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宵々夜の花嵐8

 どうやって此処まで来たのか、月草には道中の記憶がさっぱりない。
 気が付けば月草のしがみ付いた戌神は森の中に忽然と現れた岩肌に開いた洞穴に滑るように入って行くところだった。夜の気配とは違う湿った空気が身を包みこむ。しんと静まり返った暗闇。何処に何があるのか夜目の利かない月草にはさっぱりわからない。しかし、入口付近から奥に進むにつれて何となく雰囲気が変わってきているのはわかっていた。最初は剥き出しの岩肌しか見えなかったものが、段々と綺麗な平面の壁や床へと変貌し、置かれているものの影も文机や椅子、樽や籠など、明らかに人の手が加わったものになっている。
 此処は何処なのだろうか。月草を運ぶ獣に問いかける勇気もなく、ただぎゅうとその毛皮を握る。
 征嵐は先程からずっと無言だ。それは出会った当初から饒舌とまではいかないまでも、陽気ではあった彼にしては至極珍しいことである。声をかけがたい雰囲気、とでもいうのかそれを意図的に出しているかのようにも思える。ましてや今や征嵐の姿は月草のよく知るそれとは異なっていて、そうでなくとも少し緊張してしまうというのに。
 前を見据えたままの金瞳をそっと見遣る。右目だけの残る眩い光。四足の姿となれば鋭利さを増し、比喩ではなく獣染みた金色をそれでも月草は美しいと思う。綺麗な、色。愛しい、「人」。
 月草が瞳を閉じるのと同時に獣の動きは停止した。
 目を開ける。一体どうやって洞窟内を移動したというのか、そこは立派な部屋だった。やはり岩肌を繰り抜いたような長方形の部屋には立派な寝台があり、机があり、椅子があり、ごちゃごちゃと何やらわからない箱や宝物や布の塊が隅っこに置かれている。更に壁には格子の嵌った窓が三つあり、そこから月の青白い光が差し込んでいた。たぶん波璃が使われているのだろう。少し大きな町でも滅多に見かけない貴重品を惜しげもなく使った内装に月草が眼をぱちぱちとさせる。これではまるでちょっとした宮殿だ。
 しかし、そんな月草の戸惑いなど察した風もなく獣は音もなく大理石の床を歩み、寝台の傍へと近づいて止まった。降りろ、ということだろうか。やはり一言も発さない獣に何処か不安な気持ちを募らせながら、月草は跨っていた戌神の背から降りる。足裏が床へと着地した瞬間、冷たい温度と共につきと小さい痛みが走った。先程まで興奮状態だったせいで忘れていた痛覚が甦っている。恐らく裸足で山中を駆けたせいでたくさんの傷が走っているのだろう。よく見れば足の甲や太腿にまで血が滲んでいた。
 そんな月草の様子に気付いたのか、征嵐がつと踵を返す。やはり何も言わないが恐らく手当の道具でも持って来てくれるつもりなのだろう。緩やかに風が動いて蒼黒の毛皮が揺れる。無言。月の光。その後姿が、月草は無性に、寂しくて。辛くて。

「あ…」

 思わず伸ばした手が征嵐の尻尾を掴んでいた。ふさふさと一際長い毛に覆われた太い尾は居心地悪そうに月草の手の中で身動ぎする。だが、やはり当の本人は声一つ発さない。ただ、無言の抗議をするように。此方を見つめてくる金瞳に。月草も、覚悟を決めた。きゅ、と指先に力を入れて自分の二倍三倍もある獣を引き留める。

「征嵐様、」
「…悪ぃ」

 語気を強めて呼んだ名に謝罪に言葉を被せられて戸惑う。どういう意味なのかわからない。月草は征嵐に謝られる理由などあっただろうか。瞬きを繰り返すと、その隙に征嵐がするりと月草の手から逃れ、此方に向きなおった。古傷のせいで開かない左目。何を考えているのかわからない獣の表情。鋭利な金色の瞳が揺れる。

「わかってたんだ。あの狐がお前を狙ってること。でも黙ってた。それでお前を恐ぇ目に合わせた。本当に、悪かった」

 獣の視線が月草の首筋に注がれる。
 恐らくそこには影に圧迫された跡がくっきり残っているのだろう。
 眼を見開く月草に何を思ったのか、獣は続ける。

「見ただろう?俺の本性を。獣の性を。見ての通り、俺はお前とは違う種だ」

 獣は低い声で続ける。

「戌神は山に棲む妖の中でも最上位。俺はこの桂山を主として辺り六山を治める蒼黒の血を継ぐもの」

 告げられた事実に身が竦む。
 そうだろうと思っていたことを改めて本人の口から語られるのはまた心情が異なった。戌神。山を護る自然の化生。人は戌神を祀り、敬い、距離を置く。山が人にあって危険なものでないように祈る。故に大妖。故に神。震えた脚はその名の重きにかそれともその声の重きにか。

「月草。お前をあんだけ恐い目に合わせといて虫の良い話をしてることはわかってる。獣の身をもって人の身をもつお前に無体な話をしてることもわかってる。けどな、もうあんな目にはあわせねぇ。お前が辛いと思う事や痛いと思うことは全て、全てだ。俺が振り払う。だから、」

 迷いを振り払うように戌神は厳かに言葉を告ぐ。獣の身をもち、山を治める神は金色の隻眼を真っ直ぐに月草へ向ける。

「我、戌神の血族頭として御頼み申し上げる。
 我が一族と我が山神の繁栄が為、我と契りを交わし、我と夫婦めおとになられんことを」

 そう、言って。
 真摯に告げる言の葉に声も出ない。まるで夢のようで。彼に出会うまでは思いもしなかった。自分が、ただの役立たずの妓女である自分が、こうしてこんな温かい気持ちに包まれる日が来るなんて。ただ愛しい。恐らく心のある辺りがとくとくと優しく脈打って、酷く温かった。指先がやんわりと痺れる。溢れだす想いの行き場を探すように。勿体ないほどの言葉を受け止める準備するように。
 黙ったままの月草に不安を募らせたのか、あれほど凛々しく求婚の台詞を告げた征嵐が急に忙しなく尾を振りだす。はさはさと空気を払う尾が言葉も表情もない彼の気持ちをこれ以上にないほど代弁していて思わず月草は笑ってしまった。
 するとその拍子に眼尻からするりと涙が一粒零れ落ちる。目敏くそれを見つけた征嵐がぎょっとしたように動きを止めた。一度零れた涙はやはり止まらなくて、先程あれほど泣いたというのに次から次へと月草の頬を伝った。

「ど、どうした!?な、泣くほど嫌か!?ああ、ちくしょ…なんで俺はいっつもお前を泣かせちまうんだ!」
「…違います、征嵐様」

 立派な巨躯を持つ彼が慌てる姿が面白くて思わず笑い声まであげながら、月草はやんわりと首を振る。涙には種類があって。月草も今の今まで知らなかったのだけれど。悲しい涙や悔しい涙とは全く異なるこの温かいもの。くすくすと笑いながら指先で涙を拭う月草を何事かわからない様子で獣が見ている。微笑。笑みは、もう止められない。

「これは、嬉しくて、泣いているんです」

 貴方の気持ちが嬉しくて。貴方の言葉が嬉しくて、泣いているんです。
 愛しい人。生まれて初めて恋した相手と想いが通じて夫婦になれる。これほど幸福なことがこの世にあるだろうか。
 半陰陽の妓女。生まれた瞬間から科せられていた枷。母親の腕を知らない。父親の掌を知らない。けれど、それが一体何の不幸と言えるだろう。ずっとずっと下を向いて、瞳を伏せて生きていたのは、月草自身。その手を引いて、前を向けさせ、空を見上げさせてくれたのは彼。何時も物憂げに眺める空は霞がかった月が、まるで月草自身のように儚く青白い光を発しているだけかと思っていたけれど。でも、そこには晴れ渡る蒼穹、眩いばかりの金色の太陽、煌めく星々に、日々欠けては満ちる月の姿。まるで夜を見守るように。月は欠けてもまた、満ちる。

「大好きです、征嵐様」

 息をのむ気配。

「私、貴方の妻になりたいです」

 出来得るなら。
 こんな私でも良いと言ってくれた貴方に有りっ丈の言葉を。

「貴方の子が、生みたいです」

 有りっ丈の愛を。

「………月草、目ぇ閉じてろ」
「え?」

 低い声が聞こえ、こぼれる涙を拭っていた月草はその言葉の意味を理解する間もなく、強い力で逞しい腕に抱きしめられる。嗚呼、温かい。触れ合った場所から温度と鼓動が溶けるようで。心地良い力に月草が目を細めると、頭上から降ってきた言葉が雰囲気を一瞬でぶち壊す。

「絶対開けるなよ。俺今素っ裸だからな」
「えっ!?」
「俺は戌神だってことに誇り持ってるし、人になりてぇとは今までもこれからも全く思わねぇが、お前を抱きしめる時だけは自分が四つ足だってことを恨むぜ…!」

 獣の姿じゃこんなことできん、と憮然と告げる声が本当に不機嫌そうで。本当に子供みたいな人だと月草は再び笑みをこぼす。言われたとおり目は開けない。でもその分触れた肌から想いが伝わって行くようで。

「月草、」

 彼の低い声が落ちる。真摯な声は優しくて逞しい。月草の好きな声。

「俺は人じゃねぇが絶対にお前を幸せにする。苦労はかけねぇ。約束する」

 約束。それが絶対だと信じられない時が月草にもあったけれど、でも、今ならば素直に信じられる。この人は嘘をつかない。何よりも誰よりも優しいから。この腕がこうやって月草を抱きしめる力はきっと変わらない。それこそ二人の命運尽きるその日まで。そっと未来を想う。何年後、何十年後のその先に。どうなっているかは神であろうとわからないけれど。でも、陽の当たるその場所にこの人と自分と。そして生まれた子たちが笑っていてくれたら。それで。それだけで、月草の一生は満ち足りたものになる。
 ゆっくりと腕を伸ばした。こうして何度も抱き締められたりしたけれど、今初めて月草は自分から彼の背へと手を伸ばす。そっと触れたのは逞しい素肌で。ぎゅと力を込めれば感極まったような抱擁のお返しに。また一粒、嬉しい涙が溢れた。


2008/12/20

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