾がぱたんと振られる。青蜘蛛の膝の上にはじんわりとした重みが広がり、今度はちゃんと力を加減してその熱を腕の中に閉じ込める。何度も切望し、ようやく手に入った温もり。ときに爪をたて、牙さえ剥くが、それさえもなお愛しき獣。
「………カルーア、」
 猫が鳴く。その声は心なしかいつもより優しい気がした。青蜘蛛は多くを語らず、彼もまた多くを語らない。欲しいと言ったのは青蜘蛛で、許すと言ったのは猫だ。でも、いや、だからこそ。
「カルーアよ」
 彼の首元から紫水晶に酷似した六つの瞳が光を宿して隙間なく見つめてくる。シャンデリアの薄明かりは星月夜のそれに似て、陰影を落とす鼻筋を朧げに浮かび上がらせた。足りないからこそ如実に表情を作り出し、故にその感情を悟られぬようにと常に弧を刻む唇が青蜘蛛しか知らぬ形を描く。ほんの一瞬。それはまたたきの合間に消え失せて、青蜘蛛がたじろぐ間もなく目と鼻の先へと迫る。唇が触れてしまうかのような至近距離で開き、言葉を紡ぐ。
「今夜くらいはお前の好きに抱かれてやってもいいぞ」
 まるで蝶を捕らえる蜘蛛の巣のような、その囁きに。
 三半規管が狂うかのような錯覚。くらくらと回る脳とちかちかと明滅するまぶた。最早どちらが捕まったのかなんて、そんなことはどうでもよかった。
 ただ、ただ、青蜘蛛は言葉を失い、柔らかにしなる猫の身体を抱きしめて、その肩口に熱っぽい息を吐く。あいしてる、とうわ言のような呟きに猫はごろごろと満足げに喉を鳴らしたようだった。


2015.04.10

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