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月に香りて白梅や

 ふと、眼が覚めた。温かなぬくもりの中で眼を覚ます要因などあろうはずもないのに、散里はもぞもぞと身を捩る。まだ尚暗い、弥生の早朝。部屋の中に灯された篝火だけがゆらゆらと澄んだ空気に影を作り、あとは高い天井に反響する水音が心地良く耳に届くばかり。触れるのは温かな体温。掛け布に包まっているのは散里の華奢な身体と、それを優しい力で抱きしめてくれる逞しい腕。そろりと相手の睡眠を妨げないように視線を動かせば、愛しい人が。瞼を閉じて、静かに呼吸を繰り返していた。よく眠っている。律影様、とほとんど無意識の内に呟く。彼に届くはずはないと解っていても、彼の名を呼ぶだけで散里は胸の中が温かくなるのを感じた。それはどんな言葉よりも散里を安心させ、勇気付け、幸せにしてくれる。こうして寄り添っている時でも、遠く離れている時でも。貴方がいるから、私は。
 ゆらりと微笑んでから、散里はふと気付く。
 何故こんな時間に眼が覚めたのか不思議だったが、先程から何か鼻先を擽る香りがあるのだ。それは伴侶である律影の爽やかな薫風のようなそれとも違い、絶え間なく流れる水の匂いとも違う。それはそう。少し気を抜けばすぐに見失ってしまいそうな微かな、けれど、無視しがたい存在感をもった香り。何かの花だろうか。似たような香気を遠い昔に嗅いだことがあるような気がしなくもないのだけれど。

 散里はしばらく逡巡したが、結局温かい腕からしばしの間抜け出すことにした。それほど好奇心を刺激するような香りでもないのに、どうにも気になって仕方がなかったのだ。
 律影の腕の隙間から彼を起こさぬようそっと出ると、すぐ傍にあった羽織を手に取る。大きな寝台から降りる前に律影の肩に掛け布を掛け直してやるのも忘れずに、散里は冷たい夜の空気に満ちた寝室で履物に足を入れた。白い夜着の上から羽織った羽織には楓と流水の紋様が刺繍で細やかに施され、装飾自体は小さく控えめだがそれ故に美しい。律影が散里の為に選んでくれたものである。楓の紅色は散里の肩を越えるほどに伸びた朽葉色の髪と薄い赤色をした瞳によく似合っていた。

 春の兆しの見える弥生とはいえ、まだ日も昇らぬ内は何もかもが冷たい。吐き出す息を白く煙らせ、薄暗い闇の中を、散里は香りのする方へとほとんど勘を頼りに進んでく。恐らく香りは天井や窓の隙間から入ってきているのだろうから、外は外なのだろうけれど。正確な方角はほとんど見当が付かなかった。しかし、不思議と散里の歩みは迷わない。寝室を抜け、石造りの廊下へ出ると、そのまま宮の裏側へと通じる扉へと進んでいく。黒檀で出来た両開きの扉は回廊へと抜けるものではない為、普段は滅多に使うことはない。けれど、散里は半ば確信に近いものを抱いて扉に手を掛けた。ゆっくりと静かな力を込めて押す。
 途端、明るい月の光が散里を射抜き、より一層剣のように澄んだ冷たい夜の空気が全身を包んだ。夜空には間もなく真円に満ちようかという月。蒼白く光を放つそれは闇の煮凝りに白い花を散らしたかのような夜空に堂々と鎮座し、見える景色の全てを白く照らしていた。遠く見える水晶の山々は尖端に月光を受けて神秘的に輝き、豊かな緑を称えた森は冬でも葉を落とさぬものは全身を緊張させたかのように濃緑になって夜と同化し、葉を落とした木々は氷のように微動だにしない。風の音はなく、木々が擦れる音も無論ない。しん、と静まり返った静寂の冬の夜。誰も彼もが息を潜めて、夜明けを待っている静止した月夜に。

 凛と香るは白い花。

 香気の原因はこれだったのだ、と一目で解った。幹は決して太くはない。けれど、多くの苔に覆われていることから、随分長い年月を経てきたのだと解る。月を背景に複雑に枝分かれしたその手先には葉は一枚もなく、代わりにぽつりぽつりと白い花が咲いている。可憐な丸い花弁が五枚。その中心は薄緑とも黄色とも付かず、けれど、近寄れば一層に強くなる香り。
 何処か郷愁を誘う香りを、散里は何処かで嗅いだことがあった。否―散里にとって思い出と呼べる場所などただの一つしかない。恐らく散里が此処に来る以前の人生を過ごしていた家の庭に、これと同じ樹木があったのだ。冬の寒い日、同じように白い花を咲かせていた。取り立てて花の形が美しい訳でもない。桜のように一斉に豪奢な花の乱舞を見せる訳でもない。けれど、豊かで優しい香りを漂わせ、春の訪れを知らせるように冬の草木の中でも逸早く花を付ける。
 そんな花を、散里は、確か美しい、と、そう思ったのではなかっただろうか。
 否、それは「美しい」などという畏まった感情ではなかった。ただ、純粋に散里はこの花が好きだった気がする。草木が生い茂る広い庭でその片隅に忘れられたように、けれど毎年花を付ける。此処にもあったんだ、と散里は白い息を吐きながら、目を細めた。ゆっくりと季節は巡り、散里がこの場所へやって来たのは遥か遠い昔のことのよう。けれど、まだ季節は一巡りもしていない。此処にこの花があることさえ知らなかったのだから。もし知っていたら、きっと散里は伴侶にこの花の名を尋ねたはずだろう。幾度もそうしてきたように。優しい時間。何よりも幸せな。そっと、お腹を撫でる。

「散里、」

 低い声が耳朶を打つ。散里が振り返るよりも早く、肩の上からもう一枚羽織が重ねられた。見上げるまでもない、黒い髪に黒い瞳。すらりとした長躯に留紺の夜着がよく似合う人の姿をした龍―散里の最も愛する伴侶が気遣わしげに、散里を見下ろしていた。その瞳には優しい気遣いの色はあれど、非難はない。だから、散里は大丈夫です、とはっきりした声で微笑んだのだけれど、彼はやはり柳眉に皺を刻んで身体に障る、と素っ気無く言い放つ。だから、散里は唇を緩めて彼に向き直ると、その長躯を見上げた。漆黒の黒曜石によく似た瞳は夜の色にも決して混ざることはない。

「大丈夫です。この間、診て頂いた時も順調だって」
「しかし、」

 律影の優しい視線は散里のまだ膨らみもしない腹部に留まる。それは当然のことで、神世で永久に近しい時を生きる龍族の抱卵の期間は酷く長いのだ。雌の胎内でひたすら強固な殻を作り続けながら成長し、卵となって生まれるまで実に少なくとも十年。更に卵として生まれてから、両親の腕による抱卵を受けて数ヶ月。そうして漸く龍の子は新しい世界で産声をあげるのだ。まだその腹に卵を抱いて一年も経たない散里にとっては、何とも長く遠い月日に感じられる。まだ漸く自分の中に新しい命が宿っていることを実感出来始めたばかりのような気がするのに、律影はと言えば逆に酷く気が早い。それともすでに三百年余りの歳月を生きている伴侶にとっては、十年などあっという間なのだろうか。

「まだ抱卵してから、一年も経っていないんですよ?」
「そういう問題ではない」
「でも、」
「散里、」

 思いがけず強い声が募って。

 思わず緊張した散里の代わりに、息を吐いたのは律影の方だった。すまない、と低い声で告げられる。散里は知らず知らずの内に自分が逃げ腰になっていたことに、その時になって漸く気が付いた。離れそうになっていた肩に気遣うように、彼の手が伸ばされる。彼の大きな掌。引き寄せられる力を拒むことなどない。優しい力。ごめんなさい、という言葉は自然と口から放たれた。
 思えば勝手に寝台を抜け出して、外に羽織一枚で突っ立っていたのは散里の方だったのだ。遅れて眼を覚まし、隣に散里がおらず、彼は大層驚いたのだろう。心配、してくれたのだろう。もしも散里がまだ夜も明けきらぬ内から目覚め、隣にいるべきはずの彼がいなかったらきっと。慌てふためいて、心配して、彼の名を呼ぶだろう。何回も何回も。そして、もし、万が一、見つからなかったと思うと。

「ごめん、なさい」
「いや、俺こそ、すまなかった」

 ぎゅ、とより一層強く抱きしめられる。あやすような腕の力。温かい。冬の空気は凛として肌に突き刺さるようだったが、黒い龍と触れている部分だけは全くと言っていいほど寒さを感じることはなかった。

「白梅を見ていたのか?」

 律影が散里を抱きしめたまま、視線を動かす。その先には枝を広げた白い花。その名を散里は知らなかったけれど、恐らく彼が今正に告げた名なのだろう。はくばい。凛とした趣がありながら、何処か優しい感じのする響きを心の中で繰り返しながら、散里はこくりと頷く。

「はい、香りに気付いて、」
「そうか。…梅が好きなのか?」
「はい。家の庭にもあったんです、この花。
 名前は今、律影様が仰ったので知りました」

 微笑んで見上げれば、何故か彼の表情が曇っていた。理由も解らず瞬きを繰り返す散里に、ゆっくりと腕の力が緩められる。静かに身を離されて、冷たい夜気が身を包む。二人の間には蒼白い月の光がつ、と差し込んだ。黒い瞳が揺れている。律影は散里の顔を静かな表情で覗き込み、何かを言おうとして口を開いてはまた閉じる、というのを三回ほど繰り返した後、散里、と名を呼んだ。はい、と何故か此方も緊張してしまい少々上擦った声で散里も答える。
 ずっと訊かなければならないと思っていたのだが、と前置いて、律影は重たそうな口を開いた。

「俺のことを恨んでいるか?」

 その、全く持って、夜空から月が落っこちてくるほどに思いがけなかった問いに、散里は思わず、ぽかんと口を開いてしまった。なんだろう―しばらくは問いの意味さえ理解できない。一文字一文字噛み砕くように、散里は彼の言葉を反芻する。おれのこと?うらむ?どうして?そんなわけが、そんなことがあるはずはない。

「選択肢さえ与えなかった、俺を恨むか?」

 混乱して口をぱくぱくさせている散里に律影は尚も言い募った。「選択肢」。その言葉で、漸く散里は思い当たる節に辿り着いた。あの日、あの夜。湖の畔で。散里は黒い龍神に出会い、そのまま湖の奥へと「連れて行かれた」。それは常識の世に置いては考えられないことだ。たとえ散里が半陰陽で、たとえ散里が実際にあのまま実の両親の元で暮らして一生屋敷から出して貰えなかったとしても、あの瞬間、あの夜に、かの龍神は散里のすべての選択権をもぎ取ったことになるのだ。それを彼は唇を強く引き結んでいなければ、答えが待てぬほどに―悔いている。
 「選択肢」。本当はそんなもの、散里には最初からなかった。そんなもの、最初からこの少女にして少年である子供に与えられてはいなかった。きっと律影に出会わなければ、真実、散里は一生をあの小さい部屋と小さい庭の中で終えただろう。特異な身体を他人に隠し続け、母から教えられた歌を歌い、愚かなままで一生を。まるで羽をもがれた蝶のように。毎年香る梅の花の名も知らず。

「―いいえ、律影様」

 だからこそ、そんな彼の悔恨は無意味であり、それに、もしも、散里が半陰陽などではなくて。愚かでもなく、閉じ込められてもおらず。どんなに普通の少女で、どんなに自由で、どんなに恵まれた生活を送っていて、どんなに賢かったとしても。きっと、自分は。この「散里」という名の魂を持った「私」は。

「私は、どんな境遇で、どんな場所で、どんな時間に貴方に会ったとしても、きっと」

 きっと。

「貴方の事を、好きになったと思います」

 この優しい龍を、愛しいと、全身が震えるように。

「貴方の子を生みたいと、願ったと思います」

 散里には難しい言葉や学問は未だに理解できない。けれど、そんなことが理解できずとも、解っていることもある。愛しいと想う心。触れ合った場所から繋がる温度。身に宿った新しい命はこの人とのものなんだと思うだけで、静かに湧いてくる安心感と強さ。きっと、散里は今、とても幸せだ。そして、この幸福は彼でないと得られない。触れる。微笑む。抱き寄せる。口付け。すべて、すべて、貴方とでないと。
 まるで現実を実感させるように、強く抱き寄せられる。優しいけれど逞しい腕の力。温かい。髪に唇を落とされて、散里はそっと彼の背中に腕を伸ばした。嗚呼、此処にあれる幸福を、全てのものに感謝を。

「律影様、お願いがあるんです」

 三世を統べるという龍―彼の偉大なる父に感謝を。

「もしお腹の子が…律影様によく似た子が生まれたら、」

 漆黒の鱗を持つ才女―彼の賢しき母に感謝を。

「父上と母上に会いに行っても良いですか?」

 そして、もしも許されるならば。

「ああ、勿論―龍神の妻となり、母となったこと、共親に誇るが良い」
「―はいっ」

 何時の日か、胸を張って、あの人たちの元へ。


08/02/16

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