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宵々夜の花嵐4

「王手」
「お?」

 紅で「相」と書かれた丸い駒を細い指先が一手動かし、先手から後手へ手は移る。縦横九本の線が引かれた盤上には二色の駒が古の戦乱を模して配置され、さながら耳を澄ませば剣戟や馬の嘶きが聞こえてくるようだ。戦いの火蓋が落とされてからそろそろ一刻が過ぎようかという頃。盤上に居並ぶ駒たちは中央を走る河を境に未だ紅黒半々ほどの数が配置されており、両軍率いる将が互いに良きものであると知らしめている。しかし、一方で戦場を挟んで向かい合う「両軍の軍師」の姿はまるで対照的。
 片や美しい姿勢で座して膝の上で手を揃えてるのは、たおやかな妓女。しっとりと濡れているかのような漆黒の長い髪を簡素に後ろで一つに括り、白い陶磁器の肌、優しげな柳眉、美しくも憂いを含んだ瞳は青白い月光の如き純銀。身を包む白綸子に流水菊の小袖は妓女にしてみれば多少地味で、簪もなく、化粧もほとんどしていないが、それでもふとした視線の動きによる色香は世に美女と謳われる者たちと比べても見劣りしない。
 片や濃紺の着流しに屈強な身体を包みどっかりと胡坐を組んだ男は、左目に大きな裂傷。暗闇でも爛々と輝きそうな鋭い隻眼の色は金色で、まるで妖の如き獣じみた視線を有する男は三手前に手に入れた兵駒を片手で弄びながら、煙管を美味そうにぷかりとやる。傍に置かれた御膳には鴨を醤油で炊きつけて芹を添えたものに川海老の塩焼き、それと上等の酒の入った熱燗もついていたがあまり手をつけられていない。恐らく勝負に夢中なのであろう。盤上を睨む瞳が鋭利なほどに真剣だ。

 窓の外には十三夜の月。上弦の月輝く頃、征嵐と誇らしげに名を名乗った彼は本当にあの日以来、一日と日を置かず月草の元へと通ってくる。

 本当のことを言えば、あの日告げられた言葉を月草は十全に信じられずにいた。何しろ此処は妓楼で。何しろ月草は妓女で。華やかな宴の席で語られる言の葉が何と儚く、閉じられた籠の中の雀が何と無力なことか、此処で生まれた月草は重々承知だったから。だから、「日常」と違う予感を抱きながらも、何処か薄暗い気持ちがあったのは確かだ。
 優しく抱きしめてくれたその腕の温度を忘れた訳ではなかったのだけれど。低い声の心地よい重みを疑った訳ではなかったのだけれど。心なしか浮かれている己に気付き、そんな自分に対して何を莫迦なことをと氷の視線を投げかけるもう一人の己が鎌首をもたげながら睨みを利かせ、自己嫌悪に陥ったことも一度や二度ではない。
 嗚呼、けれど。
 予想に反して(と言うべきではないのだろうけれど)、彼は本当に、言葉通り月草の元へとやって来る。毎日ほぼ定刻。立待亭の暖簾をくぐり、女将はその隻眼を認めると何も言わずに彼を二階の座敷へ通す。彼が月草を名指すのはすでに言わずとも暗黙の了解となっていて、その為に此処数日、月草は格子部屋にも出ていない。男が必ず月草を呼ぶというのもあるが、彼自身が月草を格子部屋に出すのを嫌がるせいでもある。上客の頼みはなるべく聞いておきたいのだろう。女将の上機嫌な恵比須顔が幻に見えるようで、月草はそっと肩を落とした。
 勿論、格子部屋に出なくて良いのは月草にとっては喜ばしいことであるし、男に呼ばれることも苦痛ではない。むしろ、毎夜酒と煙と他愛もない遊びとお喋りに興ずる数刻は月草にとっては生まれて初めて楽しいと思えることであると言っても過言ではないかもしれない。男は無理に月草を抱こうとしたことなどない。それどころか不用意に月草に触れようとすることもないし、酌や舞を強要することもない。
 まるで既知の友人の元にふらりと立ち寄って、夜更けまで飲み明かしていくような。そんな気安い態度に当初何処か危うく満ちていた緊張感も徐々に解れ、まるで日毎月が丸みを増すように和らいでいく気配に月草自身も気付いているのかいないのか。

「あ。いけません、征嵐様、」

 男の次の一手に目を留めて、月草が口元に手をやる。うん?と顔を上げた征嵐の金瞳はやはり近くでみると凄味があるが、若干首を傾げたその姿は愛嬌のある獣の仕草に似て、ちっとも恐ろしくなどないことに最近月草は気付いた。

「その車を動かしては、二手後に対面笑になってしまいます」
「………なら、」
「それでは河際に私の馬がおりますので、詰みです」
「………………………」

 沈黙。戦の行く末を予見するようにじっと盤上を見つめていた月草はしばらくその微妙な間に気が付かなったが、はっとして顔を上げれば、目の前に不貞腐れたように紫煙を吐き出す征嵐がいた。どうも月草に次々と自分の手を先に押さえられて面白くなかったらしい彼はわざとらしく瞳を眇めると、低い声を出す。

「お前な、対局相手に打つ前に指摘しちゃ意味ねぇだろ」
「も、申し訳ありません…つい…」

 慌てて恐縮し深々と頭を下げる月草の視界は再び紅黒の盤上のみに限られるが、ほとんど間を置かずに空気が動いた気配が伝わって、次の瞬間には大きな掌が優しく頭を撫でていた。冗談だ、と笑い声混じりの声が降ってきて肩の力が抜ける。本当に、この人は優しい。否、優しいというかきっと恐ろしく誠実なのだろう。月草に対して。私に、対して。笑みが零れるよりも前に気恥しくなって、思わず月草は瞳を伏せる。
 征嵐が月草の元にやって来るようになって、こんな遣り取りはすでに片手では数えきれないほどに及ぶが、未だに月草は「これ」に慣れない。温かい手にどんな表情をすればいいのか、どうすればいいかわからない。野良猫や小鳥は頭を撫でたりしなかったから、それはつまり記憶にある限り月草はこんな風にされるのは生まれて初めてなのである。
 こうやって頻繁に黙してしまう月草に最初は彼も気遣わしげにしていたが、最近はそれが月草の照れであり、嫌ではない戸惑いであるとわかってきたらしい。何も言わない代わりにもう一度、今度は少し乱暴に撫でてくれる大きな掌を甘受する。心地良い感触。離れいってしまうのが名残惜しい、と一瞬でも考えた自分に自身が驚いた。

「まあ、俺じゃあ月草には敵わねぇってことはよくわかったけどな」
「そんなこと…」
「いや、自分で言うのも何だが俺は仲間内でも象棋(しょうぎ)の腕は中々の方だ。
 その俺が手も足もでねぇときてやがるんだ。お前、軍師の才能あるかもかもしれないぜ?」
「…ぐ、軍師?」

 軍師。戦の折に軍の指揮を執る将軍の側に仕え戦略などを練る役職、ということぐらいは月草だって知識として知ってはいるが。それが、自分に向いている?思いもよらない指摘にぱちぱちと大きく瞬きする月草に、その様が面白かったのか征嵐が喉の奥で笑う。目を細める笑い方は何時も何処か凄味のある男の顔を人懐こくさせるので、月草は殊更その表情が好きだった。自分が滅多に笑わないせいでもあるだろうか。煙管片手にまるで彼がぷかぷかと吐き出す煙のように笑う姿は何処か愉快で何時見ても優しい気持ちになる。

「平和なご時世だ。そう心配しなくても徴用される事なんてまずねぇから安心しとけ」

 彼はゆるりとした仕草で一端煙管を置くと猪口を手に取る。月草は「勝負なし」となった盤上を小脇に退かして、御膳の傍へと畳の上を滑るように寄ると、熱燗の入った徳利を取った。淀みのない動きが男の手にした猪口に酒を注ぐ。透明度の高い酒がゆるりと薫り高く煙に混じった。

「そんな心配しません…大体何処の国が妓女を軍師に据えますか」
「まあ…そうだな。お前は俺の嫁さんになるんだから、軍師の才なんぞ必要ねぇしな」

 そう、

 さも当然のことを言うかのように普通の調子で。
 そう、彼が言うものだから。

 月草の思考は停止して、視線は彷徨い、もうどうしていいかわからなくなる。こうやって、こうやって、彼は自分を確実に囲い込んでいくのだ。真綿の如き言葉の檻。柔らかくて暖かいそれは何時だって抜け出せるくらい緩やかなのに、確実に自分を捕えて離さない。否、月草自身が此処から逃げ出したくないのだ。温かくて、心地よい。征嵐という名の男の腕の中から。
 男の声に答えることのできない月草は居た堪れず視線を逸らすと、象棋片付けますね、と白々しいことを言って腰を上げた。僅かながら視界の隅に男の微笑が見え、一口酒を美味そうに啜る横顔。右側から見るとより色濃く目立つ金色を意識して見ないように、月草は駒を専用の箱に丁寧に仕舞っていく。出来るだけ時間稼ぎをするように。新品同様に美しい駒は、象牙の艶やかな感触が指先に心地よいままだった。月草が暇を見つけるにつけこっそり一人遊びしていた以外にはろくに人の手に触れたこともないのだから、当然と言えば当然だ。

 駒は全部で三十二。一、二、三、四…全てある。

 持前の手際の良さであっという間に片付けてしまうと、ただ沈黙のみが部屋に落ちて居心地悪いことこの上ない。男は何を思っているのか先ほどから一言も喋らず(それは饒舌な彼にしては珍しいことで)流石に居た堪れなさと息苦しの窮地にたった月草は、片付け終えた象棋に眼を落したまま、しばらく往生際悪く瞳を伏せていたが、どうにか思い切ってぱっと顔を上げる。すると。
 大層珍しく―本当に珍しいことに男が一口啜った猪口を手にじいっと酒の水面を黙って覗き込んでいるところだった。思案しているでも、また何か気がかりがある訳でもない。これでも妓女として短い生を歩んできた月草は人の表情を読むのに長けている。神妙な表情をして姿勢を正すと彼の前に座り直す。本当に小さな絹ずれの物音がしただけだったが、それで男は我に帰ったようだった。

「…お疲れですか?」
「ああ…悪ぃ」

 お前がいるってのに、と苦笑する男に月草はやんわりと眉を顰めた。どうやら彼は疲れて少々意識を飛ばしていただけのようだったが、純粋に、心配だった。何時も気力に満ち溢れている征嵐ではあるが、それでも人の子だ。疲労を感じないことなどないだろう。何が彼の心身に疲れを積もらせているのかは月草は察するしかないが、それでも。
 己の身を案じる月草の表情を汲み取ったのだろうか。男はあまり見せない少し困ったような笑みを浮かべた後、手を伸ばして月草の頭を撫でようとして、けれど何故か逡巡して手を引っ込めると、ばつが悪そうにがしがしと髪を掻いた。

「そんな心配してくれんな。最近、狐狩りが忙しくてあんま寝てねぇだけだから」
「狐狩り?」

 こんな季節に?月草は猟師ではないし、山に暮らしたこともないので、詳しくはわからないが、春先に狐を忙しく追い立てる理由などあっただろうか。秋口であれば毛皮を得るためや冬ならば餌を求めて人家に悪さをする狐を払うためなど何かしら想像しやすいのだけれど。

「ああ、喧しい狐がいてな」
「はあ…」

 いまいちよくわからないまま首を捻った月草の膝にこてんと何かの重みが乗った。否、重みだけではない。何処か硬質な髪の感触と思しきもの。香るのは煙と深い森の匂い。温かくて適度に重たいものがもぞもぞと膝の上で動く。

「せ、征嵐様!?」
「ちょっくら膝貸してくれ…やっぱり眠ぃ…」
「え、ま、」

 心の準備もつかぬまま、駄目ですとも言えないまま(ただし征嵐の意識が保たれていたとしてもそう言えたかどうかは月草には自信がない)、すーと健やかな寝息が聞こえてくる。それは勿論月草の膝の上から。混乱していた一瞬の内に何という早業か。戸惑う暇もなく枕にされた月草はうろうろとしばらく視線を彷徨わせ、遠くから響く楽の音なんかに益々意味のわからない焦燥に煽られたりして、けれど、結局完全に寝入ってしまった男をどける訳にもいかず。
 諦めてというよりかは覚悟を決めて、僅かに足を崩す。幾許か楽な姿勢になると、動いたときに少しずれてしまった彼の頭を躊躇いがちに手を伸ばして元の位置まで戻した。温かな、人の体温。頭の重み。改めて自覚すると、指の先まで緊張してしまいそうになりながら、そっと彼の髪に触れる。蒼黒の髪は想像していたよりもずっと滑らかで、ゆるゆると触れると男は心地良さそうに鼻を鳴らして身を丸めた。
 その姿がまるで大きな犬のようで。鋭い隻眼を閉じて無防備に寝こける横顔はやはり幼い子供のようで。月草は口元に緩やかに浮かぶ微笑を止められず、目を細めるとそっと彼の耳朶に声を落とした。

「おやすみなさいませ、征嵐様」

 静かな静かな囁きは月のさやけき夜の中に優しく溶けた。


2008/12/12

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