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宵々夜の花嵐5

 夢を見ていた。
 はっきりとそれが現実ではないと知れたのは、一面に広がる銀色の野原のせいだ。見たこともない草木がゆらゆらと吹く風に揺れている。空は何処までも深い紺碧で散りばめられた金石の如き星が時折ちかちかと瞬いたり、滑り落ちたりした。薄い雲が風に流れていく。月は、見えない。
 月草は夢を見ている。
 酷く実感のある眠りの世界。全ては茫洋としていて現実味がないのに、感覚だけは研ぎ澄まされている。耳の奥に残る穂が実る音。星の明滅。遠く鳴く鳥の声。川蜻蛉の羽音。苔蒸した石の呼吸。
 視界の隅で何かが跳ねる。
 反射的に瞳で追うと長い耳がぴょこりと揺れた。
 全容は見えない。たださわさわと銀色の草を振り分けて、描かれていく軌跡。静寂の野原に風の音。考えるよりも早く月草の足は動きだす。待って。行かないで。置いて、いかないで。訳もわからず泣きたくなる。引き裂かれるような焦燥感。
 走っていたのか、それとも留まったままなのか。気が付いた時には草の跡は絶え果てて、ただ風の音が残るだけだった。さわさわと。白い風が吹く銀の野原。誰の面影もない。ただ一人、月草は立っている。
 指の先が凍っていく。自分は何処にいるのだろうか。それさえわからない。声を出そうとしたけれど、まるで喉の奥に冷たい石でも飲み込んでしまったかのように、開いた唇からこぼれたのは意味をなさない音だけだった。
 誰か。
 誰か。
 誰か。
 泣きたくなった。こんな時での「誰か」しか呼べない自分を。母親。生まれて間もない無防備な嬰児を無条件で抱きしめるその腕を月草は知らない。父親。成長していく過程で心乱れる幼子を優しく撫でるその大きな掌を月草は知らない。誰か。誰か。心の中で呼び続ける「誰か」。誰も来ないことはわかっていて、誰一人としてこの場には現れないと知っていて、尚。
 立ち尽くす月草の純銀に瞬く星が映る。月がない。新月という訳ではない。月の、気配がない。どうしてだろう。 否―どうして自分はそんなことがわかるのだろうか?
 首を傾げた月草の腕をついと誰かが引く。しかし、引かれたと思ったのは気のせいなほど僅かな感触で、次の瞬間、月草は誰かの腕の中に抱き留められた。いや、腕だろうか。それは蒼黒の艶やかな毛並みで湿った土と大樹の幹のような匂いがする。月草は思わず目を細める。嗚呼、なんだろう。頭には確かに「誰か」の名前が過ぎるのにどうしてもそれを思い出せない。まるで思考を剥ぎ取って行くかのような力強い感触。霞がかった視界の隅で低い声が聞こえる。
 行くな、とそれは言っているようで。
 引き留めるその声に逆に引き寄せられるかのように月草は瞳を閉じた。行く訳がない。こんな心地良い場所以外の何処へ行けというのか。手を伸ばしてその色に縋る。どこにもいきません。その声は届いただろうか。ちゃんと聞こえただろうか。銀色の野原。風の音は、もうしない。

 目が覚めた。

 今の今まで夢を見ていたような気がするが、ぼんやりとした頭はその内容まで思い出すことが出来なかった。一瞬自分が何処にいるかわからず、もぞもぞと何時もの癖で薄っぺらい布団を引き寄せようとする。綿がへたりきった薄い布は暖を取るには余りにも覚束無いのだ。
 しかし今日限っては―温かい。寒さなどほとんど感じない。どころか少々月草には温か過ぎて、息苦しささえ覚えるほどだ。徐々にはっきりしてくる頭を働かせて、記憶を手繰る。視界を巡らせれば、目の前には着物の合わせ。明らかに自分とは違う「誰か」の人肌。匂い。己を抱きしめる逞しい両腕は月草のものであり得るはずがなく。

「…ん?起きたか?」

 眠たげな声が頭の上から降ってくる。何時もより低い音程は欠伸混じりで恐らく金色の鋭い瞳の眦に涙でも溜めているのだろうが、それを確認することさえ恐ろしい。引きずり出した記憶とこの状態から察せられる現実は受け入れ難く、月草は頭を抱えたい衝動に駆られたが、しかし今更どうしようもない。
 記憶を巻き戻せばこの男―征嵐が膝枕を所望してきたところまで時間は戻る。
 最初は微動だにせず蒼黒の髪を撫でたりしていた月草だが、一向に寝息をたてたまま目覚める気配のない男に段々と自分も眠りを誘われ。火鉢の中で静かに炭が燃える音。行燈の淡い光。階下や外の通りから聞こえてくる笑い声や楽の音を子守唄代わりに何時しかこっくりこっくり舟を漕いでしまったのだ。そこから先の記憶はふつりと切れ、今正にこの現状となる。
 恐らく月草が寝入ってしまった後に目を覚ました征嵐が気を利かせて、こういう状態にしてくれたのだろう。こういう状態。即ち月草が普段寝床にしている布団とは何倍も厚みの差のあるふかふかの布団の中で男の両腕に抱きかかえられるようにして寝ているこの状態。気を、利かせ過ぎである。
 しかもどうやら時刻は真昼間も真昼間。障子窓を見遣れば透けて通って来る光が完全に明るい。征嵐が寝こけてしまったのは夜半過ぎではあったが、それにしたって半日は過ぎている。確かに月草は此処最近指名を受けることに加えて、以前の名残で引き続き雑務をこなしたりしていて、少々多忙だったから寝不足気味だったのは否めない。しかし、だからと言ってこれは。これは、何というか、宜しくない。

「も、申し訳ありません…っ」

 慌てて布団から出ると畳の上に膝を揃えて頭を下げる。確かに床は妓女の仕事の場であるが、ただ客と正しく真の意味で寝るだけだなんてそんなことは恐らく金を貰えるような「仕事」として成り立ってはいない。征嵐は何時も一晩分の支払いをしてはいたが、月草には一切手を出さず明け方まで飲み明かして帰って行っていた。心の内ではそんな男の態度にほっとしながらも、何処かで罪悪感を抱えていた。妓女として己は失格なのではないかと。それに加えて今日は言うまでもなく失態である。

「月草、」

 布団から身を起こした男の声が聞こえる。こそりと顔を上げると金色の隻眼が「あー」と何かを言いたげに虚空を彷徨い、それからちょいと月草の胸元を指差して。

「見えてる」
「!!??」

 思いきりよく肌蹴た合わせの隙間からは日に焼けたこともない真っ白な胸元。月草は短い悲鳴をあげると、慌てて男に背を向けた。嗚呼もう本当に、本当に。赤くなれば良いのか青くなれば良いのか。最初の夜の大泣きといい、昨夜といい、月草はこの男に醜態を見られ過ぎではないだろうか。何の因果か。何の恨みか。否、悪いのは男ではなく恐らく自分のせいなのだろうけれど。
 必死に襟を正していると、背中から男ががしがしと髪を掻く気配が伝わって来た。絹ずれの音がする。どき、と脈打った自分の心臓の音が何のためかは気付かぬまま。大きな掌が大きく頭を撫でる。ぽんぽんと二回。それは、それは優しい感触で。無条件に瞳を細めて唇を緩めたくなるような、温かさで。

「心配しなくても、何もしてないぜ?」
「…それは、その」
「惚れたか?」
「………………………」
「くく、鉄壁だな。月草は」
「…征嵐様、」

 そう、喉の奥から発せられる笑い声と共にからかうように言われて。流石に不服そうな月草が振り返ろうとすると、それを封じるように両腕が伸びてきた。逞しい腕に強く抱きしめられる。温かい腕の中。背後からの抱擁。耳元に柔らかい息がかかって背筋が震えた。

「待ってる」

 何を、とは言われない。ただ一言ぽつりと落とされた言葉には万の想いが込められている気がして月草はぎゅっと瞳を閉じた。その言の葉に今答える自信はなかった。否、まだない、と言った方が良いのかもしれない。何故ならば確実に月草は、この優しくて少し粗雑で誰よりも誠実なこの人に。金色の眩い光と蒼黒の硬質な煌めきに。力強く温かいこの腕に。心惹かれつつあるのだから。
 何も答えない月草に何を思ったのだろうか。するりとあっさり離れて行った腕を惜しく思った己に抱く違和感は少し薄らいでいた。
 何度も見てきた男の帰り支度。愛用している煙管を入れ物に仕舞い、袂に入れる。腰から抜いていた短刀を元の位置に戻し、ふと肩を落とす彼に月草がゆっくりと立ちあがって近寄る。着流しの襟を正す。月草と同じように布団で寝ていたというのにほとんど乱れていないそれを直すのは簡単で、ほんの数秒で彼に触れる時間は終わってしまう。
 真っ白な灰のみとなった火鉢を何となく見下ろす。座敷の明け方―今日はもう昼過ぎだが―が切ないと思ったのは生まれて初めてだった。

「帰るか」
「お見送りします」

 先に立って襖を開ける。廊下は当然ながら静まり返っていて人の気配一つしない。男が先に立つ。月草は後から付いていく。二人とも一言も発さない。ただ廊下の軋みの音だけが何処か緊張した雰囲気を代弁するように薄く鳴っていた。
 急な階段を下りて玄関先に出ても誰の姿もなかった。
 つっかけを履いて引き戸を開ける。暖簾は外されていて、曇空からは薄い光が小路に降り注いでいた。雨の降る様子はなかったが晴天でもなかった。少々湿気た空気は春の予感にも似ていて。振り返った月草の視線の先で征嵐が眩しそうに隻眼を細めた。屈強な男より頭一つ分低い月草が見上げているの気付いたのだろうか。空を仰いでいた金色がふと落ちる。そして困ったように微笑を浮かべると月草の髪を一撫でした。明るい日の光の元でみる男は何だか新鮮だった。

「また来る」
「…はい」
「だから、そんな顔するんじゃねぇ」

 そんな顔?彼の言っていることがわからなくて首を傾げた月草に男は更に困ったように苦笑の表情を深めると、そっと顔を寄せてきた。すりと獣がするように首筋に触れる体温。煙と針葉樹の香り。吐息がかかるかのような距離に月草がたじろいだ瞬間。

 耳に吹き込まれる熱っぽい声色。
 それは、その言の葉は、まるで幻のようで。

 これ以上ないくらいに眼を見開いた月草を余所にぱっと離れた男は月草の頭を何時も通り二回撫で、またな、と言い残して去って行った。
 草履が小路の土埃をほんの少し舞い上げる。広い背中が徐々に小さくなっていくのを見送りながら、月草はまだ呆然と小路に立ち尽くしていた。
 今まで月草の中でまるで朧月のように霞んでいたものの存在が徐々にはっきりと形を作る。それは少し前から気付いていたことで。けれども「それ」に気付くことはとても恐くて。一度思い当ってしまえばもう後戻りすることは出来ない。まるで袋小路。そうわかっていて尚進んでいくのは愚かなことだ。逃げ道などなくなると、わかっているのにどうして進むのか。この雀小路で、この妓楼で、数多の恋物語を眺めてきた月草はそう思っていた。惚れて、咲かせて、泣いて、散って、散って。実る恋などありゃしない。それなのに尚も。己を貫き通せるほどの思いがあるとしたら、嗚呼、それはなんて。

 幸福なことだろう、と。

 指先が痺れた。愛しくて、恋しくて、何故か涙が出そうになる。嗚呼、気付いてしまった。知ってしまった。訳のわからない焦燥感に駆られる。どうしていいかわからない。落ちるのは一瞬。淡々とした見慣れた日常の中で急に色を変えた風は月草の肌を真新しい色をまとって撫でていく。
 遠くを見透かしても、もうとっくに男の姿は消えてしまっていて、恐らくすでに小路から出てしまったのだろう。そうなれば籠の雀である月草にはどうすることもできない。ただ、恋しい想いを募らせて。嗚呼、これだから妓女という生き物は!

 そわそわと落ち着かなく、月草は立待亭の前で指を組み直したり、髪に触れたりした。通りすがりの童女が怪訝な眼で月草を横目に過ぎていく。
 そうだ。とりあえず落ち着こう。今焦ったところで何一つ月草に出来ることはない。大きく息を吸って、吐いて。そう言えば今日は座敷の花を取り換えるつもりだったのだ。中庭の水仙がそろそろ見頃だったから幾本か切り取って花瓶に活けるとしよう。あの白い釉薬のかかった花瓶は何処だったか。花鋏は何処だったか、と他愛もないことを思い出して。
 そう上辺だけは何とか平静を取り戻した月草が踵を返し、立待亭に戻ろうかと思った時。
 またも嫌な予感が頭の隅を掠めた。どくりと脈がざわめく。この感覚には見覚えがあった。まるで背中に冷たい視線の針が突き刺さっているかのような、この感じ。見てはいけないと己の中の本能に近い部分が警鐘を鳴らす。勝手に心臓が脈打ち始める。まるで地面に張り付いてしまったかのように足が動かない。見てはいけない。見てはいけない。けれど月草の好奇心は本能よりも強く、また本能よりももっと深いところにある直感が告げていた。

 危険だ。
 逃げろ、と。


2008/12/13

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