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食欲性恋愛衝動 1

 物音が遠くから近づいてくる。なんだろうか。給餌の時間にはまだ早いはずだ。
 目を開けると目の前には常と変わらぬただ薄っすらとした闇だけが広がっていた。ほぼ無意識のうちに舌を素早く出し入れすると、二股に別れたそれは鋭敏な嗅覚をいかんなく発揮し、嗅ぎ取ったのは見知った男の匂いが二人分とそれから見知らぬ生き物の匂い。鉄錆の生臭さ、金属の冷えた香り、規則的に吐き出される二酸化炭素、密林で花を咲かせる原色の植物のような甘ったるさ。それらが混ぜこぜになって、何と例えることもできないが、少なくとも未知であるということは間違いなかった。警戒心が鎌首をもたげ、床を刺す鉤爪に自然と力がこもる。きろりと虚空を睨めつけてもそこには無機質な壁があるだけなのだが。
 一方、どこか緊張感のない男らの声は幾度か反響を繰り返し、徐々に鮮明になって耳に届き始める。
「中古なんだと」
「へー綺麗な身体してんのにな」
「そりゃ異形なんだから、ちょっとやそっとじゃ外見は傷物にならんだろ。ただ、あそこはガバガバだっていうから前の店で相当ハードなプレイさせられてたんじゃねえか?」
「ははあ。それで男爵にね」
 二人分の靴音にガラガラと耳障りなのは四輪の車輪が作り出す歪な轍。
「そう。しかも普段おとなしいくせに妙な癖があるから、普通に客取らせるには難ありだって聞いたぜ」
「癖?」
「殺しちまうんだと。相手の喉元食い破って」
「……青蜘蛛様はさ、いつもどっからこんなウリモノ探してくんだろうな…」
「さあ?」
 灯りが点けられた。人工のオレンジ色をした陽光に予想通りの黒い車輪と台車の先端、それから男らの履いたゴム底の作業靴が浮かび上がる。
 台車に積まれていたのは檻だった。
 部屋と廊下を遮る一つ目の格子と二つ目の格子、それから直方体の格子の三重の鉄の隙間から人と思しき生成り色の肉体が見え隠れしている。嗅ぎ慣れない匂いはそこから発せられているようだった。小さく丸まって眠っているようにも見えるそれは衣服を何も身につけておらず、ゆっくりと上下する肩は薄く、小さな頭を覆う色は伝い落ちる雨のようになめらかで、それでいて硬質な印象も抱かせる水銀。両腕で抱え込んだ腿はひどく痩せ、突き出される格好となった足の裏は驚くほど白く小さかった。
 男らは腰から鍵の束を取り出すと、慣れた手つきで一つ目の格子を開けた。それから台車に積んできた檻を二人掛かりで格子と格子の間に運び込み、一人は廊下へと戻る。それがこの部屋ーもっと正しく言えば、この檻を開ける際のルールだ。万が一にでも檻の中にいるものが外に出ることなどないように万全を期す。そう、彼らは仰せつかっているはずだ。彼らの主人、引いては「彼」の主人から。
「男爵、新しいつがいだぞ」
 男はそう言って二つ目の格子のドアとなっている部分を開くと、運び込んだ檻を傾けた。中に入っていたものは必然的に転がるように檻の中へと落ちてくる。絹糸のような髪が宙を舞い、低い呻き声が男爵と呼ばれた「男」の耳にも届く。
 盛んに出し入れされる舌が聴覚よりも正確にその存在を感じ取る。一見して人の形をしているが、彼は人ではない。わずかに混ざる獣の匂い、気配。薄い肉付きの背で小さな小さな皮膜の翼が頼りなく淀んだ空気をかき混ぜる。それが飛行に適さぬことは誰の目から見ても明らかだった。そして、それこそが有翼の異形の証。人と獣の混ざり合った新人類。この街で、世界で、人に代わって隆盛を誇る新しき種族。
「ん、むう…」
 薄く開いた唇から声が漏れる。推察していたよりもわずかに高い印象。
「…ここ、どこ…?」
 拙い言葉、とろんとした口調。きょとりと見開かれた薄紫の瞳、縁取る睫毛、小さく隆起する喉仏、浮かんだ鎖骨、肋。見た目からしてすっかり成人した男性のはずだが、むくりと床から身を起こし、手の甲でまぶたをこする様子はひどく幼い。歪な爪の形は自分で噛み切ってしまうからだろうか。彼から得られる幾つかの印象は成熟しきった身体とは実にミスマッチだった。
 髪と同じ色の下生えに萎えた男性器、その奥には有翼の異形に特有の女性器も備えているのだろう。否、逆に言えば、そうでなくては務まらないのだ。
 男が男を買う、ここ男娼館Spiderのセックスショーの花形、男爵ことアイランドインペリアルドラゴンのつがいの相手など。
 男爵はあくまで紳士のつもりだが、全長五メートルを超える大蜥蜴の交尾に耐えられる男娼はたとえ異形であろうとほとんどいない。これまで幾人を相手にしてきたのか男爵も最早おぼえてなどいなかった。美しい少年も逞しい青年も皆、男爵を見ては怯え、恐れ慄き、交尾の際は泣いて許しを請うた。
 いつからか男爵は相手の顔もろくに見なくなった。たとえ名ばかりのつがいと充てがわれようと、誰一人男爵を正面から見て、寄り添ってくれるものはいないのだから。所詮はショーのためだ。当たり前といえば当たり前なのだが、孤独はじわじわとその心を蝕んだ。諦観は後ろ足の爪の先まで支配し、やがて生きる気力さえも奪う。
 きっとこの美しい青年も同じなのだろう。その目の焦点がはっきりと合ったとき、彼は悲鳴をあげるはずだ。そして、自分がこの爬虫類とつがう運命を知って絶望するのだ。名も知らぬ幾人もの誰かと同じように。
 胡乱な視線は散々中空をさまよって、ようやく地べたの男爵に定まる。大きな菫色の宝石のような瞳は安っぽいライトに照らされてもなお美しく、いつものことながらこんな生き物が壊れていく様を見るのは気が重いと男爵が人には計り知れぬ心中を人知れず押し込んだときだった。
「わ、あ…!」
 それは悲鳴ではなかった。悲鳴ではないどころか、どこか歓喜の色が混じっていた。想像していたのと異なる展開に男爵が顔を向けるまでもなく、いつの間にか床を這って近づいてきた男娼の顔が間近に迫る。こんな至近距離に自ら近付かれたことなど記憶にある限りほとんどない大蜥蜴が思わず後退すると、彼は満面の笑みを浮かべ、会話を試みてくる。そう、それは確かに笑みで、言葉で、会話だ。
「あなた!あなた、だれですか?ぼくはメルキュリア。メルーって、呼んでね?」
 屈託なく笑う。彼は恐れてなどいない。否、おそらくわかっていない。彼はわからないのだ。男爵を、大蜥蜴という生き物を、これから自分の置かれる境遇を。
「あなた、お名前は?」
「……男爵」
「だんしゃく?…難しいお名前ですね?」
「…バロンと呼ぶものもいる」
「バロン?バロン様?」
 途端、彼は顔を輝かせた。バロン様、バロン様とはしゃぐ様子は本当の子供のようで男爵は静かに混乱していた。彼は心と身体の成長の速度が噛み合っていない。壊れたバランスを無理矢理美しい器に閉じ込めた異形。そんな相手を充てがわれたのは初めてだった。人間はみな怯えるか怒るか逃げるばかりだと思っていたのに。
「バロン様、」
 黙した大蜥蜴をなんと思ったのか、彼の華奢な指先がそっと硬い鱗に触れてくる。かつんと鳴った爪から香るのはどこか郷愁を誘う甘い甘い匂い。唇によって刻まれるのは妖艶とも表現し得る、笑み。
「メルーをどうか、可愛がってくださいましね?」
 幼い印象は瞬時に成りを潜め、それは突然花開く。
 男爵もまたすぐに理解した。彼は人間ではなく、ましてや子供でもなかった。それが本来何であるかも知らされず、ただ快楽に従って本能のままにまぐわうことしか知らぬ。男娼。それこそが彼自身を表す最も適切な言葉であり、そして、すべてだった。

2015.04.09

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