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恋を知る花

「主は伴侶を貰い受けはしないのかえ?」

 目の前で優雅に茶を啜っていた純銀の大狐を本性とする神仙は唐突にそう言った。
 長い髪に真紅の瞳を有する彼は、幽蕾山霞晶洞が主、銀紗羅真君。かつて袁王が三世の世を荒らしまわった折に、玉帝黄龍から共にその討伐の任命を受けたことで懇意になった神仙である。律影にとっては悪友、とも言えるべきか。出会った当初から全く変わらぬ美貌を有し、変化の術に精通した彼はその気になれば幾らでも絶世の美女に化けられる。宮中惑乱、と称された彼の悪行においても、厄介な才能は存分に発揮され、渡り歩いた四王国全ての王をあっという間に骨抜きにしたのだとか。だが、その悪女とも思える過去の所業とは違い、彼の本質は実に男性的であることを、律影は知っていた。実際、銀紗羅はその身の美麗さを理由に女性扱いされることを何よりも嫌ったし、如何せん才知による矜持が信じられないぐらい高かった。妖術にも仙術にも通じ、仙界一の術師とまで謳われる彼にとって、他者から受ける支配ほど侮辱的なものはないのだろう。たとえそれが愛情と呼べるものであったとしても。
だからこそ、律影は銀紗羅真君があらゆる意味で人生を共に歩む者が現れる日など、終ぞこないであろうと、半ば直感的に思っていたのであるが。
 しかし、随分と久しぶりに前触れもなく尋ねてきた彼は酷く上機嫌で気持ち悪いくらいの笑顔だった。あまりにあまりの事態に思わず律影は一体これから何が起こるのかと身構えたのだが、彼から発されたのは予想外の言葉。あの硬質な声音で言うことにかいては、実は先日妻を娶っての、と。完全なる寝耳に水。人はあまりに驚きすぎると、実際何の反応も出来ないものなのだな、と冷静に頭の片隅で考えつつも律影はは?と発したまま固まってしまった。よく聞こえなかったと思ったのか、銀紗羅はご丁寧にも二度も同じ言葉を繰り返してくれたが、それは良い。この静かな東屋で互いの言葉聞こえないと言うことがあるか。存分に聞こえている。ただ、その意味は、理解し難いだけで。
 静かに混乱している律影を他所に、銀紗羅は相変わらず上機嫌で如何にその娶ったと言う女が愛らしいかを説いてくる。こうも饒舌に皮肉以外を喋る彼は珍しくて、やはりしばしその口の動きを眼で追ってしまった律影は、話も半ばに差し掛かったところで漸く正気を取り戻して、巨大な吐息をこっそり吐いた。要するに惚気だ。千年月光を浴び続け只の獣から妖へと変じ、そして更に幾千年の年月を経て神仙と成った純銀の狐は、どうやらこの歳になって漸く得た妻が可愛らしくて仕方がないらしい。かの奥方の髪の色やら瞳の色やら指先やら、表情やらについて延々と口の留まるところを知らない彼に、適当に相槌を打ちながら感慨深げに律影は茶を啜る。
 恋をすると人は変わると言うが。それは神仙も例外ではないようだ。
 年齢と言うならばまだ三百余年あまり。龍族においてもまだ年若い律影は、しかしそれでもそろそろ伴侶を見つけてはどうだ、と父である玉帝から進言されることしばしとなってきた。黄龍直系最後の子である律影の母は当然龍族だった。誇り高い龍族の女はその総数も少なく、何よりその身を男に預けるを良しとしない。それ故に、玉帝以外の龍族の男は、ほとんどが異種族の女を娶る。人であったり、神仙であったり。状況は様々だが、しかしそれでも律影に幾許かの戸惑いが、あったのは確かだろう。長い間、龍族の宮で龍族に囲まれて生きてきた律影にとって、異種族の女を娶る、という行為は、些か抵抗を覚えるものだったのだ。機会がないわけではない。毎年のように、水源の安寧を願う村人たちによって、律影が司る湖には年若く美しい娘たちが訪れる。だが、その誰もが律影にとって特別な存在となることはなかった。ただ、ただ、慣習として繰り返される儀式としての擬似的な花嫁の宴。
 律影はそっと息を吐いて、ゆるりと首を振った。

「その予定は、ない」
「ほう、相変わらず愛想のない男よの。確かにそのように顰め面ばかり晒していては愛らしい伴侶も寄っては来なかろうて」

 そう言って何時もの皮肉を取り戻した銀紗羅は笑う。人の表情については余計なお世話だ。悪いが律影は生まれてこの方、この狐のように適宜笑みでやり過ごしてきた、ということはないのだから。ますます渋面を作った律影に、それでも銀紗羅は唇を歪める。付き合いの長い彼は、今更この程度の不機嫌露出では、少しも怯んだりはしない。ただ、相変わらずのゆったりした口調から、彼は言葉を紡ぎだす。

「まあ良きや。主がつがいとなろうとなかろうと、我には関わりなきこと」
「全くだ。お前の婚姻は祝すが、人に要求することは止せ」
「ふふ、そのようなつもりはなかったがの。しかし、慈澪―、」

 彼は鬱蒼と微笑む。それは今まで律影が見たこともないような、彼の新しい表情だった。緩く柔らかく、何かやわいものでも、その手に抱いているようなそんな顔。ゆったりと細めた瞳の真紅は何処までも穏やかで、思わず律影は眼を見開いた。

「恋慕とは良きものよ?この銀紗羅、幾千年と生き繋いできたが、今こそ正に生き世の心地なれば」

 そう言って、笑うさまに、何だか居た堪れなくなって、律影は視線を逸らした。そうか、とだけ告げた言葉に何を思ったのか。銀紗羅にしては珍しいことにそれ以上は何も言わず、ただ彼は長い白銀の髪を揺らして天を仰いだだけだった。ひょっとしたら彼は律影の困惑を見抜いていたのかもしれない。たとえ、大仰に振舞ったとしても、知識も才も負けず劣らぬ、狐と龍だったとしてもその経験の差は歴然。踏みしめてきた生き様の違いを見せ付けられたようで、律影は重苦しい息を吐く。伴侶か、と口の中で呟くに留まった言葉に当然のように気付かない銀紗羅は、やわりと眼を細めて蒼穹へと手を伸ばした。

「何れ時は来よう。それまでは精々、我の惚気に付き合っておくれ」

 惚気という自覚ぐらいはあったのか。
 嫌そうに顔を顰めた律影に何時もの意地の悪い笑みを取り戻して、くすりくすりと銀紗羅は笑った。断る、と真剣に突っぱねた言葉にも、百年か二百年か楽しみだのう、慈澪?と彼は取り合わない。何事もなかったかのようにそれでの、と続く惚気の続き。美麗な唇から零れ落ちる散々甘い言葉に胸焼けを覚えながら、今度は律影が天を仰いだ。百年か、二百年か。それとも数千か。確かに現実になりそうな未来に、途方もない疲労感を覚えて。

 しかし。
 しかし、それは思うよりも随分と早く、律影の元へ訪れた。

 最初に彼を見初めたのは、ほんの偶然だった。浬鳴湖から繋がる水脈の一つに、かの屋敷の池があった。ただ、それだけのこと。一見、何でもないように見える小さな池が、地下にある水脈を掘り下げて何百年という年月、滔々と清水を涸らさぬ貴重な水源であることを、恐らく誰も知らなかっただろう。季節は初春。春雨の続く日。まだ肌寒い日が続くと言うのに、彼は縁側に座って、指先で毬を弄びながら、爪先を揺らしていた。
 柔らかそうな朽葉色の髪。少しだけ長い髪は背中へと無造作に流されていた。白磁のような肌は木目細かく、何処を見ても傷一つない。優しげに引かれた眉。優しい珊瑚朱の色をした瞳は、しかし全ての幸福を摘み取られたような、くすんだ憂いを映し出し、長い睫毛の陰影は美しさよりも、何故だか哀れを誘った。藍色の着物の袖や裾から覗く華奢な手足。薄い身体は少女のようでもあり、それでいて少年のようでもあった。矮小なる蛇の如き大きさまで身を窶した律影は、雫が池の水面を叩く飛沫に混じって、漆黒の瞳でそっと少年を伺った。彼は当然のように、律影の存在には気がついていない。ただ、相変わらずぼんやりとした表情で爪先を揺らしていた。仄紅の桜貝のような爪が、視界で揺れる。
 柔らかな、色。律影が持たぬ、色だ。決して鮮やかではないが、しかし、静かに咲き誇る野の花の趣のある少年だった。伸びやかに、晴れやかに、その表情咲いたのならば、どんなにか美しいだろう。今はまだ見えぬその美を思い、歯痒く律影は尾を振った。一体、彼を何がそんなにも苛んでいるのか、律影には知ることが出来ない。神と言えども扱う力は限られ、そしてそれは決して彼には及ばないのだ。名も知らぬ、少年の表情一つ晴らすことさえ。
 そこで漸くはたと律影は思い至った。長々と山を濡らし、田畑を潤した、この春の霧もそろそろ晴れても良い頃だろう。黒龍は水行を操り、水脈を律し、気象を自在にする。とは言っても勝手に天候を変えることは、大地に混乱を招く可能性がある為、極力控えてはいるのだが、今回ばかりは見逃して貰うことにしよう。今は蛇の如き姿であろうと、龍神は龍神。ぽちゃりと池の中に潜った律影は、ぐるりと底を旋回すると、術を紡ぐ。ただ、暗雲が晴れ、光差すようにと。願えば、それは神の言葉として聞き届けられ、天空へと確かな現象として現れる。即ち、まるで掃いたように黒い雲は流れ、覗くのは白く棚引く薄雲だけがある青空。そして、大気に残る水へと陽光が柔らかに差し込めば。

 ―わあ…、

 それは、確かに彼の感嘆の声だった。清らかな水の中から再び顔を出した律影の目の前、やはり縁台に座った少年は、蒼穹へと見事にかかった虹に眩しそうに眼を細め、仰いでいる。指先で庇を作り、光の下で、それでも先程よりは幾らか、温もりのある顔を見せた彼に。嗚呼、と律影は感動を覚えた。胸を占める、甘い感情。望むのは、彼の表情だ。泣きそうな、辛そうな、まるで夜に溶けてしまいそうな、そんな顔ではなくて。温かな光の下で、温かに咲く、花のように。
 笑ってくれれば良いのに。
 どうかお願いだから、全ての悲しみを飲み下してしまったような顔をしないで。心の底から微笑んで欲しい。願う心は酷く温かいのに、何故か同時に胸を締め付けるような痛みも伴って、律影は漆黒の瞳をゆるりと細めた。出来ることならば、今すぐに傍に寄って行って抱きしめたいと思った。その華奢な身体、憂いの表情、この両腕で癒せたのなら。そして、もしも、美しい翡翠の花の如き笑顔を、この両手で与えることが出来たのならば―、

 嗚呼。

最早、龍は気がついてしまった。
この、あまりにも露骨な感情に。
自分には訪れることなどないと思っていた。
柔らかく温かで甘く、そして狂おしい。

 恋情。

 これまで感じたことのなかったような熱が満ちて、身を震わせる。動物的な直感が律影へと告げる。彼はきっと「特別」となると。その瞳でもその唇でもその指先でも良い。その全てが、ただ唯一律影を震わせることが出来る。まるで雨の後、大地に草の芽が芽吹くように覚えた感情をそっと抱いて、律影は漆黒の瞳へと彼の姿を焼き付けた。柔らかな髪も綺麗な色の瞳も、全て。何時か、この腕で抱けることを祈る笑顔を想って、今は身を翻す。僅かな水音に、誰も気付かなかっただろう。ただ、律影だけが、一匹の黒龍だけが、初めて覚えた感情に胸を躍らせていた。

 恋慕とは良きもの。

 今正に銀紗羅の言葉が蘇る。嗚呼、そうか。今なら特にうんざりすることもなく、彼の惚気にも付き合ってやれそうだ。水脈を泳ぎながら、こぽりと笑みと共に零れる泡。季節は春。未だ水温んで僅かな季節。婚礼を模した儀式までは後数十日。待つことは苦ではない。三百余年。彼に出会わずに過ごしてきた日々を思えば、それは些細な時間に過ぎぬ。ただ、種から芽吹き、葉が伸びて、やがて蕾が花開くように。愛しく抱いた想いを胸に。

 この手にその笑顔抱く頃には。湖の睡蓮も恐らく、満開となるだろう。


07/08/12

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