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比翼の鳥が如く

 夜毎涼しい風が吹くようになってきている。雨が降る度に気温は下がり、夏の終焉を知らせてくれる虫たちの音が微かだが耳に残るようになっていた。
 葉月の終わり。もうすぐ処暑を迎えようかというある晴れた日。浬鳴湖の中心部に忽然と立つ蓮崋山玲央洞の回廊を、散里は何をするでもなく一人でてこてこ歩いていた。石造りの回廊は広大な玲央洞の全ての宮へと繋がっており、歩き続けていれば何処に行き着くかは別として、何処へでも行くことができる。だが、散里の歩みにはこれといって目的がない。ただ、石柱から顔を覗かせる鉄線の花に指を伸ばしたり、目の前を通り過ぎる繊細な蜻蛉に目を奪われたりしながら、急ぐことも焦ることもなく歩き続けている。
 平たく言えば散歩だ。

 本来ならばこんな穏やかな午後の時間は、碧雲と読み書きの練習をしたり、他の女仙たちと取り留めのない話をしたりして過ごすのだけれど、生憎と今日に限って碧雲は留守にしており、女仙たちも季節の変わり目を前に衣替えや虫干しに忙しい。最初は自分の部屋で漸く読めるようになった本と睨めっこしていたのだけれど、何だかそれにも飽きてしまって、気がつけばこうして外に足を向けていた。
 季節は明確に移りゆく。此処には散里が十数年以上の時を過ごしてきた小さな庭の何倍もの草木と動物がいて、その全てが散里に「変化」を教えてくれる。
 思えば散里が初めてこの場所に来た時、真っ白な卯の花も藤色の桐の花も満開だった。しかし、今やそれらの木々は青々とした力強い葉を茂らせて、はっきりとした木陰をその下に作っている。三月前の散里であれば、恐らくそれらがあの可憐な花を咲かせる樹だと気がつかなかったに違いない。長い時を狭くて小さな庭先だけで生きてきた散里は、その年齢に相応しいだけの知識を全くと言っていいほど持っていなかったし、何かを知ろうとすることそれ自体を半ば放棄しかけていたから。けれど、今は違う。花の名も樹木の名も一つ一つ教えてくれた人がいるから。眼が眩みそうなほど広い世でも、手を引いて一緒に進んでくれる人がいるから。

 律影様―、

 その名を思い出した途端、鼻の奥がつんとした気がして、慌てて散里は唇を引き結んだ。
 実を言えば、律影とはもう十日も会っていない。今までもニ三日ないし五日は宮を空けることはあったが、十日というのはなかった気がする。仙界の最高位にある玉帝黄龍の息子であり、河川の源流を支配する黒龍でもある律影はそれ相応に忙しい。水神の名は単なる肩書きなどではなく、実際に世の気候を管理しているのは龍族であり、また巨大な河や湖、果ては火山に至るまでの多くの龍が住んでいる。逆に龍のいない河は氾濫し易かったりするので、人々にとっても水神様がいるかいないか、働きものか否か、は重要なことらしい。
 それを考えると律影が浬鳴湖の水位を極端に減らしたり増やしたりせず、常に一定の水量を周囲の山村に供給しているからこそ、水神を崇める祭が数百年も続いているのであり、そう思えば何だか自分の事のように誇らしいような嬉しいような、「寂しい」などと思っては恥ずかしいというか絶対にいけないようなそんな気もするのだけれど。

 でも、やっぱり。
 何と言うか。
 できることなら、ちょっとだけで良いから。
 早く帰ってきて欲しいな、と思ったり。

 ふるふると頭を振って女々しい考えを追い出す。律影様はお仕事をなさってるんだから、と自分を叱咤する。それに何時までも彼がいないと駄目だ、なんて弱々しい考えは良くない。散里はもっと、今よりずっと強くならないといけないだろう。彼は散里のことを守ってくれるけれど、散里にだって今は守らなければならないものがある。
 目線を降ろすと、散里はそっと片手で自分の腹を撫でた。そこにはまだ何の兆しもないけれど、確かに新しい命が宿っている。「彼」が散里と同じようのその眼でこの美しい景色を眼にするのはまだずっと先の話だ。けれど、息づいた命は静かに脈打ってその存在を散里に伝えている。此処に。だから。散里は強くなりたいと思う。まだ、自分には過ぎた考えのような気がして口に出したこともないけれど。何時の日か、必ず。自分の手で自分の子を抱くその日までには。

 散里は誰ともなく微笑むと、もう一度お腹の子に語りかけるように片手を動かした。風が頬をゆっくりと撫でる。幾分か落ち着いた気持ちになり、ずっと回廊に隙間から見えていた良く晴れた空を仰ぎたくて、木立のざわめく石畳の小道へと降りる階段を探す。考え事をしながら歩く内に通い慣れた東屋の近くへ来ていたらしく、小川のせせらぎを聞きながら散里はゆっくり石段を降りた。
 季節ごとに野の花の咲く小道は萱草の橙色の花が目立ち、その影では駒繋や蛍草が小さな花弁を広げている。沙羅の花はもう散ってしまったらしく、純白の落花があちこちに落ちていた。糸蜻蛉が近くの小川に急ぐのか、ゆるりと風を巻いて通り過ぎる。野茨の茂みに着物の裾を取られないように気をつけて進み、まだ緑色の実を付けている棗の木の下をくぐると、ふいに視界が開けた。

 迫った山肌をすぐ傍に備えているのは小さな小さな入り江。目の前に広がる浬鳴湖の鮮やかな翡翠色に白い砂浜。遠くの方は常に霞がかり神秘的な色合いを滲ませる湖は何時もながら美しい。散里は湖と明確に言えるようなものを浬鳴湖しか知らないけれど、それでもこの場所がきっと三世で一番美しいと思うのだ。
 鮮やかな色彩に眼を細めながら、散里は砂浜に点々と足跡を残して、浪打際まで寄る。
 その湖底に水晶の林を持つ浬鳴湖はよく何らかの要因で砕けたその欠片が打ち上げられることがあり、それを収集するのが散里の密かな楽しみだった。山肌にしがみ付くように伸びた蛍袋の淡い紅色が視界の隅で風に揺れる。しゃがみ込んで白い砂地に眼を凝らすと、今日も小指の爪ほどの透明な欠片がころりと水際に転がっていた。慎重にそれを手に取ると、親指と人差し指で挟んで光に透かす。きらきらと輝くそれは矮小ながら、繊細な透明度を誇っており、小さな収集欲が満たされた散里は僅かに微笑んだ。辺りを見渡せば二つ目はなく、そもそもあまり数には拘っていない散里が立ち上がろうとした時。
 銀色が瞬間的に煌いた。
 あれ、と思ったのも束の間、よく見ればそれは浬鳴湖に恐らく万という数いるだろう小さな魚たちだった。何という名なのかも知れぬ流線型をした小魚たちは、すぐ傍で覗き込む散里に恐れた風もなく、ぱしゃぱしゃと水面の近くを泳いでいる。何をしているんだろう、と持ち前の好奇心で散里が眼を凝らそうとした瞬間、ぱしゃっと一際大きく小魚の尾びれが動いて、輝く何かが砂浜へと打ち上げられた。それはよく見慣れた―否、あまり見たことのない水晶。大きさは小ぶりながらよく見るとその中に茶褐色の筋が幾つも入っている。草水晶、と言うのだと、そういえば以前教えて貰ったことがあった。
 感嘆した散里は思わずそれを拾い上げようとして、思い止まった。これは、一体何だろうか。否、散里は一部始終を見ていたけれど、魚が自らこうして水晶を砂浜に打ち上げる性質があるというのは聞いたことがない。それとも、これは何か意味のある行為で、今まで水に攫われて流れいたと思っていた水晶も全部彼らが持って来たもので、ひょっとしてそれを今まで散里が無遠慮に拾い上げてしまっていたのだろうか。
 ―顔の血の気がさっと引いた。こうなったら自室にある小さな箱に集めた水晶を全部持ってきて彼らに返さなければ―、と散里がぐるぐる考え始めたところで、また水面がぱしゃっと鳴った。見遣れば数十匹も集まった小魚たちが銀色のえらを揺らめかせながら、ぽわと小さな泡を吐く。泡は、言の葉に。それは小さな小波の音のようで、それは睡蓮の花咲く音のようで、とてもささやかだったけれど、確かに散里に届く。

―おくがたさま、
―おくがたさま、げんきだして、ね
―あげます
―きれいなすいしょう
―おくがたさま、げんき、でますか?

 幼子のような小さな声が幾つも重なって聴こえた。その全ての音が散里を気遣っているとわかる。小さな小さな気配が、その全てを向けて散里を案じているとわかる。だから、散里は思いがけない場所からの思いがけない案じに吃驚するよりも先に言葉が口から飛び出していた。有難う、大丈夫。水の中にいる彼らにも届くようにはっきりと告げた言葉と笑みに、眼に見えて魚たちが元気良くぱしゃぱしゃとやり始める。それを眼を細めて見遣りながら、散里は彼らが打ち上げてくれた草水晶を手に取った。
 有難う。大丈夫。口に出した言葉は直接散里を鼓舞するかのように響いた。大丈夫、もう此処はあの閉ざされた場所ではないから。此処は美しき龍の住む湖。一人でいても一人ではない。風も水も草花も魚も何一つ散里に関係ないものはない。手を伸ばせば揺れて、確かに此処にある。散里は此処が好きで、此処にあれることがとても嬉しい。散里には愛する人がいて、愛する人々がいて、そして恐らく彼らにも―。

―あ、

 急にぱしゃんと魚が水面を叩いた。泡を発しながらゆらりゆらりと素早く泳ぎ始める彼らに、何事かと散里が眼を瞬かせると。他の魚たちも次々に泡沫のようなささやかな声を幾つも発し始めた。

―どうしゅさま、
―ほんとうだ
―どうしゅさまだ
―おかえりです
―おかえりになられました

 途端、湖の空気が一変した。
 緩やかに吹いていた風が凪ぎ、湖面は小波さえも静まって、神々しい静寂が湖の上を支配する。

 そして。

 膨大な水飛沫を伴って漆黒の龍が湖の中心から姿を現した。艶やかな漆黒の鱗に漆黒の角、静かな光を湛えた漆黒の瞳。翡翠の湖面を割るように現れた彼はその長躯の全てを中空へ舞い上げると、緩やかに全身を震わせて水を払う。銀色の飛沫の中で一対の巨大な宝石のような瞳が、散里の立つ入り江に気付いたようだ。次の瞬間に、彼はゆっくりと虚空を泳いで近付いてくる。まるでその巨大な身体の重みを感じさせない遊泳は久方ぶりに見たからか、息を呑むほどに美しかった。翡翠色の水面に黒い影が連れ添って泳ぐ。一度に見渡せないほどの巨躯と、鋭い爪に硬い牙。この世のどんな生き物よりも強い仙術を扱い、天候さえ操り、人々に神と崇められる天空の獣は。
 散里、と流麗な声で散里の名を呼び。その懐かしいとさえ思える声音に心の奥底まで震わせた散里は、間近に迫った大きな頭に腕を伸ばして。何一つ躊躇うことなく―そう伴侶を抱きしめるのに、何を躊躇うことがあるだろうか。冷たいけれどとても温かな鱗の一つ一つ、そしてその全てを抱きしめるように、ぎゅうと少し力を入れて抱く。愛しい人。優しい色の灯った漆黒の瞳に見つめられながら、散里は更に腕に力を入れて言った。

「お帰りなさい―!」

 常よりも大きな声音に低く静かに龍は笑ったようだった。抱きしめる散里にも振動が伝わる。鼻先をくすぐるのは初夏の風のような何時もの彼の匂いで、それが堪らなく安心した。十日分の寂しい気持ちやらが一瞬で何処かへ飛んでいく。彼もそうなら良いのに、と少しだけ傲慢なことを考えると、散里、ともう一度彼が呼んだ。まだ頭を抱きしめている散里を慮ってか、酷く小さな声だったので、散里はちょっと名残惜しそうにその腕を解いて離れた。向き合うと明らかにそれとわかる微笑を浮かべた龍が、穏やかに訊いてくる。

「特に変わりはなかったか?」
「はいっ」
「不便はなかったか?」
「はいっ」
「寂しくはなかったか?」
「は―」

 はい、と言おうとして散里は一瞬躊躇した。恐らく散里ははい、と言うべきなのだろう。その方がきっと律影を心配させないし、困らせもしない。けれど。本当は、少しだけ、寂しかったことを、怖かったことを、告げたかった。主が不在の部屋は何時もよりずっと広くて、寒かったことを。一人で眠る夜は何時もよりずっと長かったことを。「大丈夫」であろうとしたけれど、まだ自分にはちょっとだけ背伸びが必要で。
 伝えたくて、全部。けれど、その膨大な気持ちを自分の口からとても伝えきることができそうになくて、散里は若干逡巡した末に、律影様、と口を開いた。律影がいなくて寂しかったこと。寂しくて、寂しかったけれど、改めて此処にあることを実感できたこと。そして、今確かに此処にある、溢れ出さんばかりの幸せを拙い言の葉に乗せて。

「律影様が長く留守になさって、ちょっと、だけ、寂しかったです。
 でも、今は、とても嬉しい」

 貴方がいるから。

 その笑顔に。
 龍はほんの少し驚いたように動きを止めた後、有りっ丈の優しい口付けを散里にくれた。


07/09/13

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