ibaraboshi***

home > 小説 > , , , , > 翡翠之薫風

翡翠之薫風

 蓮崋山玲央洞は浬鳴湖が中心に位置する。
 標高こそ低いものの、その周囲を莫大な水量を湛える翡翠色の湖に囲まれ、更に洞への入り口である大門を水中に設けることにより、神域としての必要不可欠な清浄さを限りなく保ち続けている。山はほとんどの場合、ぼんやりとした霞に覆われ、沿岸からはその姿を拝むことは出来ない。しかし、もし外側からはっきりと見ることが出来たのならば、恐らく怜悧にして優美なその姿に見惚れぬものなど一人たりとていないだろう。
 蓮崋山は鋭く尖った幾つもの峰を保持し、その山肌にまるで樹木のように所々水晶を生やしている。頂上付近は険しく僅かな高山植物と水晶が花咲くばかりだが、高度が下がるに連れて可憐な野の花が咲き乱れ、清水が湧き出し、蝶や小鳥が舞い遊ぶ。そして、ちょうど中腹辺りはまるで湾のように湖が侵食する形になっていて、その美しい色に面するように巨大な宮が建てられている。純白の大理石と純度の高い玻璃を惜しみなく使った、たとえ人界の王であろうともおいそれと建立できぬような荘厳な造り。それこそがこの蓮崋山玲央洞が主、玉帝黄龍の第四十七子である慈澪真君が宮。無機質ながら計算し尽され、まるで山と一体化しているかのようなこの宮に住まうのは、主である慈澪真君と数多の女仙、そして、僅か二月ほど前にかの龍神―律影に見初められ伴侶となった散里―即ち、今東屋でせっせと漢詩の書き写しに励む《彼》である。

 長らく降り続いていた雨も止み、日毎日差しの厳しくなる、季節は文月。

 杉板で葺いた東屋は奥宮の隣、小川のせせらぎが聞こえる畔にひっそりと佇んでいる。周囲には立葵や鳶尾草が生い茂り、涼やかな風が囁くように吹けば、水面には蜻蛉が飛び、魚が銀色を翻して跳ねる。眼に映るのは麗しいばかりの初夏の緑だけであるが、無論、散里にはそれに眼を映す余裕はない。東屋に広げられた一式の机と椅子。辺りには墨の香ばしい匂いが漂い、彼が物慣れぬ感じに筆を動かす緊張感が満ちている。手習いの本と睨めっこしながら白い半紙に丁寧に詩を書き写していく様を、穏やかな瞳で見つめているのは、真っ青な髪を纏め上げた妙齢の女仙。散里の真正面に背筋を伸ばして座る様子でさえも絵になってしまうような彼女は名を碧雲といい、律影に仕える筆頭の女仙でありながら、散里の面倒を第一で見てくれる才女である。
 しばらくは水の音と夏鳥の高い鳴き声ばかりの静寂が落ちる。

「…できた」

 最後の文字の最後の留めを終え、筆を硯の上に戻してから、漸く彼は緊張感から解放されたように大きく息を吐いた。半紙の上にはどうにか手本に似せて書いた詩が一編。碧雲が失礼致します、と一言断ってから出来上がったばかりの写しを手に取る。青色の視線が文字の上に真剣に注がれる。散里は先ほどとは違う緊張感を胸に何となく落ち着かない心持ちで、彼女の表情をじっと見つめた。正確な時間にすれば恐らく何十秒もかからなかっただろう。けれど、散里にしてみれば余程長い間を置いて、漸く碧雲は顔を上げるとにこりと美麗に微笑んだ。

「随分と上達なされました、翠漣様」
「ほ、ほんとっ?」
「はい。最早、手本と比べましても遜色御座いません」

 そう言って碧雲は散里の書いた詩と手本の詩を並べておいてくれたが、散里にしてみればやはり自分の字は自分の字であって、彼女がそれほどまで誉めてくれるに相応しいものかはわからない。ただ、碧雲がそうやって認めてくれたことは素直に嬉しくて、つい笑みが零れてしまう。
 碧雲は散里に対して大概優しすぎるくらい優しかったが、学問に関してはそれ相応に厳しい師であった。彼女は散里のあまりに未熟な筆遣いに呆れたり怒ったりこそしなかったが、決して手を抜きもしなかった。それに懸命についていくこと、早一月半。微笑と共に貰えた及第点は散里にとっては何よりも嬉しい。だからこそ、散里は有難う、とはにかむように微笑んで礼を告げた。それは今日の賛辞に対してだけではない。今まで教えを授けてくれたこと全てに対しての全幅の信頼と感謝。すると、彼女も益々笑みを深くして、柔和な瞳で静かに頭を垂れる。

「翠漣様に御教授することが出来まして、碧雲も嬉しゅう御座います」
「そ、そんなこと、」
「慎ましいところも翠漣様の美徳で御座いますが、今回ばかりは胸をお張りなさいませ。
 翠漣様が御自分の筆を誇って下されば、わたくしも鼻が高う御座います」
「そう、なの?」
「はい。―あ、折角で御座いますから、」

 絶賛されることに慣れていない散里がひたすら戸惑っている内に、何か思いついたように碧雲が口元に指先を当てる。可憐な仕草と共に青い髪がゆるりと頬にかかり、彼女の美しさに拍車をかけ、そして、覗く微笑。

「真君様にお見せに伺ったら如何でしょう?」
「―え、律影様、に?」
「はい。今は書庫にいらっしゃるはずですから」
「でも、邪魔をしては、」
「大丈夫です、翠漣様。もうあの御方が書庫に篭られてから数刻経っております。故に、」

 そろそろ書き物ばかりの御公務にうんざりなさっている頃ですから、と秘密でも打ち明けるかのようにそっと囁いて、碧雲は笑ってみせた。それを聴いて思わず散里は大きな瞳をぱちくりと見開く。散里の伴侶である律影は、散里の知る限り、何時も熱心且つ生真面目に机に向かっていて、「御公務」と聞いて思い出す姿も難しい表情ばかりだ。そんな彼でもうんざりしたりするのかと思うと、ちょっとだけ不思議で、ちょっとだけ可笑しい。「うんざりしている」律影を頭の中に思い描こうとして、ついつい散里は小さく肩を震わせて笑ってしまった。
 最近富に笑みを見せるようになった散里を眩しげに見遣ってから、さあ、と碧雲が彼を促す。それに後押しされるように散里も半紙を手に立ち上がる。本当は、ちょっとだけ、ちょっとだけなのだけれど、彼にも見せたいと思っていたのだ。碧雲にたくさん誉めて貰った自分の字。まるで今日の陽気のような心地良い詩を、部屋に篭っている律影に見せてあげたい、と思った。

 だから、迷ったのは少しの間で、散里はすぐに碧雲に「いってきます」を告げると、軽快に宮へと続く小道を心持ち早足で歩き始めた。後ろから足元にお気をつけ下さい、と飛んでくる声に律儀に返事をし、何度も通い慣れた道を行く。石畳を踏み、薫風に揺れる鬼百合を掠める燕を横目に、鉄線花が絡みつく回廊へと入る。切り出された大理石で造られた回廊の中は何時もひんやりとして、石柱の間から見る景色は何故だか少しだけ涼しげに見えた。やがて二手に分かれる道を右へと抜け、しばらく歩くと見えてくる巨大な石の扉。軽い足取りで散里が近付くと、それは勝手に重たい音をたててゆっくりと開いた。

 玲央洞の中でも最も奥に位置し、最も大きな宮。それが散里の伴侶である慈澪真君こと律影が主に公務の為に使う書庫や寝所を備えた宮だ。
 石の扉の向こう。現れた広い空間の壁は書物の並んだ棚に占拠され、窓から差し込む光によって薄ぼんやりと浮かび上がっている。何時も墨と紙の匂いに満ちた部屋をきょときょとと見回しても律影の姿はない。あるのは規律正しく並べられた膨大な数の書と夜になれば自然と光を発する水晶球のみ。それでは、文机などが置かれた公務の為の部屋にいるのかと、圧迫感ある書棚の林を抜け、書庫から続く扉を開いてみたが、中に人影はない。ただ、先ほどまで確かに誰かが何か為していた証拠に広げられたままの書と使われた形跡のある蒔絵の硯箱。
 散里は首を傾げる。ひょっとしてもう彼は公務を終わらせて出て行ってしまった後なのだろうか。今日は一日書庫に篭っているという話だったけれど、もしかしたら思いのほか早く片付いたのかもしれない。そうであるならば、きっと入れ違いになったのだろう。慌てて引き返そうとして、しかし、ふと散里は思い当たり足を止めた。この先、入り口とは反対側にある扉の一つ。その先は廊下であり、廊下の先には階段があり、散里が何度か律影に連れられて昇った露台がある。
 別段、確信があった訳ではない。ただ、何となくその場所を覗いてからなら無駄足にはなるまいと、散里は扉へと駆け寄った。窓から差し込む細長い光に照らされた廊下を抜け、一度だけ折れ曲がった階段を慎重に昇る。階段を昇る時は何時も以上に気をつけなさい、と言われていたからゆっくりと。段数を数えるくらいの心持ちで昇りきり、そうしてまた現れた廊下を抜け、露台へと続く両開きの扉をゆっくりと開く。

 かくしてそこには。

 眼前に広がる美しい浬鳴湖を前に、籐の椅子で静かに寝入っている律影の姿。何時も強い意志の光を宿している瞳は閉じられ、その表情を想像以上にあどけないものにしている。律影はその立ち居振る舞いからもわかるとおり、滅多に己の無防備な姿を見せることはない。幾度となく寝台を共にしたけれど、何時だって散里は律影よりも早く寝て、遅く起きることになる。だから、今までに見たこともない彼の表情に思わず心臓を跳ね上げ、別段悪いことをしている訳でもないのに、意味もなくおろおろとしてしまって、彼が起き出しはしないものかとしばらく待ってみたが、一向にその気配はなく。
 仕方がないので、散里は律影様、と声をかけつつも彼にそろそろと彼に近付いた。彼はしっかりと瞼と唇を閉じて眠っていて、起きるつもりはないらしい。その整った横顔を見ながら、余程お疲れだったのだろうか、と散里は胸を痛める。恐らく気分転換にやって来たまま寝入ってしまった彼を、本来ならば起こさなければならないところなのだろうけれど。散里はそんな気にはなれず、彼の寝顔に見入っていた。静かな寝息。表情はなく、彼がどんな夢を見ているかはわからない。けれど、どうか穏やかで安らかなものであれば良い、と散里はほとんど無意識に彼の髪に手を伸ばした。硬質な手触りを持ったそれを静かに梳く。何時も彼が己にしてくれるように。そうされると、散里は何時だって幸せな気持ちになれたから。

「…散、里…?」

 唐突に動いた彼の唇。吃驚して思わず身体を硬直させた散里を一人置いて、彼の瞳が静かに開かれる。漆黒の。何よりも散里が綺麗だと思う、黒曜石の瞳。彼にしては珍しく寝起きでぼんやりとしているのか、ゆっくりと焦点が彷徨い、散里へと向けられる。散里、と今度は先ほどより幾分かしっかりした声が散里の耳朶を打った。

「居たのか…すまない、気付くのが遅れた…」
「い、いいえ!私こそ起こしてしまって、」
「いや、」

 散里がぶんぶんと首を振って謝罪しようとするのを、律影の低い声が遮る。人の姿を取った龍神はゆったりと、今度は眠気の為ではなく眼を細め、愛しそうに散里を見つめた。その穏やかな色。単純に、ただ綺麗だ、と。散里が思うほどに柔らかな視線と共に、彼の大きな手が伸びてきて、散里の手を取った。

「お陰で、良い夢を見た」

 そう言って指先に落とされる口付けに、ぼうっと一瞬で散里は顔を真っ赤に染めた。彼が笑う様が唇を通して伝わる。どうしたら良いのか、どう答えて良いのか迷っている内に、名を呼ばれる。そして、何時の間にか身を起こした彼に腕を引かれるのと同時に、その両腕にすっぽりと抱き込まれた。急に変わった視点と急に近くなった彼の表情に一人で慌てていると、尚も微笑を崩さぬ彼から額に口付けを受ける。額に髪に降り注ぐような、口付け。何処までも優しい触れ方に漸く落ち着き始めた散里がくすぐったそうに身を捩ると、彼はその両腕に少しだけ力を込めて散里をもう一度抱きしめた。ゆっくりと混ざり合うかのように近い温度と鼓動。あまりに心地良い空間は散里を眠りに誘うのに充分で。見せたいものがあったのに、という思いは徐々に睡魔に押しやられていく。律影様、と呼びかける声に、答える穏やかな声。ただ、それだけで。大きな幸福に満たされる。

 風が吹く。日の長い夏の日の緑陰。池には露台が逆様に映り、風が吹けば水晶の御簾が鳴る。そして、咲き誇る満開の薔薇の香に囲まれて―。

 詩の中の情景を我知らず思い起こしながら、散里は広い腕に抱かれるとゆったりと眠りの淵へ落ちていった。静かに、紡がれた伴侶の言葉を最後に耳の奥に残して。何処までも美しく広がる浬鳴湖の囁きとせせらぎによく似た彼の鼓動を聴きながら。

「―而腕在睡蓮花也―」

―しかれど、我が腕にあるは睡蓮の花である―


07/08/12

新しい記事
古い記事

return to page top