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宵々夜の花嵐3

 細く針のようだった月は徐々に肥え始め、立待亭には再び日常の景色が戻っていた。
 あの日、結局彼はみっともなく泣き出した月草を宥めすかしただけで妓楼を後にした。何が何やらわからぬまま、嵐のように現れては去って行った男。突然名指しされて驚き、素顔を見られて狼狽し、思いがけない言葉をかけられ困惑し、半陰陽であることを見抜かれ羞恥に消え入りそうになり、そして初対面にも関わらず目の前で号泣という。月草としては一生分の感情を吐き出しきったかのような時間は、けれど思い起こしてみれば僅か一刻にも満たない間のことだった。
 あれ以来、雀小路で男を見かけたという話も聞かない。逞しい武人風情の上客が月草を相手にして以来姿をみせないことに、しばらく妓女たちの冷たい視線が痛かったが、それも日を追うごとに薄れていった。
 まるで嘘のような静けさ。嵐が連れて来た一陣の風はは月草の心にそれとわからないほどの小さな波紋を投げかけたまま、一向に音沙汰ない。

 あれから五日。月草は何処か寒々しい気持ちを誤魔化すように、日々の雑務をこなしていた。

 午後早く起きだして部屋の掃除をするのは、本来ならば下働きの仕事だが、稀に人手不足の場合は月草にも担当が割り当てられる。何しろ客が取れないのだから仕方がない。働かない妓女をただ養えるほどこの立待亭も悠長な訳ではないのだ。華やかな世界ではあれど、商売は商売。立ち行かなくなれば、この妓楼に関わる者全てが路頭に迷うことになる。そうなれば天涯孤独の月草は最早路傍で二束三文の春を売る夜鷹になるしか術はないだろう。しかし、夜鷹になったところで客が取れるかどうかは甚だ怪しいところだし、もしその状態で客が取れなくなれば後は正に犬死しか道はない。
 桶に浸した手拭いをよく絞る。冷たい水は刺すように指の感覚を奪っていくが、それでも日毎温んでいくような気配が伺えた。
 今日、月草に割り当てられたのは二階の客室の掃除だ。障子窓を開け、格子の一本一本を丁寧に拭いていく。まだ日の高い時刻、上から見る通りに人影は疎らだった。どこぞの手代と思しき男が指叉を手にのしのしと歩いていたり、お使い物か大事そうに風呂敷を抱えた童女が小走りで通りを行ったり。丸々と肥えた雀は忙しなく鳴き声を交わし、道端に零れた雑穀を探す。向かいの妓楼のと妓楼の合間から真っ黒い子猫のひげと鼻がちょろりと覗いたりした時には思わず月草は掃除の手を止めて、口元を緩めてしまった。人を相手にするのは不得意な月草だが、獣相手にはちょっとした人気者だ。あの子猫は恐らく立待亭の裏手でつい先日生まれたばかりの子猫だろう。あれの親に幾度か夕飯の残りをやったことのある月草も見覚えがある。
 母猫を探しているのだろうか。道を渡ろうかどうしようか思案しているかのような猫が急に路地の奥に引っ込んでしまい、おやと覗き込もうとした時。
 月草の表情は硬く強張った。
 視界の隅に入り込む、見慣れた、見慣れたくない人影。見たくないはずなのに、思わず視線をずらしてしまう。通りの真ん中に当然のように立つ、その男。何を見るでもない。何を思うでもない。張り付いたような無表情の、土色の髪に苔色の着流しの痩身は、明らかに月草を見つめて、妓楼の二階という位置にいる月草を認識して、薄い目を更に薄くすると、にやぁ、と。

 嗤う。

 瞬間、ばっと月草は窓枠から退いた。心臓が早鐘のように打っている。最近見かけないからすっかり油断していた。あの男。あの男は、何時も数人を引き連れて立待亭に来ては、月草を呼ぶ。呼んで、呼んで、それで。
 恐怖と羞恥が綯い交ぜになって血の気が引いていくのがわかる。否、まだ男が立待亭に来ると決まった訳ではない。宵の口には早く、日も高いのだ。今日は他の妓楼に立ち寄ってこれから帰るところなのかもしれないではないか。それとも万が一に備えて、今夜は仮病でも使って格子部屋に入るのを止めようか。否、そんなことをしても指名が入れば月草なんぞ床から引きずり出されるに決まっている。
 動悸の治まらない己を落ち着けるように月草は大きく息を吐く。兎に角、落ち着いて掃除を再開して、今見たことは忘れよう。何時も通り。諦めることには慣れているのだ。今夜もしあの男が来たとしても。それはそれとして、己の義務として役目として、受け入れるだけ。そう、何時も通りに、すればいいだけ。
 もう一度大きく息を吐き、取り落とした手拭いを拾うと。

「月草ー!!ちょっとおいでー!」

 巨大な女将の声が静まりかけた月草の心臓を再び跳ね上げさせた。何事かと思いつつも呼び出す声にほとんど反射で返事をすると、開けっ放しになっていた障子窓を素早く閉める。ついでに覗いた窓の向こうにはすでに男の姿はなく、ただ普段の人気のない通りがあるだけで、月草はほっと胸を撫で下ろした。手拭いと桶を拾い上げて抱えると、部屋を後にする。急な階段を踏み外さないようにそろそろと降りると、すでにそこには下女が待ち構えていて何故か月草に向かって奥の部屋へと案内するような手の仕草をする。
 ますます事情がわからず、月草が呆けたように立ち止ると、横からもう一人の下女が桶を取り上げ、あっという間に手を引かれて楼の奥へと連れて行かれてしまう。中庭を見渡せる渡り廊下を垂直に曲がって行くと、そこは普段滅多に月草が足を踏み入れぬ身支度部屋で。常なれば己に着飾るのに余念がない妓女たちによって占領されている部屋も今の時分は静まり返っているはずなのだが、下女が声をかけると中から威勢の良い声で反応があった。

「お連れしました」
「入りな」

 障子度が静々と開く。火鉢の置かれた部屋には幾つかの鏡台と打掛け用の台。そこにかかっているのはどうやら上等の振袖のようで、何処の妓女のものだろうか、と月草が悠長に幾人かの名前を思い出すと同時にぐいっと勢いよく手を引かれた。そのままの勢いで畳に突っ込みそうになるところを流れる動作で座布団の上に正座させられ、あれよあれよという間に何人かの女に取り囲まれる。目の前にはきらきらと光る鏡。常から月草が敢えて覗き込むことを避けているものだ。そこに映っているのは当然だが黒髪を幽霊のように伸ばした陰鬱な妓女。名は、月草。儚いというよりはおどろおどろしい己の容姿に月草が思わず居心地悪く身動ぎすると、その動きを抑え込むようにがしっと肩を掴まれた。何となく根拠のない嫌な予感と共にそろそろと視線を上げると案の定、女将が、満面の笑みともいえる良い顔で。

「さあ、月草!あんたにも人生の花道って奴を歩く時が漸くやって来たよ!」
「…え?」
「若様さ。あの御方からのお達しでね。うんと綺麗にしてやってくれとさ」
「………え?若様って…え?」
「さあさ、あんたたち手を抜くんじゃないよ!
 紅も白粉もけちらず使って、月草を雀小路一の妓女してやっておくれ!」

 女将の掛け声に控えていた三名の下女が同じく威勢の良い声で答える。否、よく見れば彼女らは妓女の化粧や着付けを担当する専門の女たちだ。こんな昼の最中から駆り出されるなんて余程のことがない限り有り得ないのに。
 どうして。女将は若様と言っていた。それは十中八九此処最近夜雀たちの話題を独占していた隻眼の若人であり、先日月草の心に感情の嵐を巻き起こした男のことだろう。しかし、彼は月草に愛想を尽かしたのではなかったのか。否、確かに怒り心頭という様子ではなかったけれど、揚げ代まで払っておいて抱かせもしない妓女を一体誰が気に入ると言うのか。しかも、よくよく辺りを見渡せば部屋に入った瞬間目に入った振袖だけに留まらず、見るからに高価な簪、櫛、帯留め、扇、それから何が入っているのか巾着袋と白紙に包まれたもの。何だろう。御菓子?

「………………………、」

 ずらりと並んだそれらの眩さに眩暈がする。下女たちの手によって結い上げられていく自分の髪も慣れないことをされているせいか、酷くこそばゆい。薄く刷かれた白粉。僅かに差される紅。黙々と己の仕事を遂行する下女たちに為されるがまま、鏡の中の月草はどうしていいかわからぬまま深い諦観の吐息をついた。

 宵の口。紫苑の空に薄い月が昇り始め、雀小路に妖しき華やかさと共に喧噪が増す頃。

 立待亭に一人の男が現れた。慣れた動作で暖簾を潜ると全て心得たように女将が走り出てきて、何を言うまでもなく二階の座敷へと通される。軽い軋みをあげる廊下を踏みしめて奥の部屋へ。襖を開けた女将の笑顔に押し込まれるような形で男は足裏に畳を踏む。
 部屋の奥には一人の妓女が物静かに鎮座していた。
 高々と結いあげられた漆黒の髪に梅花を模した簪がちりりと音を立てる。極薄く白粉を刷いた肌は肌理細かく、まるで作り物のような美しさ。すっと引かれた穏やかな柳眉、整った鼻筋、薄い唇。長い睫毛に縁取られた両の瞳は満月をそのまま繰り出して嵌め込んだかのような純銀。ちらちらと光の角度によって見事に色彩を変える瞳は人では滅多に見られることのなく真珠瞳とも称される正に生きた宝石。
 華奢な身体を鼠縮緬地に緻密な刺繍細工で梅と松、滝と鼓を表した振袖で包み、紅裏地と色味を揃えた帯には桂の樹と月を象った純銀の帯留め。正に一級の「美女」。天下の美帝と謳われた壽の国初代女王賈翠(かすい)や花神、佐保娘々(さほうにゃんにゃん)と並べても何ら劣らぬその美しさ。
 ほおと思わず感嘆の息を吐いた男に、静々と妓女が―月草が、頭を下げる。

「この度は勿体ないものを頂きまして…」
「おお似合ってる似合ってる。綺麗なもんじゃねぇか」
「………有難う、御座います」

 屈託のない称賛に何処となく身の縮む思いがしながらも、月草はもう一度深々と頭を下げた。男はそんな妓女の心情など気にした風もなく何時もどおりどかりと窓際に腰を下ろすと、懐から煙管を取り出した。慣れた手つきで葉を詰める仕草。火鉢から火を取り、ゆるやかに紫煙が這い昇る。その煙を視界の隅で捉えながら月草は重たい息と共に言葉を吐き出す。

「あの、私、」
「ん?」
「私、こんなもの頂けません…こんな高価な…」
「あ?どうした、気に入らなかったのか?」
「いえ、そうではなく…」

 逡巡する月草になら良いじゃねぇかと男はあっさり返すが、そうではない。そうではないのだ。こんなもの、自分には不相応だ。ちゃんとした女ではなく、ろくに客も取れず、その上妓女としては粗相ばかりで。こんなもの貰って良いはずはない。この男が妓女に贈り物をする意を正確に知らないとは想像しがたいが、けれど決してこれは月草などに贈って良いものではない。袖を通せば尚わかる。上等の生地に上等な刺繍。身支度する下女たちも溜息を隠さなかった簪や帯留め。万が一彼が余程の富豪であったとしても。これほどの値をかけられるほどの価値が月草にあるとは到底思えない。

「…こういったものは、若様がもっと大事になさっている方に…」
「大事?」
「その、恋われた方になど贈られた方が…」

 自分は何を言っているのだ。客から物を贈られてそれをつっ返そうと言うばかりか、他の女への心変わりを勧めるなんて聞いたことはない。滑稽だという自覚は十分にある。だが、月草は言わなくてはならなかった。恐らく彼ほどの男なら言い寄ってくる女は山ほどいるだろう。その中のどの女性もきっと自分より彼に相応しい。つき、と何故か胸刺す痛みには気付かぬふりをして。尚も男を諭そうと果敢に口を開いた月草に、男は煙を細く吐き出して一言。

「でもお前、今着てるだろ、それ」

 それは確かに。

「………………………………ぬ、脱ぎます!」
「………は?」

 そう勢いよく宣言した月草は真剣だった。一瞬、呆けたように口を開けた男は、実際に月草が簪を荒々しく引き抜き、着物の合わせに手をかけたのを見て、慌てて煙管を火鉢の上に放り出して止めに入ってくる。

「ま、待て待て待て!落ち着け!俺の前で脱いでどうする!」
「お返しします!」
「良い!良いから着とけ!どうしてもってなら後で良いから!」

 じたばたと暴れようと圧倒的な体格差。しばらくは己の意思を通そうともがいていたが、何時の間にか男の逞しい両腕で強く抱きとめられ、漸く月草は我に帰った。目の前に群青の着流しの生地。深い葉煙草の香り。途端、羞恥が込み上げて逃げ出そうと思っても男の腕に囲われた緊張で上手く体が動かない。一方男は漸く大人しくなった月草に大きく安堵の意が混じった息を吐いた。否、呆れめいたと言うべきか。

「お前…ちょっと面白すぎるぞ」
「…も、申し訳、ありません…」

やれやれという呟きと共に吐息が髪にかかる。煙の匂い。それと一緒に何処か懐かしい土の香りに針葉樹のような匂いもする。まるで大樹に抱きしめられているようで、今更ながら月草は本当にこの人は何者なのだろうかと首を捻った。こんな優しくて落ち着く香りは他に嗅いだことがない。月草を抱く腕は少し痛いほどに強いのに、それでも優しくて。小さく繰り返す動悸の音。決して大きいはずのないこの音が何故か彼に伝わってしまわないかと心配で。小さく身動ぎすると掠れるほどに低い、男の声が落ちてくる。

「………なあ、あんま俺に恥かかせんなって」
「…え」

 ゆっくりと腕に力を込められる。押しつけられた胸板は当然ながら月草には馴染みがないほどに分厚くて。温かくて。自分のものではない規則正しい心音が聞こえてきて。あたたかい。ゆっくりと大きな掌が頭を撫でる。まるで慈しむように。どうして、そんなことするのか。どうして。わからないけど、心地良い。

「俺はお前に惚れてるんだよ。気付け」
「………………えっ?」

 思わず耳を疑った。彼の言動には先日から驚かされてばかりだが、これは間違いなく一等の部類に入る驚愕だろう。月草がこれまで生きてきた短い生涯の中で最も驚いたと言ってもいいかもしれない。もう瞬きを繰り返すことしかできない月草に更に声が落ちてくる。

「昨日の今日で、って言いたいか?」
「い、いえ…」

 むしろ昨日の今日で自分の何処に惚れる要素があったのかと逆に問いたい。この人が?私に?
 まじまじと男の顔を見上げれば金色の隻眼とかちあった。片方だけなのに、否、片方だからこそなんて強い。美しい太陽のような。鮮やかな。綺麗な色。真剣な、瞳。

「理由なんてねぇよ。あの日からお前のことばっかり考えてんの」
「………………あの、」
「でも、お前はそうじゃねぇだろ」
「………………………」
「正直者が」
「も、申し訳ありませ、」
「良いっつの。だから、ゆっくり口説き落とすことにしたしな」

 え、と思わず声をあげれば、男は笑って。

「まずは手始め。まあっつてもこれは俺が単に月草に綺麗な格好させてぇってだけだがな」
「………あの、」
「しかし、予想以上に綺麗になりやがって…これじゃ他の男がほっとかねぇだろ。失敗したかね」
「そんな、こと、」

 そんなこと、そんなこと。
 次々告げられる言葉に頭が追い付かない。混乱する。この人が、私に。惚れてる、なんて。口説く、なんて。一生言われることなんてないと思っていた言葉。綺麗にしてやりたい、なんてそんな、私には勿体ない言葉。不相応で、不遜で、おこがましくて。そんなこと自分には有り得ないって思って。思っていて。ずっと。月草は生まれた瞬間からこの小さな籠の中で生きてきて、優しかった母の手はすぐに失って、ずっと一人で月の光にだけ照らされて生きてきた。見上げていたのは冷たい空ばかり。指先を優しく舐めてくれたのは野良猫たちで、手首は手荒く掴まれたことしかなくて。こんな温かさなんて知らない。こんな腕の力が心地良いことなんて知らない。

 こんな、泣きたくなるような感情は。
 わからない。しらない。

 だから、と優しく降り注ぐ言葉と掌。頭を撫でられる。心地良い。やっぱり自分には簪など似合わないと思った。高々と結い上げられる髪など不必要だと思った。だって簪や櫛で着飾った見目麗しい妓女では恐らくこの人にこうやっては貰えないだろうから。

「これから毎日お前を口説きに来るから。俺に惚れたらすぐ言えよ?」
「…あの、若様、」
「セイラン」
「え?」

 月草の言葉を遮るように男が告げる。せいらん?単語を拙く繰り返す月草に彼は言葉を落とす。

「嵐を征す、と書いて征嵐。俺の名だ」
「征嵐、様」
「ああ、格好良いだろ?」

 口の中でゆっくり呟いてみせた月草に屈託なく征嵐は笑う。隻眼の強面が破顔すると、それは思いのほか幼い子供の顔になる。まるで己の名が誇らしくて堪らないといったように胸を張る彼に月草は一瞬瞳を見開いて。それからどうしても抑えきれない何かが胸の奥から優しくわき起こり、それが長年凍りついてすでに笑い方など忘れていたかと思っていた唇に緩やかに笑みをのせ。自分でも気づかないぐらい当り前のように、素直な言葉が滑り落ちる。

「はい、格好良いです」

 柔く柔く細くなった銀色の瞳に虚を突かれたように瞬きした征嵐の様子が可笑しくて、また笑みを零す月草を。何故か男の両腕が痛いぐらいに抱きしめたのも、また、今宵月の光の下での出来事。
 紫苑から群青へと移り変わる空にはふわりふわりと満ちる月日に微笑むかのような上弦の月、一つ。


2008/12/07

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