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宵々夜の花嵐7

 無意識の内に後退しようとして背後にある大樹に気付く。男は相変わらず薄笑いの表情を浮かべて、まるで体重など感じない足取りで森の中を進んで来る。小枝を踏み折る音さえ聞こえない。生き物の気配に満ち溢れながらも静寂が支配した空間に男の笑みが浮かんでいる。

恐い。途轍もなく、恐い。

それは直接肌に刃を突き立てられているかのような極度の緊迫感。向こう側が見えない闇の奥から血まみれの腕が伸びているかのような、直接的な恐怖。治まりかけた鼓動が再度脈打つ。今度は走ったからではない。ただ、男の気配に飲まれている。足が竦んで動かない。逃げようとも逃げられない。予感ではなく、予想ではなく、月草の直感が現実を伝えていた。

「探したよ」

 ねっとりした声が辺りに響き渡る。何故此処に、というのは愚問であろう。最早この男―柳という名の男が尋常ではないということは月草にもよくわかっていた。恐らく人の常識は通じない。こんなもの、人では有り得ない。男の今にも消え入ってしまいそうな薄い瞳から目が離せない月草はただ縋るように後ろ手で大樹を掴み、崩れ落ちそうになる膝を支える。鳥の声が一切聞こえなくなった。葉が掠れる音すらしない。無音の夕日に照らされた森の中を、男の声が打つ。

「本当はもうちょっと遊びたかったんだけど…籠から出ちゃったんならしょうがないよねぇ」

 相変わらず間伸びした喋り方をする。糸のような瞳は益々細くなり、けれど獣のような鋭さを増して、月草を見遣る。明らかな舌舐めずり。唾を飲み下した音が思ったよりも大きく響いた。恐い。声が、出ない。
 しかし、男は震え上がる月草を気に留めてもいないのか、まるで世間話でもするかのような気安さで語りかけながらどんどんと近づいてくる。どんどん、近く。

「君、きっと自分では気が付いてないんだよねぇ?」
「………な、」
「本当に良い匂いがするんだよ。香ばしい匂い。甘い匂い。爽やかな匂い。色んなこと言う奴がいるけど…まあ私は何でも良いと思ってるけど」
「に…いって、…」
「だからさ、私たちにとって大層美味しそうに見えるって訳だよ」

 目前ににやついた笑いが張り付く。
 影の気配が近づいて、呼吸が勝手に止まりそうになる。
 冷たい腕が伸びてくるような幻覚。
 男は、はっきりと、嗤う。

「―――――」

 男の影がじゅるりと動いた。それは最早月草には視認し難い現実。男の人としての姿が崩れたかと思えば、まるでその中から這い出してきたかのような暗闇が信じられない素早さで手のような形を形成すると、月草の首にはっきりとした意志をもって巻き付いた。
 逃れる間もなく、強い力で気管を狭められくぐもった悲鳴が漏れる。息が出来ない。黒い影がゆらゆら揺れる。見遣った先に爛々と光る眼球が二つ。それから涎を垂らした無数の牙しか見えない口のようなものが見えた。全体像など伺えない。それはそう、ただ闇と称するしかないような。獣と称するしかないような。そんな朧げで、けれども何て恐ろしいもの。ただ生臭い匂いが鼻の先を掠める。
 ぐっと首を圧迫された。男の籠った笑い声が楽しそうに響く。何が楽しいのか。男は笑う。月草は今正に死にかけているというのに。死。実感としてわき起こる昏い予感にぞっとした。死。死んでしまうかもしれない。否、このままでは確実に月草の意識は遠のき、そして、遠のいた瞬間、終わりだろう。終わってしまうだろう。何もかも。

「大方あの犬もこれ目当てだろうけどさぁ」

 影が喋る。犬?何のことを言っているのだろうか。

「籠から逃げちゃったんじゃあしょうがないよねぇ」

 言葉が噛み合っていない。白痴のような喋り。

「犬に盗られるくらいなら先に喰べちゃおう」

 楽しげに楽しげに。凶悪な牙と瞳が、それだけが、嗤う。

「ね?」

 意識が遠のく。手放してはいけないと訴える理性とは裏腹にどんどんと視界が剥離していく。黒い影。息が出来ない。走馬灯が頭を過ぎる。短い生涯。月草は果たして何を思って生きてきたのだろうか。妓楼という鳥籠で生まれ、月夜の下で育った十何年。楽しかったことなどないように思えた。嬉しかったことなどないように思えた。毎日が茫洋として、儚くて。息をひそめてじっとして瞳を伏せて。
 嗚呼、けれど積み重なった灰色の年月の内でも光り輝く場所がある。それはつい先日のこと。温かい言葉。温かい腕。初めて知ったそのぬくもり。嬉しかった。楽しかった。優しい笑みが浮かんでは消える。美しい金色が明滅する。しにたくない。そう思った。

 嗚呼、そうだ。死にたくない。

 月草は「死にたくはない」のだ。「まだ生きていたい」。まだ、まだ、何もしてない。お礼の一つも言えていない。想いの一つも伝えていない。こんな私を、好いてくれて。こんな私を、抱きしめてくれて。こんな私でもいいですか、って。言えていない。言えていない。伝えたい―!
 限界の状態で月草の口が動く。それは締め上げられた首筋のせいで全く音にならなったけれど。ぎこちなく動く唇が想いを作る。ただ、一人、青白い月の願う想い人の名。

 放たれた、途端。

 漆黒の影が連れてきた突風と共に月草を締め上げていた万力の圧力が消えた。
 急に呼吸が出来るようになってひゅうと気管が音をたてる。土の上に膝を付き、噎せ込みながらも息をする。随分久しぶりに空気を取り入れたような肺が悲鳴をあげた。指先の感覚が徐々に戻る。生きている。実感するような痛み。まだ、月草は呼吸して、瞳を開けて、確かにそこにいた。
 白くなるほど拳を握った月草の傍に何か巨大なものが降り立つ。一瞬、何がそこにいるのかわからなかった。それほどに巨大で雄々しい。蒼黒の毛皮は艶やかで訪れつつ宵闇の気配を纏わせて、太い足はしっかりと大地を踏みしめて、鋭利な爪を備えた前足は一薙ぎで月草など吹き飛ばしてしまいそう。とがった口先。鼻面には皺がより、怒れる唸り声が空気を震わせる。剥き出しになった牙はまるで槍の穂先のようで、貫かれればまず無事では済まないだろう。
 しかし、何より月草が目を奪われたのはその瞳。ぴんと立った三角形の耳の下。鋭く輝く金色は右目だけ。左目のあるべき場所には大きな裂傷が走り、その光を奪っていた。その姿。思い浮かべるのは一人しかいない。
 まさか、と思う間もなく、巨大な犬―と呼ぶのもおこがましいだろうか。その姿は正に伝説に生きる山の守り手、戌神であり、獣の姿を模した神は強い力で地を蹴ると高く高く跳躍した。
 その巨躯に似合わぬ動きを慌てて月草が眼で追うと、中空には先程まで己を死に追いやろうとしていた黒い影。それは遠目で見れば何となくおぼろげな、不明瞭な獣の形をしているように思えた。尖った鼻先、大きな耳。光る瞳に貪欲な口元。犬と言われればそのようにも見えるが、それはもっと華奢な痩躯をしていた。あれは、狐?
 目を凝らすより早く獣の咆哮が響いた。
 本能を直接揺さぶるような怒りと威嚇。思わず耳と目を塞ぎたくなるの堪えて月草は黒い影と蒼い獣を追う。中空を駆ける二匹は互いに絡み合うように牙や爪を交錯させる。唸り、唸り、また唸り。何が起こっているのか、徐々に闇が迫りつつある森の中では月草にはちっともわからない。ただ必死に足がもつれぬようにその姿を追うのに精一杯で。ただ、予感は確信へと変わりつつあった。影を打ち倒す獣。月草を守るかのように立ち塞がった逞しい戌神が「何」であるかを。

 咆哮。

 一際大きな声。見上げれば一塊りになった二匹の獣が今まで解放されていた重力の戒めに捕まったように、緩やかに落下していくところだった。あ、と悲鳴にもならない声が出る。ずしんと地響きを響かせて飛び散る泥。はらはらと舞い落ちる常緑樹の葉。月草が眼を凝らせばそこには落下など気にも留めぬよう縺れ合う獣。牙を剥き出し、瞳を見開き。互いの牙が何度その肉に食い込んだのか。互いの爪が何度その肉を切り裂いたのか。風が吹けば香る血生臭い匂い。勝手に足が震える。見せつけられる獣の本性に恐怖しているのも確かだけれど。でも、それよりももっと。
 守られている。守っていてくれている。
 二匹の闘争は壮絶だったが、それでも見ていればわかる。影と獣の力の差は圧倒的だった。太い牙が影の尾を食い千切る。悲鳴。刀剣のような牙が影の喉元を狙って抉る。悲鳴。断末魔の如きそれに月草の心は縮みあがり、膝が崩れそうになったが、それでも尚。月草は目を見開いていた。まるでこの様を見続けることが己に課せられた使命であるかのように。

 迸る血飛沫。
 闇夜に昇る赤い月。
 獣の唸り。
 怒り、威嚇、痛み、恐怖、本能。

 何度影の悲鳴を聞いただろう。やがてどれほどの刻が過ぎたのか、気が付けば辺りは急速に静けさを取り戻していた。戌神がしっかりと咥えて離さぬのは影の獣の喉元。食い千切られ、引き裂かれ、ぼろきれのようになった狐を仕留めた犬はまだ興奮冷めやらぬのか荒い呼吸を繰り返していた。その鼻先も喉元も返り血にまみれて濡れている。恐らく戌神自身はほとんど傷を受けていないのだろうけれど。それでも痛々しい闘争の跡。

「…征嵐、様…?」

 なるべく平静を装うと思った声はそれでも震えた。はっとしたように獣が耳を立て、その口から獲物を離す。とさっと驚くくらい軽い音がした。そこに転がる死とそれを与えた牙と。壮絶な対比。噎せ返るような獣と血と臓物の匂い。

 一瞬、月草はどうすれば良いのかわからなかった。

 迷った。あの獣は確かに征嵐だったが、鋭い金色の瞳はまるで彼を化け物のように見せていた。優しかった腕はない。そこにあるのは爪の付いた巨大な前足で、今もまだ濡れた血で赤黒く染まっていた。恐い。そんな感情が胸を過ぎらない訳もない。想い人が獣だったなんて今この目で見ていても、本当に信じられない。
 そんな思いが、迷いが、相手に伝わってしまったのだろうか。隻眼の獣は月草を窺うように見つめた後、ふいと踵を返した。ゆっくりと長い毛に覆われた尾が波打つ。その後姿。それを認めた瞬間。月草は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、一瞬でも彼を恐ろしいと思った自分を心の底から詰ってやりたい気分になった。

 最初に月草を認めてくれたのは彼なのに。
 半陰陽でも構わないと、惚れていると、言ってくれたのは彼なのに。

 愛してる、って。

 言ってくれたのは彼なのに。彼なのに。彼なのに。
 彼は、誰でもない。
 たった一人、月草が愛しく恋う相手。

 名は、征嵐。
 意は、嵐を征するもの。

「待って下さい!征嵐様!」

 追いかけようとして足が縺れた。あんなに走っても淀みなかった足が縺れて、思い切り月草はつんのめる。しかも運の悪いことに此処は山の斜面で。態勢を直しようもなく、月草は目を見開いたまま目前に迫った地面を凝視する。これは、たぶん、ぶつかったら痛い、だろうな。
 けれど何時まで経っても予想した痛みはやって来ない。気が付けば、月草は逞しい筋肉を滑らかに覆う濡れた毛皮に受け止められていた。柔らかくて、温かい。そこに何時ものように月草を抱きしめてくれる両腕はなかったけれど。嗚呼、けれど、それに何の意味があろう。彼に腕がないのならば、月草が抱きしめれば良い。香るのは煙と大樹と血の匂い。でも、押しつけた毛皮からはどくどくと鼓動の音が聞こえてきて。それが彼の生きている、此処に存在する証のようで。胸がいっぱいになった月草は獣の太い首筋に未だかつてない勢いで抱きついた。

「つ、月草!?」

 彼の慌てた声が聞こえてくる。何時もの低い声。嗚呼、彼だ。間違いなく。月草の愛した、恋しい人。誰よりも優しくて、誰よりも誠実で、誰よりも月草を想ってくれる人。嗚呼、この声が、言葉が月草を自由にしてくれた。月草を、生かしてくれた。じわと瞳の奥の方が熱くなる。勝手に、言葉が、流れ出す。

「せ、らん、さま…!」

 ぎゅうと獣を抱く腕に力を込めた。征嵐と別れてからこれまであったことが思い出される。それは普段の日常からすれば何ということない時間だというのに、まるで一生分の出来事を一気に押し寄せてきたようで。絶望した。拒絶した。生まれて初めて死を現実に感じ、生まれて初めて必死に生きたいと思った。思いは言葉にしたくても出来ず、ただただ涙となって月草の瞳から溢れだす。

「こわ、こわか、たです…せぇ、ら、さま…っ」

 恐かった。恐かった。もうこの人に会えないかと思って。もう、この温もりに触れられないかと思って。何より何よりそれが怖かった自分に改めて気付かされる。本当に、自分はこの人が好きなんだと思い知らされる。だからこそ、今こうしてある温度が嬉しくて、優しくて。尚一層流れ出す涙を止まる術を知らない月草は、ただ獣に縋りついて嗚咽を漏らした。

 まるで子供のようにわんわん泣き続ける月草の頬を、獣がちょっとだけ困ったようにその舌で舐めてくれた。


2008/12/19

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