ibaraboshi***

home > 小説 > , , , , > 天楽の昼下がり

天楽の昼下がり

 空を往く。一匹の漆黒の龍が水中を駆けると同様に、天空の海を駆けていた。巨躯が風を切る度に、雲が裂け、旋風が起こり、ふわりと涼しい風が散里の頬を撫でる。高い、高い、空の上。真っ直ぐ前を向けば、視界を埋め尽くすのは白い雲と澄み渡る蒼穹でしかない。勿論、生まれてこの方、こんなに空に近しい場所に来たことなどない散里は、最初は恐々と自分を包み込む大きな龍の掌に掴まっていたのだけれど、すでに空の遊覧を開始して山を幾つ越えただろうか。素晴らしい速度で進む龍から見る景色の物珍しさに、何時しか好奇心の方が打ち勝って、その大きな瞳いっぱいに景色を映すので忙しい。
 十六年という年月を屋敷の中、それも部屋と小さな庭に限られる狭い空間で過ごしてきた散里である。見るもの見るものが珍しくてしょうがないのは何時ものことだが、それでも空からの景色は圧巻だと言って良い。遠く下にある新緑の山々は昨日降った雨の雫できらきらと輝いて、鮮やかな色彩を空へと反射させている。浬鳴湖から注ぎ流れる河の名は梁江。最初はまるで細い線のようだった翡翠色の川が、徐々に太く広く、大地を全て潤す大河へと変化していく様は最早散里にとっては神秘的としか言いようがなかった。その上、この大河の源流を司るのが今正に散里を抱えて天空を駆けている、生涯を誓った伴侶なのだと聞かされては。もう、言葉も出ない。あまりに規模の巨大な話にふらふらと感じる眩暈と共に、散里は実感する。
 嗚呼、この人は本当に「神様」なんだなあ、と。
 しかし、水を自在にし、山河を司る龍は散里を愛してくれる。散里だけを、伴侶へと選んでくれた。日々が過ぎるにつれてじんわりと実感する、そのとても幸福な事実。身の内に宿った温かな命の息吹と共に常に散里は思う。この人と寄り添って生きていける日が続くだけで、自分は本当に幸せだと。柔らかに、紡がれる永久の歳月。龍の妻となること、子を成すこと、全てに不安がないとは言い切れないけれど、でも、今はとても、穏やかに優しい。自分を落とさぬようにやんわりと包んでくれる大きな指先をぎゅ、と握り締めた。どうした、と降ってくる声と黒い瞳に、ふるふると首を振るう。大丈夫です、と笑えば、そうか、と彼も笑った。獣の顔で笑った、とは可笑しな表現かもしれないが、それでも散里には明確に解る。彼は笑う。本当に優しい声音と顔で。それが、散里は、大好きだ。
 目的地まではすぐだと聞かされていたが、ふと散里が眼を落とすと眼下には山々の風景とは違う、鮮やかな色が広がっていた。赤い柱に緑色の瓦屋根。そんな屋敷が幾つも幾つも折り重なるように同じ場所へと密集して建っている。畑の緑はない。ただ、真っ直ぐに伸びる道に人々がひしめき合い、その中央には一際巨大な宮殿がどっしりと構えていた。その造詣は散里の住む玲央洞の美麗さには負けるが、それでも並々ならぬ意匠が施してあることは確かだった。石造りの太い柱に巨大な屋根。神仙が住んでいるのだろうか。こんな人の多いところに?首を捻った散里は一瞬躊躇った後に、律影様、と伴侶を呼ぶ。ゆるやかに漆黒の視線が散里へと落とされた。

「あの大きなお屋敷は何ですか?」
「ああ…あれは王宮だ。人の王が住む」
「…ひとが…あんなに大きなところに…?」

 吃驚して眼を見開いた散里に彼はやはり静かに笑ったようだった。散里は農村の生まれだ。此処が人々の住む、最も大きな「村」なのだと言われてもすぐには理解し難かった。何故、こんなに人が集まって住む必要があるのだろう。畑など一つも見かけないが、それでは一体何処から人々は食べるものを調達しているのだろうか。謎は尽きないが、兎に角も見慣れぬ壮大な「都」の様子に眼を見張っていた散里に律影が言葉を落とす。

「…羽天夫人はこの王都の出身と聞く。尋ねれば詳しい話を聞かせて貰えるのではないか?」
「え…、こ、此処に住んでいた方なのですか…っ?」
「ああ。そう聞いたが」

 今から見知らぬ人に会うというだけで緊張していた事実を今更思い出して、散里はぴしりと背筋を伸ばした。そう、向かうは幽蕾山霞晶洞、主は銀紗羅真君という名の律影の旧知だという白面九尾の大狐。そして、かの神仙の夫人が先に彼が口にした羽天夫人、その人。聞くところによると大変な博識で、詩歌や楽にも通じ、才知溢るる美丈夫だという彼に、散里はこれから手習いを受けにいくのである。
 何しろ幼い頃から学という学は何一つ受けてこなかった散里である。簡単な読み書き程度であれば、律影や碧雲に少しずつ教わっているが、それでも十分であるとは言えなかった。やはりそれなりに学問に通じた人材が適当だろう、と律影が白羽の矢を立てて申し出たのが、彼だったのだ。聞けば、かの夫人の伴侶である銀紗羅真君は、快く引き受けてくれたそう。そんなに心配するな、と言われているが、それでもやはり緊張するものは、する。
 しかし、散里の不安は他所に都を越え、再び山河の景色を幾つか越えた頃、眼前に聳え立つ神山が見えてきた。神々の住む山。神域とも聖域とも呼ばれる麓から雲を飛びぬけて、青々と木々の茂った美しい山が堂々と構えている。真っ直ぐに龍がそこを目指して飛んでいることから、散里にも簡単に察しが付いた。この山が、幽蕾山。名の通り、霞がかった美しい山景に思わず口を開けて見入った散里を連れて、律影はその頂上付近、大門を目指す。神仙の住む宮への入り口、大門は神山の中でも特別に結界や清浄を保つための儀式が執り行われる、正に秘境。蓮崋山では大門は浬鳴湖の中、つまり水中にあるのだが、幽蕾山では大階段の上にそれがあった。
 門を潜れるのは無論神仙でなくてはならず、その上、山の主の許可を受けていなければならない。その点、事前に訪問の知らせを打っていた黒龍はまるで招かれるように、大門を潜り抜けた。途端に散里にも解るほどに、空気が濃密に変わる。支配するのは花の香り。一年中、四季の花が絶えぬという幽蕾山に散里は今、到着したのだ。大門から石畳の真っ直ぐな山道が続き、そして、やがて見えてくるのは宮への入り口、そして出迎えの女仙たち。玲央洞の女仙は主である律影が黒龍であるために、蛇や蛟、他には蜆貝や葦などから仙へと転じた者たちが多い。一方、幽蕾山はその立地もあって小鳥や草花の女仙が多いのだと聞いていたが、確かに、その色彩を見れば、一目瞭然。青や赤や黄色や緑。様々な髪の色と瞳の色、そして美麗な衣装を身に纏った十数名の女仙が、一様に一礼して迎えた、その眼前で散里はそっと龍の掌から石畳の上へと下ろされる。
 朽ち葉色の髪は紅珊瑚の付いた組み紐で緩くまとめ、身に纏った朱鷺色の着物は律影が誂えてくれたもの。素っ気無いと言えば素っ気無い出立ちに急に気恥ずかしさを覚えた散里は、ぱたりぱたりと手持ち無沙汰に裾を叩いた。だが、次の瞬間にはしっかりとした両手が柔らかに肩を掴んで、はたと散里は上を見上げる。漆黒の髪に漆黒の瞳。すでに人の形態を取った律影は、己の伴侶を引き寄せるようにして、堂々と隣へと立つ。威厳すら溢れる黒の気配に。散里は途方もない安堵感を得て、彼の衣装を握り締めた。じんわりと伝わる体温が、とても心地良い。

「ようこそ、幽蕾山霞晶洞へ。我が名は藍春。お二方のご案内を務めさせて頂きます」

 どうぞ良しなに、と一礼した一人の女仙がやがて顔を上げ、目の前に威風堂々と建つ門の先を指し示して、言う。丸く繰り抜かれた巨大な石門には《満月路》という銘が彫られ、その奥には美麗な庭が広がっているようだった。

「御方々は離宮にてお待ちで御座います。どうぞ、此方へ」
「…離宮?」
「はい。夫人は離宮に構えておいでで御座います。直接其方へお連れするよう、我が主より仰せつかっております故」

 どうぞ、と再度促す女仙に律影が散里をも軽く促した。頷いて、彼と共に石門を潜る。一旦、道筋に影が差し、そして、ふわりと光の広がった石畳の道が続く。その先、広がる景色はまるで美麗な箱庭のようだった。息を呑んだ散里に気がついたのだろう、隣で律影が軽く微笑む。咲き誇る皐月に金雀枝、撫子に紫陽花、卯の花。池の傍にあるのは燕子花だろうか。それとも菖蒲なのだろうか。他にも名も知らぬ花々が一同にその美を競うが如くに、芳醇な香を漂わせている。一目で解るのはそれが並々ならぬ宮の主の美学によって造られているということ。砂利も石の道も小さな白い花でさえも、全てが客人と宮に住まう人の心を癒すために完成されているのだ。これほどまでに整えられた庭先は、玲央洞にもない。むしろ散里が普段を過ごす洞はどちらかと言えば、少し無機的な印象が強いのだ。水と鉱石と野に揺れる花の美しさで、造られた宮。無論、どちらが劣っているとか勝っているとかの問題ではないけれど。それでも純粋に散里は霞晶洞の宮の庭の美しさにきょろきょろと見惚れながら、歩いた。恐らく律影が隣にいてくれなくては、二度三度は転んだだろう。はたと気がついて隣を見上げた時、彼は笑っていたから。それで漸く自分が夢中になっていたことに、気がついた散里は恥じて俯いたが、その髪を柔らかく彼が撫でてくれたので、それほど落ち込まずに、ほんの少し照れたように笑って顔を上げた。
 柔らかな日差しの中を花の香に包まれて歩く。何度か小川の上を渡された橋を渡り、石楠花の茂みを抜けた頃、散里の目の前に見えてきたのは何だか酷く見慣れた造りの小さな宮だった。大きくもない、広くもない。ただ、竹の柵の間に瓦屋根とずっしりとした巨木の柱による玄関口が見えてきて、散里はぱちぱちと瞬きした。まるで散里が村に居た時に住んでいた屋敷のようだった。神仙の宮の造りとは一風変わった、それでも散里としては、とても見慣れた造りの宮へと何を躊躇うことなく道案内の女仙は入っていく。どうぞ、と導かれるままに律影も、散里も、宮の中へとあがった。ひんやりと涼しい空気が身を包む。そして、それに乗じるように鼓膜を心地良く打つのは楽の音。
 あら、と口元を綻ばせた女仙の表情の意味も解る。散里にはその音が何なのか少しも予想がつかないが、それでも酷く穏やかで、優しい音色は心に柔らかに澄み渡るようだった。りいいんりいいんと空気を震わせて、楽が奏でられる。促されるままに簀子の廊下を歩けば、開け放された襖に畳の部屋。蓮咲き誇る池を背景に、一人の麗人が、居た。
 優しい色合いをした赤を含んだ柔らかな髪。透き通るほどに白い肌には長い睫毛の陰影が落ち、手元へと真剣な眼差しが注がれる。瞳の色はまるで煮詰めた砂糖の色をしていた。強いのに、甘い視線の色。着込んだ榛色の着物が落ち着いていて、よく似合っている。袖から覗く腕と指先が、器用そうに細い。成熟した男性であるにも関わらず、艶っぽい雰囲気を宿した彼は、人の気配に気付いたのだろう、指先をふと止めて顔を上げた。かちりと視線が合ったのは、まず散里で、そして律影だった。不審げに眉根を寄せる彼に、女仙がやんわりと告げる。

「客人に御座います、羽天様。蓮崋山玲央洞が主、慈澪真君様とその奥方でいらっしゃいます」

 説明を受けてもまだ尚、彼は不思議そうな顔をしていたが、しかし手元の楽器(だろう恐らく)から手を離すと、静かに裾を捌いて姿勢を正し、僅かに長い前髪を揺らすと大変整った形で静かに一礼をくれた。思わず散里が見惚れるほどに、美麗に洗練された仕草。続いて零れ落ちる声は、落ち着いていて、今し方彼の弾いていた楽の音のようだった。

「銀紗羅が夫人、羽天と申す。遠路よりのお越し、我が伴侶に代わって歓迎致す所存」

 卒なかった。淀みなかった。言葉も声の運びも然ることながら、所作の一つ一つが流れるように美しい。まるでこの世の人のものではない光景を見ているかのように、呆然と見入っていた散里は、そっと背中から促されて漸く気付く。そうだ。挨拶されて挨拶しない、という無礼もない。確か律影は彼と初対面というわけではないのだし、それならば、礼を返すのは自分である。急に色々とやらなくてはならないことを思い出した散里はわたわたと混乱する頭を必死で宥め、それでも今見たばかりの彼の完璧な作法が目の前をちらついて、結局、嗚呼、何だかもうよく解らないままに。

「あ、の、えっと、ちる…じゃなく、て、す、翠漣(すいれん)、です…っ、宜しくお願いします…っ」

 とだけ何とか言えたが、無様である。失敗にもほどがある。まだ物慣れぬ尊名もだが、声は上ずってしまったし、ぴょこんと勢いだけは良い礼も決して形が良いとは言えない。頭をほんの少しだけ下げる会釈のまま、顔を真っ赤にしてしまった散里はもうずっとこのままでいたいと半ば本気で考えたが、しかし、そういうわけにもいかぬ。恐る恐る、ゆっくりと伺うように顔を上げる。視界の端にちらりと映る美しい容貌。けれど、そこには散里が思い描いていたような、嘲笑も嫌悪の眼差しもなかった。ただ、彼は柔らかに静かに微笑んでいる。敢えて言うのであれば、《微笑ましい》とでも言うのだろうか。彼はゆったりと笑うと、散里と同じように小さく頭を下げた。

「ああ、宜しく」

 その瞬間、散里の中で彼の位置づけは決定した。即ち、初対面の相手に対する警戒心の全廃。この人は良い人だ、と認識した瞬間に散里はどうしようもなく嬉しくなって、しかしそれをどう表現すべきかよく解らなくて、ただもう一度ぺこんと礼をした。彼は微笑んでいる。それは嫌ではない、笑み。柔らかな風と柔らかな笑みに満ちた宮に、散里もやんわりと笑う。何だかほのぼのと、穏やかな空気の満ちた部屋へと。
 吹き込むのは、一陣の純銀。
 蒼穹を駆け、窓から飛び込んできたのは銀色に輝く毛皮だった。否、よく見れば毛皮には黒い鼻先があり、真紅の瞳があり、ピンと伸びた三角形の耳があり、見事な流線型を描く巨躯に四肢、それから太い尾は見事なまでの艶やかさで九本。狐にあって狐にあらず。神々しいまでの美麗を携えた獣は、まるで甘えるようにかの夫人に寄り添うと、その真紅の瞳を向けた。射抜くような獣の瞳は、けれど次の瞬間には散里から背後へと動く。当然のように、その場に居るのは、律影だ。

「早かったのう、慈澪。今しばらくかかると思ったが」
「遅いのはお前だ、銀紗羅。奥に客人の相手をさせるとは何事だ?」
「ふふ、天羽は卒ないでのう。立派に務めてくれたえ?」
「どういうことだ、灼銀?慈澪真君は兎も角、何故夫人が来訪なさる?」
「…お前、まだ説明していなかったのか?」
「なに、易い話よ、天羽。主に夫人の手習いの師を務めて貰いたいがだけのこと」
「………………俺が?」

 沈黙の後、ずらりと全ての視線が散里に集中する。蜜色と真紅とそれから漆黒と青と。どれも美麗な玉が如き色合いに、集中されて散里は思わず、あう、と変な声を零して、俯いてしまう。頭上で繰り返される会話の内容から察するに、どうやら羽天夫人は散里の師を務めることを快諾はしていないようだ。やはり、迷惑なのだろうか。ちちちと小鳥の鳴く爽やかな声にさえ泣きそうになって、散里はぎゅうと着物の生地を掴むと、そっと彼を伺う。純銀の獣に囲われるがままに埋もれていた彼は、何故か一瞬驚いたような顔をすると、ふいと視線を外した。灼銀、と恐らく九尾の狐の真名なのだろう。呼ぶ声が、非難めいていて、それでいて困惑しているような。

「のう、悪い話ではなかろう?教える相手がいれば、主の学も進むよのう」
「………………」
「翠漣夫人は聡明と聞く故。弟子としても優秀であろうよ」
「………………、何だか巧く言い包められている気がする…」
「言い包められてくれるのかえ?」
「…今度は心の準備をさせろ」
「ふふ、有難うな、天羽」

 眼を細めて狐が笑い、彼の髪にそっと口付けた。彼はくすぐったそうにそれを受けると、やがて裾を捌いて立ち上がる。背は散里よりも高い。だが、不思議と圧迫感を与えない柔らかな物腰で近付いてくると、彼はそっと手を差し伸べる。困惑しながらも散里も手を伸ばし、彼の手をそっと握った。骨ばっているとばかり思ったが、不思議とそれは柔らかい。花が香るかのような体温に驚いて顔を上げれば、彼は少しだけ困ったように、けれど静かに微笑んだ。

「そういうわけだから…改めて宜しく。……翠漣?」

 名を呼ぶ彼に一瞬呆けた散里は、けれどすぐにその意味が解って、ぱあっと表情を輝かせた。彼が教えてくれるのだ。散里が知りたいと思っていること。字の読み書き、楽、詩歌、他にもたくさん、知らないことを。嬉しい事実が徐々に実感として認識出来てきた散里は、はい…っ、と勢い良く頷いた。

「宜しく、お願いします…っ、えと、」
「羽天」
「あ、はい、羽天さん…っ」

 柔らかに初夏の風吹く。届く草木の香りがこれから起こる鮮やかな生命の季節を、予感させていた。


06/06/28

新しい記事
古い記事

return to page top