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宵々夜の花嵐6

 振り返る。予めわかっていたその姿。土色の髪。まるで棒のような痩躯は圧迫感など皆無であるはずなのに、何故か月草の心にこうも恐怖を煽らせる。細い眼から放たれる視線がじっと此方を見ている。血の気のない唇。牙など見えるはずもなかろうに。取って食われるはずもなかろうに。その口がにいと深くいやらしい笑みの形を刻んだ瞬間。

 弾かれたように月草は立待亭の中に逃げ込んだ。

 乱暴につっかけを脱ぎ捨てると耳の後ろまでどくどくと唸っている脈を落ち着けるように胸に手を当てながら、中庭に面した廊下を奥へと進んでいく。
 まただ。確かにあの客は嫌な相手で何時も複数の男を引き連れては月草を辱めるような連中の一人で。けれど、以前はこれほどの恐怖や緊張は抱かなかったのに。何故だろう。どんどんとあの男が月草には奇異のものに見えてくる。たとえば影。それは確かに彼の姿を投影していただろうか。
 それは、果たして人の形であったのか?
 思い出せない。けれど、確かに感じた違和感。可笑しい。何かが。こう思うようになったのは何時からだろう。征嵐に出会ってから?それとももっと以前から?
 自分で自分の体を抱くようにして月草は足早に廊下を奥へと進んでいく。昼下がりの妓楼は閑散としていてほとんど人気などない。恐らく数多いる妓女たちはまだ自分の寝床で眠りの中にいるのだろう。月草もとりあえずはその中に紛れよう。月草と妓女たちの関係は決して良好とは言えないが、それでも一人でいるよりかは集団に混じっている方が余程気は楽だった。
 男のにやついた顔が頭を過ぎる。ふるりと頭を振ってその残像を払い落した。大丈夫。まだ日の高い内からあの男がこの妓楼に入れる訳がない。たとえ客だったとしても恐らく今夜も征嵐はやって来るだろうから、月草にあの男があてがわれることはないはずだ。征嵐様。その名を声に出さずに呟いてみる。不思議と心持ちが落ち着いた気がして、月草はほっと肩の力を抜いた。だが。

「えっ?」

 急に強く腕を引かれて月草は態勢を崩した。視界には一瞬廊下の梁と淀んだ空が映り、果たして流れるように暗転。腕と髪に走る痛み。ぐいっと乱暴な力で引き摺られて思わず月草は顔を顰めた。
 何が何やらわからないまま、放り込まれたのは薄闇の空間。黴の匂いがつんと鼻を突く。視界の端々に映る少々埃をかぶった行李や箱を見るに此処はどうやら今は滅多に開かれることのない物置部屋のようだ。この部屋は寝床に続く廊下の一端にあり、確かに月草はこの部屋の前を歩いていたのだが、勿論こんな処に月草は用事などない。
 どうして。
 埃だらけの床に倒れ込むような格好の月草が状況を理解しようと顔を上げると、目の前には数人の妓女たちが仁王立ちで立っていた。寝巻きと思しき白い襦袢に打ち掛け。それなりに整った身形に整った顔立ちから売れっ子の妓女と知れたが、月草は名前まで思い出せない。つり上がった眦はきつく月草を睨みつけている。嫌な予感がした。背筋に寒いものが走る。こういう表情をした女たちを月草は何度か見たことがある。これは。

「月草、あんた調子に乗ってると違う?」
「わっちらこれでもあんたに同情しとったんよ。
 女でもない男でもない客もろくにとれないあんたに」

 恨み。妬み。嫉み。怒り。
 きりきりと視線が月草を射殺す勢いで刺さって来る。痛い。何か言おうと思うのに声が出ない。痛くて、痛くて、心は千切れそうで。
 そんなことわかってる。月草だって重々承知だ。女でもない。男でもない。客もとれない。そんな自分は明らかに妓女に相応しくないし、妓楼にいる資格だってない。わかっているのだ。何時まで経っても妓女になんてなれない。客を喜ばせることだって出来やしない。

「若様があんたに目かけてくれるんも同情よ?わかってる?」
「あの人も罪な方やわぁ。独りぼっちのあんた弄んで楽しい訳ないでしょうに」

 征嵐様が優しいのだって同情で。同情、で?弄んで?誰を―何を言っている?

「皆言っとる。あの方は方々の娘に声かけて、聞こえの良い言葉ばっか投げて遊んどるってね」
「月草、あんた騙されてるんよ」
「誰にでも言う方なのさ。生粋の遊び人さね」

 冷静に考えてみれば恐らくそれは彼女らの矜持を保つ最後の逃避であったのだろう。自分たちに目も向けなくなった男を貶めることによってどうにか立っていられる脆弱な矜持。普段の月草であれば聞き流すことが出来た。そうですね、と作り笑いの一つでも浮かべて彼女らのご機嫌を取るくらい造作もない。そうすれば何事もなくこの場を脱することができたのかもしれないのに。そうすることは、できなかった。どうしても、月草には、それができなかったのだ。

「…違う」

 自分でも恐ろしいくらい低い声が喉の奥から出た。顔をあげて真正面から妓女たちを睨みつけた。真っ黒い炎のような何かがふつふつと心の奥で滾っている。これは怒り、だろうか。喉がからからに乾いていた。頭の中心が燃えるように熱い。強い光を纏った銀色の瞳に一瞬女たちが怯んだように思えたが、月草にはそんなことを気にしている余裕などない。ただ、言わなければならない言葉が、どうしても言いたい言葉だけが喉の奥で絡み合い、出口を求めて爆発する。

「違う。征嵐様はそんな方じゃない」

 何時も優しくて誠実で少し乱暴な言葉遣いはするけれど、ちっとも根はそんな方じゃなくて。

「あの方を侮辱、しないで」

 笑うと一気に幼くなって。自分の名を誇らしげに語れる人で。眠っている横顔がいっそ愛らしくて。

「訂正―して」

 月草の気迫に押されたのだろうか。妓女たちは一斉に口を噤み、互いに顔を見合わせる。一瞬沈黙がこの場の空気を支配したが、しかしすぐにそれは昏い怒りに取って代わられた。我に帰った妓女たちがこそこそと互いに耳打ちをし、何事かと思っている月草の視界に何処に潜んでいたのか数人の男たちが映る。
 その顔ぶれを見て、月草の顔色が変わった。
 彼らは―下卑た笑いを浮かべて近寄って来るのは以前しばしば月草を指名した男たちだ。彼らは月草を物のように扱い、思うさま辱めて笑いものにする。まるで珍しい玩具だと言わんばかりに。畜生よりも酷い扱いを受けたことだって何度もある。身になかなか消えない傷をつけられたことだって何度もある。無意識に身が竦んだ。恐怖。何よりも本能と感情に直接訴えかける記憶がまざまざと蘇る。
 うろたえた銀色の視線が虚空を彷徨い、妓女の一人が男らと囁き合っているのを見て、聡明な思考は一瞬で理解する。嗚呼、売られたのだ。金のためではない。彼女らの矜持のため。ただ、それだけのために。

 全身から力が抜けた。

 何もかもが空しくて、悲しかった。男たちが何か言っている。恐らく卑猥な言葉でも投げかけているのだろうが、月草の耳にはそれが意味のある言葉となって届かない。諦観が頭のてっぺんからつま先までを支配する。こんな感覚は久しぶりだった。そう言えば最近の月草は以前よりもずっと「普通」に過ごしていた気がする。何につけて気が滅入るのでもない。何処か隅っこの暗闇に向けて消え入ってしまいたいと思うのでもない。恙無く日々を過ごして早くこの一生が終わればいいと思うのでもない。
 大体こうして無理に抱かれること自体、以前の月草であればただひたすら痛みと羞恥に耐えるが如くぎゅっと目を瞑って現実から目を逸らしたはずだ。諦めることは得意だった。得意だった、はずだ。それなのに今、月草は明らかに拒絶したいと思っている―拒絶、しようとしている。嫌だ、と思う。乱暴に掴まれた手首。近付いてくる複数の男たちの息使い。逃げたい。逃げ出したい。心が勝手に疾走を始める。その感情はなかなか体にまで届かない。
 ヤナギ、と男たちの一人が背後に声をかける。ヤナギ―柳?月草の記憶をちらりと掠めるその名。男たちの壁の向こう側。まるで物置部屋とは世が違うが如く澄んだ春先の空気に満ちる庭先に。あの男が。あの、今にも見えなくなりそうな薄い眼をした男が何時ものにやついた笑みを浮かべて。ただひたすらに笑みを浮かべて、まるでその様子が舌舐めずりに見えて。

 ―悲鳴。

 それは恐らく月草が今まで生きてきた中で最も大きな声であり、そして最も強い力であっただろう。最早人の声ではなく、獣の金切り声のようなその声は男たちの虚を突き、その一瞬を月草の本能が見逃さなかった。手首を掴んでいた男を勢いよく突き飛ばし、壁の如く立ちふさがっていた他の男や妓女たちの間をすり抜け、脱兎の如く走り出す。
 背後から怒号が追いかけてきたが、月草はただただ足を動かすことに集中した。裸足の足裏が時折小石や枝を踏んで大層痛かったが、そんなことは気にしていられない。飛び石を踏み、寝床のある建物の横を走り抜け、沈丁花の咲く茂みを割いて、最早すでに立て板が腐ってぼろぼろになっている裏口を肩でぶち破る。そこは野良猫が主に利用するような細い細い路地で、勿論立待亭からほとんど外に出たことなどない月草が道を知り得るはずもないが、兎に角がむしゃらに遠くへ向けて走り出す。

 遠く、遠くへ。

 もう月草には何かを冷静に考える余裕などなかった。何処か遠くへ逃げなくてはという焦燥感ともう帰る場所などないという絶望感。そうだ。月草は帰る場所を失った。一度妓楼を逃げ出した妓女に待っているのは一生の労働を捧げて逃亡の代価を払うか、それとも死をもってそれから逃れるか。行く宛てなどないのに、帰る場所さえ失ってしまった。もしかしたら月草は雀小路一の愚か者かもしれない。否、愚か者、だろう。
 人の気配を避けるように路地裏から路地裏へと走り続ける。足の裏はとっくに鋭いもので傷つけられて、血が滲んでいた。生まれて初めてこんなに走った身体は苦痛の悲鳴をあげている。だが、不思議と心は高揚していた。足は、縺れない。まるで走るために生まれてきたような気がした。生まれた頃から妓楼で暮らしている月草は正直に言って走ることなど数えるほどしかしていないと言うのに。それでも、足は淀みなく動き続ける。まるで歓喜しているようだった。足裏で踏む土の感触。時に冷たく、時に温かいそれを確かめるように走る内、どんどんと民家は少なくなり。町の喧騒は薄れ。

 どれほど走ったのだろうか。

 気が付けば月草は川を渡り、草をかき分け、小川を二回飛び越えて、町を遠く離れた山の中にいた。一刻は走っただろうか。鳴りやまない心臓の音がうるさい。額から伝ってくる汗が邪魔で月草は頭を振るった。長い髪が首筋に張り付いて大層不快だったが、結わえに使っていた紐は何処かで落としてしまったらしい。見れば着物はあちこちに草の種や泥を付け、袂などは大きく裂けて穴が空いている。如何に普段着用とはいえ折角征嵐から貰ったものだったというのに。荒い呼吸のままため息をついて、月草は大きな樫の樹の根元に腰を下ろした。
 何処か遠くで鴉が鳴く声が聞こえる。日は徐々に傾き始め、橙色の日差しを受けた木々は不気味な陰影を作り出していた。深い森の片隅。此処が何処か見当もつかない。少し開けた視界は此処が斜面だからだろう。見る限り道のようなものは見えない。椛、楡、樫、椎。齢何十年とも知れぬ木立が悠然と立ち竦む場所に一人、月草は膝を抱えた。汗が冷えてきて寒かった。息を吐き出せば薄らと白む。

 やっぱり自分は愚かだ。

 改めて立待亭であったことを思い出しながら(それはまるで遠い昔のことのように思えた)月草はもう一度深く息を吐いた。飛び出してきて、逃げ出してきて、一体何がどうなるかと言うのか。月草は生まれた瞬間から妓女となることを決められ、その通り妓女として生きてきた。妓女以外の生き方など全く知らぬ。どころか外の世のこともほとんど知らぬ。こんな森の中、一人生き残れるほどの力をどうして月草が持っていようか。ひしひしと現実が迫って来る。一晩、耐えられるだろうか。春先とは言え空気はまだ冷たい。それは森の湿った空気の中でならば尚更だった。
 必死だったとはいえ、考えなしが過ぎた。もしあのまま抵抗せずにいれば―あるいは。
 しかし、今度は違う寒気に月草は再度膝を抱えた。今の月草には、恐らく他の男に触れられるという事実自体が許せなかっただろう。ただただ恐怖と羞恥が苛むのとはまた違う。僅かに芽生えた矜持、と呼んでいいかはわからぬが、それのようなもの。怒りにも、恐れにも似た想いが。良いものなのかどうか、まだ月草にはわからないけれど。

「征嵐、様」

 ただ想う人の名前が勝手に口から滑り落ちた。彼は今宵も月草の元へとやって来たのだろうか。妓楼から忽然と姿を消してしまった月草を少しでも案じていて、くれるだろうか。そうだったら嬉しいと思う。不謹慎だが、こんな時でも彼が自分のことを考えてくれるているかと思うと嬉しかった。
 一体、月草はどうしてしまったのだろうか。以前はこんなこと考えたこともなかったのに。確かにあの人は優しくて、その掌や腕は月草にとって心地の良いもので。でも、こんな風に自分のことを考えて欲しいとか。想って欲しいとか。考えたことは一度もなかった。ひょっとしてこれが恋というものか。だとしたらそれはなんて厄介なのだろう。まるで甘くて、でも苦しくて。息をするのにも大変なほど。貴方を、想う。

 突如、鳥たちが嘶きながら飛び立った。

 びくと肩を震わせた月草は木立の向こうの茂みが揺れているのに気付く。獣だろうか。大きい。猪や熊に襲われたら恐らくひとたまりもない。ゆっくりと樹を背にして立ち上がる。全神経を尖らせて目を凝らす月草の視線の先。茂みから現れたのは月草の予想に反して人の形をしていた。
 先程とは異なる意味で背筋に寒気が走る。冷汗が噴き出る。どうして、という問いは無意味に思えた。否、「この男」に関して恐らく月草の全ての抵抗や思考が無意味だろう。それほどの圧迫感。
 逢魔ヶ刻。不気味な夕暮れの光に不気味な笑みを浮かべているのは。

 四度、あの男だった。


2008/12/14

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