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宵々夜の花嵐1

 東山道(とうざんどう)は斉(サイ)の国王都から壽(ジュ)の国までを繋ぐ千里を超そうかという主要街道である。
 日々、何万とも知れぬ行商人や旅人が道を行きかい、彼らの発するざわめきや金がやがて道沿いに街を作る。この桂芳(ケイホウ)もそんな宿場街の一つだ。斉の国と壽の国の国境近く、斉から壽へと入る場合は正に今から越えなくてはならぬ難所桂山(ケイザン)への準備と英気を養う場所として。逆に壽から斉へと入る場合は漸く難所を過ぎ去った末の安息所として。長い年月理由は様々なれど旅をする人々に重宝されてきた街は東山道とほぼ歴史を同じくする。
 山の麓にある街は然程大きい訳ではない。地理的にも街の中心である大路を中心に人が増える度に増やしていた路地が縦横無尽に伸びてはいるが、それも小さな川と山肌に阻まれ、ある程度の大きさのまま長年変わることはなかった。大路には行商で稼いだ富裕者や政に従事する官吏向けの大きな旅籠が立ち並び、しかし一歩路地裏へと入れば懐心もとない人々の為に木賃宿もまるで群れなして生える土筆のように乱立している。薄い板と瓦を組み合わせた宿は見るからに貧しいが、けれど共用の炊事場からは常に飯炊きの煙と笑い声が絶えない。そして、狭い路地を縫うように更に奥へと入り込んでいくと、やがて周囲の景色は再び華やかさを取り戻していく。大路に戻った訳ではない。それはまた表通りとは異なる華―雀小路、通称「妓楼通」という身も蓋もない呼ばれ方をされている場所で夜毎咲くのは美しく着飾った女たちである。

 申の刻。雀小路の入口両脇に鎮座する石灯籠に火が灯る。するとまるでその合図を待っていたかのように何処からともなくざわりざわりと往来が増えていき、一刻を過ぎる頃には然程大きくもない街の然程大きくもない小路が人々の声と足音で溢れることになる。そのほとんどは年齢は様々なれど男性ばかりで、時折髪を高く結い上げた初老の女が童女を引き連れて粋な下駄を鳴らしたりなどしているが、あれは恐らく妓楼の女主人なのだろう。
 からんころんと下駄の音に混じり、遠く聞こえる楽の音と詩吟の声。雀小路に連なる妓楼は二十軒程。その多くは通りに直接面しており暖簾の下がった上り口に赤提灯を備え、脇には巨大な格子窓を造り付けている。まるで檻のような大きな格子の向こうには雀は雀でも、この小路で賑々しく囀り鳴く夜雀たちが控えているのだ。

「若旦那ー寄ってらしてー」
「今夜は良い夜、良い月夜。飲まにゃ損々」
「御贔屓してやぁ。あら色男!」

 檻というよりかは鳥籠だろうか。色とりどりの衣装に身を包んだ妓女たちが思い思いの声色と誘い文句で男たちを惹きつける。通りを行く男たちは格子の向こうの妓女たちを品定めしながら歩き、そうして思い定まれば妓楼の暖簾を潜って女将に注文をつけるという順序だ。勿論、妓女は客を取るのが仕事。男たちが指名してくれなければ女の恥、飯の食いっぱぐれということで誘い声にも化粧にも余念がない。鮮やかな着物に季節を先どって菖蒲を配した者、ちりちりと可憐な音をたてる簪を幾つも差した者、はたまた都で流行の紅を付けた者や遠い国の染料で染めた扇をひらりひらりと舞わせる者まで。兎に角他人より目立たなくては意味がない。今日取れなかった客はきっと隣の女の客になる。己ではない誰かが選ばれたということは、己ではない誰かに金と愛情が注がれるということ。それは即ちこの場所では敗北を意味する。
 さながら女の静かな戦場とも言うべきは毎夜繰り返される小路の光景。それはこの「立待亭(たちまちてい)」でも決して例外ではない。
 雀小路に連なる妓楼とほとんど変わらぬ外観に紺地の暖簾にひとつ染め抜いた立待の月。恐らく屋号代わりに下げているのだろう。屈強な手代が守る上り口の隣には勿論、他の楼と変わらず格子の窓があり、多くの妓女たちが小鳥の声色で男を誘っている。行燈が二つ三つ照らすだけの格子部屋は思いのほか手狭だが、多くの妓女が格子のより近くで客を引こうと詰め寄るせいか奥の方はがらんと空いた空間になっていた。

 そこに、ぽつり。

 恐らく妓女ではあるのだろう。しかし、地味な染め上げの着物に艶やかだが伸ばしたままの黒髪。俯いて声一つ発することのない「彼女」は格子部屋の隅でまるで羽虫のようにじっと息を潜めて微動だにしない。まるで座したまま死んでいるのではないかと疑ってしまうほど、身動きしない彼女は息をするのにも気を遣うかのように静かに薄くただ呼吸を繰り返していた。
 刻が過ぎるに連れて格子部屋からは一人二人と客をとった妓女たちが消えていく。徐々に寒々しさを増していく部屋で彼女はもぞ、と初めて身じろいだ。行燈の明かりで大きくなった影が壁で揺らぐ。格子の隙間から入り込む風が冷たかったのだろう。厳しい如月を過ぎ、弥生も半ばになったとはいえ、まだ春の麗らかさを感じるには遠い季節。早く春にならないだろうか、と彼女は思う。そうすればこの憂鬱な場所からも瑞々しく伸びる蕗の薹や匂い菫を見ることができるし、水仕事も今よりずっと楽になる。

「月草!あんたまた客を取れなかったのかい!」

 濁声が響いて彼女―月草(つきくさ)と呼ばれた妓女は鬱蒼と顔を上げた。相変わらず長く前へと垂れ下った髪のせいで表情はほとんど伺えない。ただ恐怖よりも諦観に満ちた顔がずかずかと大股で部屋へと入ってきた中年の女を見上げた。着こんだ着物は上等品だが、何しろ体格がまるまると太った熊のようなのでは、その色鮮やかさも細かな装飾も台無しである。女はぽつりと低い声で「女将さん、」と零した妓女を嫌そうに見やると、ぐいっと乱暴にその細腕を引いた。その動作に月草という妓女に対する気遣いや優しさは全く感じられないが、それもまた致し方のないことだろう。
 客を取らない妓女はただのごく潰し。価値のない商品など、商売にならない道具など、本当ならば真っ先に捨てられてしまって良いはずだ。それを今もとりあえずは妓女という名目でこの楼に置いておいてくれるのは、女将のなけなしの優しさであり、稀にやってくる「月草を目当てにした客」への胡麻擂りでもある。悪い人ではないのだ。彼女は商売人としてはかなりのやり手であり、実際に立待亭がこの雀小路でそれなりの品格を保っているのも(それにしたって中の下と言わざるを得ないが、茶屋同然の妓楼よりは断然良い)彼女のおかげであるのだろう。

「月草、あんた何時までもそんなんじゃその内此処に置いてやれなくなるよ」
「…すみません、」
「あんたは普通の女じゃないんだから。他の子より頑張らなきゃいけないって言っただろう?」

 廊下を引きずられるように歩きながら浴びせられた言葉に、月草は毎度のこととはいえ、畏縮するように唇を噛みしめた。普通の女ではない。それは月草自身にもわかっていた。そして、それが決してこの妓楼で生きていくのに有利なものではないということも。
 けれど、どうしたらいいのだ。好きでこんな体に生まれた訳ではない。好きでこんな場所に生まれた訳ではない。月草の母は引く手数多の人気妓女だった。かつては月華太夫と呼ばれ、たくさんの男たちに求婚されたこともあったらしい。女将が月草に今でも少しの情けをかけてくれるのは、きっと母のこともあるのだろう。
 母は月草が幼い頃、月草を一人残して死んだ。父親は誰とも知れない。行くあてもない、身寄りもいない。月草には此処で妓女として生きていく以外に術がなかった。他の選択肢など最初から与えられていなかった。だから諦観はすでに月草の全身を支配して、馴染んで、違和感など抱かせない。異端であるこの身を抱いて、何時かひそりと痛みなどないまま春のような暖かさの中息を引き取れたら、それで。
 絶望に満ちた昏い希望。続いている女将の小言を右から左の耳に流しながらそっと中庭を流し見る。庭の隅にひそりと立つ楡の樹の根元に、今は枯れ葉しか残っていない月草の名の由来となった花がある。梅雨の頃咲く青い花は布地や紙を染めることができるが、すぐに退色してしまう。故に月草は儚さの象徴。母が何を思ってこの名を付けたのかは知らぬが、まるで黄泉の母が手招いているようで。

「ほら洗い物やっときな。それぐらいは働いて貰わないと困るよ」

 何時の間にか妓楼の隅にある炊事場までやってきていた。放り出されるように水場の前に追いやられ、月草が何か異論をあげるまでもなく女将はずかずかと来た時のように大股で歩き去ってしまう。まあ、異論などあるはずもないのだから、別に構わないのだけれど。表の賑やかさとは打って変わってしんと静まり返った炊事場で月草は軽い吐息をつく。下働きの女たちは皆座敷に出て給仕もしているのだろうか。何時も二、三人はみえるその姿は今夜は何処にもいなかった。
 月草は袂から紐を取り出すと慣れた手付きで袖を託し上げる。そうやって仕事のし易い格好になると、地味な着物も相まってもうその姿は下働きの女と然して変わりない。この姿で妓女と言っても誰も信じるものなどいないだろう。妓女の身を飾る装飾品のほとんどは客である男たちの贈り物か、もしくは出来高制で得た賃金で妓女自らが購入している。故に固定の客など一人もおらず、またほとんど客など取れない月草は常に身一つということだ。
 そしてまた、それも身軽で良い、と思っている月草は本当に妓女に向いていない。妓女であるならば這う真似をしてまでも男を繋ぎとめておかなければならないのに。幼くして座敷に出た頃から月草にはそういった執着心は一切なかった。ただ、ただ、諦めて諦めて、早くこの羞恥と心と体を苛む痛みが終われば良いのにとそればかり。
 そう思うのはやはり月草が「女」ではないせいなのだろうか。己の胸元を見下ろす。普通の女と比べても見劣りしない程であると思うのに、それでも月草は女とは違うのだ。どうしても変えようのない事実。諦めて。諦めることには慣れていた。すべてに諦めて、月草は生きてきたのだから。冷たい風が炊事場に吹き込む。身を震わせて、月草は氷のような水に手を浸した。今宵も月が出ている。遠い楽の音、詩吟の声、男女の笑い声。鮮やかな妓楼の光景とは裏腹に。月草の立っている場所は、白い月の光がただ寒々しく照らすだけだった。


2008/12/06

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