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宵々夜の花嵐2

 今宵も雀小路に暮れの気配が迫る。しっとりと濡れた空気は昼過ぎまで降っていた煙雨のせい。湿気のせいできしきしと軋む廊下を歩くのは立待亭の妓女、月草。今日も憂鬱な表情を整えることのない長い髪の向こうに隠し、そろりと吐き出す息は冬の最中、地面の下で眠る虫さえ凍らせるよう。地味な墨染の着物は妓女というよりかは下働きの女のようで、裾の辺りがすでに擦り切れて直された跡が幾つかみえた。装飾品の類は一切ない。白粉もしなければ紅も差さない。それで妓女と名乗るあたりもういっそ不遜だとかおこがましいなどを通り越して、滑稽だろう。
 その辺りは月草自身もよく理解していて、ただただ早くこの呼吸が止まってしまわないかと願いながら日々浅い呼吸を繰り返す。この矛盾。自分でも何かが可笑しいと感じながら、けれどどうすることもできない。まるでずっと出口の見えない暗闇の路地を彷徨っているように。否、彷徨うことさえせず、月草はずっと立ち止まったままなのだ。暗闇の真ん中で。何にも手を伸ばさず、声一つあげず。じっと、じっと。

「それでな、その殿方が大層な益荒男ぶりらしいんよ」
「この辺りで武人さんなぞ珍しいねぇ」

 陰鬱な月草の横を美しく着飾った妓女が通り過ぎていく。簪の音も高々に彼女たちが忙しなく話しているのは、恐らく最近この雀小路で話題の「片目の若様」のことだろう。月草も幾つか噂話を耳に入れたことがある。曰く、大層な益荒男で少々乱暴な雰囲気ではあるが実は何処ぞの王侯貴族の生まれで王宮に仕える武人であるとかそうでないとか。明らかに噂に尾ひれ背びれが付いているのが伺えるが、しかし確かにこの街は行商人の客が多く、武人風情の客など滅多に来るものではないのだから、妓女たちが浮かれるのも知れようというものだ。しかも、かの殿方は最近結構な頻度で通ってくる割に何処の妓楼の何処の妓女と定めた風はなく、今日はこちら明日はあちらといったように彷徨い歩いているようで、それがまた妓女たちの期待を煽る。ひょっとして嫁に迎える娘を探しているのではないか、と言った突拍子もない話もあるが、それはないだろう。仮に高貴な血筋であれば尚更、誰が妓女など家に迎え入れたりしたがるものだろうか。
 何にせよ月草には関係のない話である。もしこの立待亭に「若様」がいらっしゃったとしても、月草に目を留める可能性は万に一つもないのだから。

 今宵も誰も己に目を留めず、心安らかにこの時刻が終わってくれることを願って、月草は静かに格子部屋に足を踏み入れる。そこにはすでに何人かの妓女が鎮座していて、賑やかにお喋りに花を咲かせていた。話題はやはりというか「若様」のことで、噂にますます拍車がかかっているのか、見たこともない「彼」は何時の間にか高貴な血筋どころか、王の御落胤ということになっていた。
 けれども華やいだ雰囲気とは一線を引くように、その中の誰一人として月草には目もくれない。別段何時ものことであるので、月草も誰に話しかけることもなく、何時ものように部屋の隅にひっそりと腰を据えた。
 行燈の灯は仄かなものでそれ自体が暖を取れるようなものではないが、それでも何もないよりは少しはましだ。僅かな焔が月草の膝頭をじんわりと温める。ゆらゆらと風が吹く度ゆれる炎の影を眺めながら、瞳を閉じた。今日も日が落ちる。女たちの囀りは他愛もない話からやがて客の男たちを引き寄せる夜雀の声へと変わっていく。

「寄ってって寄ってって。今宵も冷えるよ、わちきが旦那を温めるよ」
「酒の肴に唄は如何?」
「嬉しや、あんたに出会えるなんて!女将に通して頂戴な」

 通りを賑わす男たちの足音に遠くから聞こえてくる楽の音。酒を運ぶ給仕の威勢の良い声に女将が大声で客を迎え入れる台詞。賑々しい声は絶えることなく続き、また月草が女将に引っ張られるまではしばらくこの囀りが続くのだろう。今日も変わることのない宵の口。諦観に彩られた安堵に月草は身を埋める。今日も何も変わらない。それは月草を一瞬絶望させ、そして安心させる。今日も昨日と同じ。ゆっくりと息を吐き出した月草が睫毛を震わせて再び外の世界を遮断しようとした、その時。

 ざわ。

 動揺のような静寂が一瞬世界を満たした。今まで感じたことのない雰囲気に思わず、といった風に月草は瞳を開いた。格子窓に群がった妓女たちは一様に動きを留め、呆けたように「彼」を見上げている。
 彼。
 見上げる長身に蒼黒の髪、精悍な顔つき。戦場で負ったのか左目の額から頬にかけて大きく入った裂傷。そのせいで隻眼となってはいるが、代わりに力強い光を宿す右目は圧倒的な存在感を放っていた。魔性の金色。妖の血でも混じっているのかあまりにも鮮やかな色彩に誰もが見惚れるのは最早仕方のないことのような気がした。加えて均一に筋肉が付いた肉体を紺青の着流しで包み、腰には短刀。その束の装飾は遠目でも見事で純金に瑠璃と金。更に帯に無造作に差し込まれた煙管入れは黒漆に螺鈿細工を施した粋なもので。この容姿、この粋、そして恐らくある程度の遊ぶ金も持っている。更に人目を引く長身加えて深い傷も似合ってしまうほどの益荒男が。

「っ、わわ、若様!!お待ちとりやしたぁ!!」
「今宵は此方にお越しでしたのっ」
「よ、寄っていって下さいまし!わちきらと一緒に楽しく騒ぎませっ」

 妓女たちに騒がれない訳がない。一斉に男を誘う文句(しかしそれは緊張のせいか何時ものような艶めかしさはほとんどなかった)を囀り始める彼女らを横目に月草はやはり一息吐いて瞳を伏せた。少し驚いたが、やはり月草には関係のないことだ。恐らく彼は気まぐれに今日の遊び場をこの妓楼に決めただけで、またこの妓楼に来たからと行って月草が彼と同じ座敷に上がる可能性など甚だないに等しい話だ。
 何やら口騒がしく妓女たちに言い寄られ、それを宥める男の声が眼を閉じた月草にも聞こえてくる。格子部屋の奥にまで届く低く通る声。色男とは声も含めて言うものなのか。
 しかし、月草としてはよく躾けられた犬のように男が話し出した途端、一斉に口を噤んだ妓女たちの方が妙に可笑しくて、それと知られないようにくすりと口元を緩ませた。夜雀が人の声で囀りをやめるだなんて聞かない話、と月草が心の中でのみ面白がっていると。

「…なあ、」

 声が。初めて意味をもって。

「お前はどうしたんだ、気分でも悪ぃのか?」

 一瞬、自分に向けられた声だと、月草は理解できなかった。ただ静まり返った部屋に居心地の悪い視線を感じて、そろそろと顔を上げると、垂れ下げた己の前髪の向こうに此方を睨みつけるように並んだ同胞であるはずの妓女たちと金色に輝く隻眼。整った顔の造形。見たこともない髪の色、瞳の色。傷など常なれば人の欠点になりそうなものさえ、よく似合っていると言わざるを得ないほど。嗚呼、すべてが月草と違った。別の次元の生き物。
 普段から饒舌にはほど遠く、寡黙な月草はその瞳の雰囲気に飲まれたこともあり、声ひとつ発することが出来ない。格子窓によって何升にも区切られた男の顔が確かに此方に向いている。視線一つがただ己を見ているのが何故か居た堪れなくて。あ、と喉奥で引っかかったような声を飲み込んで、月草は再び俯いた。男が首を傾げたような気がする。格子窓に手をかけ、おい、と彼が声を発するより早く。

「若様、あれのことはお気になさらん。ろくに客も取れぬうちのごく潰し故」
「あ?病でも患ってるのか?」
「そうではありませぬ。ただ、少々難ありで…」
「ああ?」
「もうっ、若様、月草のことは気になさらんと!わっちらと一緒に遊びませ!」
「つきくさ?月草っていうのか」

 自分の名前を呼ばれて流石の月草も心臓が跳ねるような錯覚を覚えた。何だろうどういうつもりなのだろうか彼は。早く自分のことなど忘れて欲しい。この話題が終わってほしいと月草はぎゅっと拳を握って目を閉じる。別段月草は彼の興味を惹くようなことなどしていない。ただ黙して座して、じっと息をひそめていただけ。そんな己に何ゆえ目を留めるのか。それも今小路で最も噂になっている「片目の若様」が。

「よし、決めた」

 一声発し、彼は颯爽と踵を返すと格子窓から離れていく。落胆と期待の声が各々妓女たちから上がり、一方漸く金色の瞳から逃れられて、月草は安堵の深い息を吐いた。どうやら男は月草を興味の範疇から外してくれたらしい。彼がこの妓楼で妓女を買うのか、それとも目当てがいなかったせいで他の妓楼へ行くかは、他の妓女たちが手に汗握って待つことであって月草のすることではない。ただ、今日は何時もとは違うことが起きたせいで大層疲れた。どっと肩に重さがのしかかったような錯覚。どうか今日も一人は客は来ず、女将の小言を聞いて、炊事場の片づけをして、一日が恙無く終わりますよう。月草が何処にいるともしれぬ神なる龍、玉帝に祈ったその時。

「女将ー!!月草を寄越してくれ!揚げ代は出すぞ!」

 途轍もない声が立待亭を震わすほどの大音量で響き渡った。しかもその内容は月草が己の耳を三度疑い、思わず小さな悲鳴にも似た声をあげさせるには十分で。混乱が頭の中を疾走する。何、何、何を言ったのか、あの人は。いや、わからない聞き間違いかもしれない。まさか、どうして。

「月草!指名が入ったよ、早くこっちにおいで!」

 しかし、全く頭の整理が追い付かないまま女将の濁声に呼ばれ、ほぼ反射的に月草はよろよろと立ちあがる。何が起きているのだろう。何時もと違う何か、が。
 ずっと座り込んでいたせいで縺れそうになる足取りでどうにか廊下に出ると、待ちわびたような女将に「早くおし!」と急かされ、何時も通り腕を取られて引きずられるように廊下を行く羽目になる。何。どうして。何で。すっかり日の落ちた空に昇る月さえ目に入らない。冷たい風の吹き抜ける廊下の軋みも耳に入らない。混乱し続けている内に女将はさっさと月草の腕を引いて階段を昇り、二階の奥部屋に上がると、「粗相するんじゃないよ!」と言い置いて、月草をどんと襖の前に押しやった。
 そしてずかずかと相変わらずの大股で元来た廊下を戻っていく。恐らく客人に出す酒の用意をするのだろう。女将にそうさせるぐらいの金を彼は払っているはずだ。恐らく、たぶん。
 一つ深呼吸して、月草は己の心を落ち着けようと試みる。大丈夫。これは何時もと変わらない。月草だって客をとったことがない訳でもない。幼い頃はちょっとした人気もあって馴染みの客もいた。最近の客のことを考えると確かに足が竦むような気がするのだが、けれど、これも仕事だ。ここに生まれた以上、ここの妓女である以上、避けられぬ役目。もう一つ息を吸う。ゆっくり吐いて、襖に手をかける。

「…失礼します、」
「おう」

 膝をつき深く一礼。後ろ手で襖を閉め、何時までも俯いている訳にもいかず、月草は顔を上げる。床の間には白塗りの花瓶に雪柳。八畳ほどの部屋は客一人妓女一人遊ぶには十分過ぎるほどの部屋だが、何故か今日はずいぶん手狭に見えた。通りに面した部屋には窓が二つ。縦格子の嵌った窓の障子がかたかたと寒風で鳴った。吹き込む風にゆらりと紫煙が棚引く。その白色の出所。
 果たして男はそこにいた。堂に入った仕草で煙管から美味そうに煙を食うと一拍の間をおいて細く細く吐き出す。
 近くで見ると片目を失ったその姿は一層凄味を増したが、しかしそれも男の色香と言われれば納得してしまう。屈強な体に群青の着流しはよく似合い、無造作に置いた煙管入れはやはりかなり上等なものだった。
 男の瞳がちろりと月草をねめつける。動揺を悟られないようにゆっくりと頭を下げて、定例の口上を囀る。

「…お呼び誠に恐悦至極と存じます…立待亭が妓女、月草と申します」
「ああ。お前、吸うか?」
「あ…いえ、煙草は…」

 申し出を反射的に断った後でしまったと思ったが、けれど彼は気にした風もなく、そうかと言ってまた自分の煙管に葉を慣れた手つきで詰め始めた。どうも自分を呼びつけた割には素っ気ない態度である。否、別にはしゃいで欲しいとかそういう訳ではないが、これでは此方もどう対処していいのかわからない。あんな店先で叫ばれるくらいだから、いきなり無体なことをされるのではないかとも思ったが、思いのほか大人しい様である。
 月草が一人どうしたものだろうと思案していると、控え目な声が廊下からかかり、すっと襖が開いた。顔を出したのは客用の恵比須顔を浮かべた女将で、男への揚げ代の謝礼をつらつらと述べると背後に向かって声をかける。すると御膳を持った者と火鉢を持った者が二人、音もなく入ってきて淀みない動きで己の仕事をこなすと、一言も発さず下がって行った。そして女将もまた最初から最後まで笑みを浮かべたまま、するすると襖を閉じて下がっていく。
 再び二人だけの空間に戻る。ぱちと時折火鉢の炭の跳ねる音。煙管を咥えてだらしなく足を崩した男の姿に月草はしばし逡巡して、それから漸く男の小脇に熱燗と恐らく寒鰤の甘露煮が盛りつけられたと思しき小鉢を目に留めて、己の仕事を思い出した。酌は妓女の仕事の最も初めに他ならない。

「注がせて、頂きます、」
「ん?ああ、悪ぃな」

 努めて平静を装うと月草は彼の側に畏まり、その小さな猪口に酒を注ごうと試みる。男が持つとより一層小さく見える猪口に酒をなみなみと注ぐ。ふわと香る花のような香に普段は滅多に饗されることのない上等の米酒だと気が付いて、一瞬月草は気が遠くなった。一体この男は高が己の身に幾ら支払ったというのだろうか。自慢ではないが月草の揚げ代はそれこそ叩き売りに等しいほど安いはずだ。少なくとも立待亭の妓女たちの中では最安値と言っても良い。だからこそ出てくる酒も料理も大したことなく、今までこんな上等な酒など記憶にある限りほとんど注いだことなどないというのに。
 相場が解っていないのか。否、毎夜のように小路で遊んでいるというこの男に限ってそんなこともあるはずない。だったらどうして。そんな無意味なことを。

 一人でくるくる悩んでいた月草はそのせいか彼が猪口を手にしたまま、じっと動かないことに気がつかなかった。ふと見遣れば相変わらずなみなみと注がれた酒に不審を感じて、瞬き一つ。あの、と言葉になる前の声をあげて、思わず男を見上げれば。間近に金色の瞳。片方しか見えぬそれはまるで満月のようだな、と悠長なことを思ったのも束の間、突然風のような速さで大きな掌が、月草の手首を掴んだ。それが男の数多の傷が刻まれた無骨な手だと気付くのに数秒を要し、驚く間もなくもう片方の手がさら、とごく当然の仕草で月草の髪を払った。
 今度は反射的に肩が跳ねた。だが、手首を掴まれているせいで逃げる訳にもいかず、ただ己の素顔が男に晒されていることが居た堪れなくて、月草は唇を噛むと視線を反らす。すると男は月草を驚愕させるような一言を簡単に発した。

「なんだやっぱ美人じゃねぇか。何で顔隠してんだ?勿体ねぇな」
「………………え?」

 信じられないことを聞いたとでも言うように月草は目を見開く。瞬きを繰り返す月草を男は隻眼を眇めてじろじろと見渡す。その様はやはり少々柄が悪いが、品定めされることに慣れている月草は身じろぎ一つせず男の金色を見返した。やはり、美しい色だ。自分の瞳の色も変わっているが、月草のそれより男の黄金の方が余程良いもののように見えた。鏡で見た自分の瞳は寒々と冷めた銀の色をしていたが、彼のそれは温かく晴れ晴れと大地を照らす太陽の如き金だ。

「若干華奢だがよ」
「…え?」
「身体付きも中々だし」
「……はい…?」
「乳もあるし」
「………………あの、」
「丈夫なややこ生んでくれそうじゃねぇか。何が難ありなんだ?」
「………………………………」

 絶句。何言ってるんだこの人は。可笑しい。生々しすぎる。幾ら妓女相手とは言え、これは暴言の類に入るのではないだろうか。確かに月草は客から真っ当な扱いを受けたことはほとんどないが、それでも言葉による辱めは耐え難い。しかも、発言した本人の顔に嘲笑の類が全く浮かんでいないことが、更に耐えがたいというかまさか本気で言っているのだろか。この、口に出すも躊躇うような、生々しい事実を?となるとひょっとしてこれは月草を褒めているつもりなのか?いや、そんなことはない。これも新手の辱めの類に決まっている。
 手首を掴んだまま、まだじろじろと眺め続けている男に月草が流石に空恐ろしいものを感じて、やんわりと押し戻そうとしたとき。今の今まで真顔だった男が瞬間的に唇を歪めた。獣のようなその表情にぞっと背筋に寒気が走る。やめて下さい、と何に対してかもわからぬか細い声が発せられるよりも先に。

「ひょっとして、こっち、か?」

 男の手が月草の下肢に伸び。
 女にはないはずのそれに触れ。
 驚愕に目を見開いて。

 嗚呼。

 まるで月草は絞首刑に処せられる罪人のように喉を引き攣らせる。

「…男…?」

 どうしていいかわからない。
 次に来る反応は、罵倒か、軽蔑か。
 金を返せと騒がれるかもしれない。
 気味が悪いと突き飛ばされるかもしれない。
 それとも待ち望んだように舌舐めずりされるのか。

 嗚呼。

 どれも。
 月草の心を切り刻む。
 感情の抑制が、
 できない。

「いや…確かに雌の匂いがしたぜ…?何だ、お前、半陰陽か?」

 言い当てられて、
 全身から力が抜けて。
 じわりと瞳の裏が熱くなる。
 わからない、
 わからない、
 そんなの。

「しかし、匂いは本物だしな…交尾には問題ねぇってことか…。
 まあ、こんだけ美人なら別に半陰陽だろうがあいつらも文句言わねぇだろ…ってうお!?な、おま、泣いてんのか!?」

 気がつくと月草の両目からぼろぼろと大量の塩辛い水が溢れだしていた。自分でも悔しいのか恥ずかしいのか悲しいのか如何とも判別しがたい感情が胸の中で渦を巻き、恐らく自律できない部分が涙となってこぼれているのだ。冷静に分析できようとも、一度決壊した堰は自分でも止められない。客の前だとわかっているのに、どんどん男の顔は白く霞んで滲んでいく。止めようとしているのに止まらなくて、濡れる視界に全く前が見えないままただ男の焦ったような声だけが耳に届く。

「お、俺のせい!?俺のせいか!いや悪かった!まさか半陰陽だとは思わなくて…銀眼な上にそんな珍しい奴だとは思わなくてだな……ああああもう泣くな!泣かれたらどうしていいかわかんねぇだろ!」

 乱暴な言葉。けれどそこに月草を軽蔑するようなものは含まれていなくて月草はあれと思う。その上、煙の臭いが近づいてきたと思ったら、着物の袂が涙でぐしゃぐしゃの月草の顔を乱暴に拭った。あれ、と思う。この人は、月草を、嘲笑しない。嗤わない。他の客とは、違う。そう認識した途端、ぴたりと涙は止まった。自分でも現金だと思うが、今まで呪いのように溢れていた涙は奇跡の如く停止した。しかし、まだその事実に気づかない男にごしごしと乱暴に顔中を拭われ、あの、と発した声はまだ涙声で月草は更に力を込めて拭われる羽目になり、その口を封じ込められた。
 どうして、と問いたかった。どうして莫迦にしないの。どうして触れてくれるの。どうしてそんなことしてくれるの。わからない。わからない。何時もと違う宵口、何時もと違う相手。わからない。わからないことは怖いはずなのに。けれど。

 今は何故かこの乱暴な仕草が心地よくて。焦った男の声が思ったより恐ろしくなくて。
 月草はそっとまだ、泣いているふりをした。

 今宵はやがて訪れる望月を待ち侘びるような、針の如き繊月。


2008/12/07

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