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食欲性恋愛衝動 3

 悲鳴のような泣き声はこの世の終わりのように響き渡り、ある者は苛々を募らせ、ある者は不安定になり、ある者は胃痛を悪化させた。他方、館を取り仕切る役目を持った男はといえば、眉間に深い皺を刻んでいつものように仁王立ちで腕を組み、鋭い視線をその対象に投げかける。
 格子の向こうには恥も外聞もあられもなく泣きじゃくる一人の異形とその前に横たわる「何か」。残念ながらそれがかつての男爵とすぐに判別できる者はほとんどいなかっただろう。何しろ硬質で荒々しくも傷一つなかった灰褐色の鱗に覆われた筋肉質な身体は最早見る影もなく、底光りする美しい虎の目のようなイエローの瞳の輝きは消え失せて白濁し、そこにあるのは辛うじて巨大な蜥蜴の骨格にカサカサに乾いた鱗と皮が張り付いた「何か」だったから。
 よくよく見ればその喉元には大口径の銃弾が貫通した痕のような穴が二つ空いていた。そして、目を真っ赤に腫らして泣き喚く男娼は唇も喉も胸元もすべてを赤黒く染まっていた。乾いた血液の色は独特で、隠しようもない鉄錆の匂いが狭い檻の中の悉くにこびりつくように充満している。
 青蜘蛛はますます眉を顰める。男娼の泣き声にでも、その光景の醜悪さにでもない。優秀な商品を一匹失った。その失態が彼の表情を歪めていた。皮膜の翼を持った異形。時折、客の喉元に喰いかかる悪癖。それはつまりこういうことだったのだ。吸血蝙蝠。隠された牙は本能のままに奮われたとき、強靭な爬虫類の鱗でさえ突き破る。
「……如何いたしましょう、青蜘蛛様」
 背後に控えていた執事の役目を負う男が問う。青蜘蛛は細く深いため息をつき、変わり果てた大蜥蜴とまるで未亡人気取りの男娼を見やった。つんざくような泣き声は確かにこちらの気まで滅入りそうだ。彼はきっと理解していない。己の手が己の愛するものを壊したことを。だから、泣く。奪った誰かが憎くて、奪われたことが悲しくて。何も知らずに泣くのだ。それがただ性の玩具として生まれ、育った美しい商品の末路だ。
「轡を噛ませてレオナルドにでも充てがうか…」
「二◯六のライオンですか…折角の二つ穴が持ち腐れのような気もいたしますが」
「…そうは言ってもな…」
 そうは言っても男娼館Spiderに性器を二本持つものなど他にいやしない。男爵がその唯一無二であったのだ。これほど大型で人間に従順な蜥蜴または蛇の類いは探そうと思ってもそう簡単に見つかるものではないだろう。だからこそ、痛い。痛手だ。はっきり言ってメルキュリアよりも男爵の方が価値は高かった。美しく白痴のごとき男娼は探そうと思えばいくらでもいるし、作ろうと思えばいくらでも作れるのだから。
「………頭が痛いな…」
「とりあえず一旦、彼には麻酔でも打ち込みましょう。うるさくてかないません」
 とてもそうは思っていないような涼しい顔で執事が踵を返そうとしたところに、バタバタと騒がしい足音が響く。檻の中から視線を外せば、従業員の一人が息を切らせて駆け寄ってくるところだった。その瞳には驚愕と恐怖が混じり合い、普段は快活なその表情もどこか引き攣り強張っていた。青蜘蛛が何事かと眉を跳ね上げる間もなく、彼は勢い込んで話し出す。
「青蜘蛛様!た、大変です!十日前の身体検査の結果が届いたんですが…」
 そこで大きく息を吐き、男は喉を鳴らした。その手に握り締めた書類を差し出す手は震えている。
「その男娼……有翼異形のメルキュリアは妊娠、してるそうです…」
 瞬間、青蜘蛛は彼が手にしていた書類を奪い取った。素早く目を通してみれば、確かに特記事項の欄には医師の筆跡で「懐妊 経過約三週間」の文字が震えるように踊っている。
「馬鹿、な…たとえ両性とはいえ有翼異形はほとんどが生殖機能を持たないはず」
「ええ。それに入館前の検査では確かにメルキュリアにそういった機能がないという確認が取れています」
「……では、どうして」
 なぜ。沈黙が地下空間を支配した。気が付けば先程まで留まることを知らなかった泣き声が止んでいる。誰の声もしない。何の音もしない。突如訪れた静寂に三者は思わず顔を見合わせ、恐る恐る檻の中に視線をやった。
 そこには。
 確かに先程まで泣きじゃくっていたはずの。まるで子供のように、子供でしかないように、知恵もなく、理性もなく、ただの無知な蝙蝠が紫電の瞳をひたとこちらに見据えて、笑みしか思い出せぬその顔にすべての感情をこそげ落としたかのような無表情を張り付かせ、じとりと誰ともなく視線を合わせたかと思えば、唐突になれど鮮やかに弧を刻んだ笑みをその真っ赤な唇で形どり。
 嗤う。
 笑う、嗤う、嗤う。
 紅の半月、迫り狂う夜の如きそれは蜥蜴の瞳の刃に似て非なる。歪んで乾いた唇と真暗な穴から覗く軟体動物のような舌が蠢いて、意味を持たない言葉を作り、ただ発す。

「ないしょ」

 それきり彼は何も喋らなかった。
 舌足らずながらも雄弁に語った口は二度と開かれず、ただ隆起した小山のようなつがいの骸にそっと身を寄せる。銀の髪がはらりと落ち、その背にはためく皮膜の翼が揺れた。この身の上に語ることなど何もない、と言わんばかりに彼はただ幸福そうに乾いた鱗にキスをして、愛しそうにまだ薄くぺしゃんこな腹を撫でさする。
 そこから果たして「何が」生まれて来るのか。
 誰にも検討がつかなかった。種付けした男爵も然り、そしてひょっとしたらメルキュリア自身も。けれど母親が生まれてくる子の顔などわからずとも心の底からの愛を口走るように、その横顔は根拠のない慈愛に満ちあふれているように、少なくとも薄闇の真ん中ではそう、見えていた。


2015.04.09

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