ibaraboshi***

home > 小説 > , , , , > 花散里の愛月4

花散里の愛月4

 日は二度沈み、二度昇った。部屋へとやって来るのは碧雲ばかりで、かの龍の姿はあれ以降散里は見ていない。何も訊かぬ散里に何を思ったのか、碧雲が御方は御勤めがお忙しいので御座います、と言って慰めてくれた。すぐに片付けられて此方にいらっしゃいますよ、とも。碧雲は散里にとても優しい。何時も浮かべている柔和な笑みには、散里に対する嫌悪感などは一切感じられない。それが不思議で、けれど何故かくすぐったくて、散里は何時も彼女の、青い瞳や髪を見つめてしまう。眼が合っても、彼女は嫌そうに眉を顰めたりしない。ふんわりと笑ってくれるのだ。それは、そう、律影みたいに。あの漆黒の龍も、碧雲と同じぐらいに散里を慈しんでくれている、と、思う。
 柔らかな日差しの中で散里はそっと窓際に立つ。透明な壁は「玻璃」というもので、日の光の差し込む部分として作られるのだと、碧雲に教えて貰った。透明な玻璃は触れると心地良く冷たい。薄い水晶のような手触りが不思議で、指先で何度もなぞった。恐らく気を失ったのも、疲労と緊張からだけだった散里はもうほぼ本調子と言えるほどに回復していた。襦袢から柔らかな手触りの着物に着替え、茶褐色の髪も淡い紅色をした「珊瑚」の付いた組紐で結ってもらった。すっかり身形を整え、顔色もよくなった散里に碧雲は感嘆の吐息を漏らしたものだ。やはり夫人は美しゅう御座います、と。散里など余程碧雲の方が美しいと思うのだが。しかし、青い髪も瞳も全部、自分より綺麗だと言えば、彼女は笑うのだ。そのようなことは御座いません、わたくしの姿は《まやかし》なれば如何様にも、と。まやかし、とはどういうことだろう。首を捻った散里にそれ以上問わせることはせず、彼女は一礼して去っていった。青い軌跡だけを残して。
 窓の向こうに広がる景色は青と翡翠だ。晴れ渡った蒼穹に水面煌く湖。格子の向こうには鮮やかな世界があって、最近の散里に日課と言えば部屋の中から、この美しい光景を眺めることだった。此処が何処なのか、本当のことを言うと、正確に散里は理解していない。ただ、此処はあの散里が祭の夜に立った湖と似て非なる場所で、今まで散里が暮らしていた村とは天と地ほどの遠いところなのだということは、直感的に解るような気がした。湖の周囲に咲き誇る皐月の花に鮮やかな若木。向こう側に見える山は水晶、なのだろうか。白く神秘的に輝いている。此処は神の居場所だ。蓮崋山、玲央洞、主は黒龍、慈澪真君。散里が呼ぶことを許された名は、律影。りつえいさま、と何となく口の中で呟いてみる。綺麗な名前だが、不思議な響きだ。彼が黒龍、だからだろうか。人ではないものの名が散里に若干の違和感を感じさせるのかもしれない。その漆黒の瞳も、髪も、決して珍しい色ではないのに。彼が纏うと何処か違う。優しい黒、穏やかな夜の色。奥底に龍神に相応しき猛々しいものを秘めながらも、散里の髪を、撫でる掌や告げられる言葉は酷く優しくて。徒然と彼の造作を思い出していた散里は、だから気配に気付くのに遅れた。

 かたん、と。

 「扉」を何時ものように潜って現れたのは、碧雲ではなかった。見上げるような長躯。漆黒の髪に漆黒の瞳。先程まで考え込んでいた人物が突如目の前に現れて、思わず散里はぼんやりと彼を見つめてしまった。黒い衣装を身に纏った彼は間の抜けた表情の散里に、僅かに不思議そうな顔をすると、散里、と呼ぶ。名前、散里の。長い脚を繰って彼は散里の傍まで近づいてくる。玻璃に指先を当てたままの小さな少年を見下ろすと、手を伸ばした。大きな掌。優しい体温が散里の柔らかな髪を静かに撫でる。心地良い、仕草だ。散里はただ、眼だけを細めた。

「もう起き上がって平気なのか?」
「はい。平気、です」

 答える散里にそうか、と彼が返す。ぽつん、と落ちた沈黙。けれど、何故かそれは以前よりも居心地の悪くないものだった。彼が未だ優しく散里の頭を撫でていてくれるからだろうか。じんわりと伝わってくる振動は、とても、とても、優しい。心地の良い日差しに彼の気配。それと解らぬ程度に、彼も微笑んだような、気がした。

「外を見ていたのか?」

 彼が問う。視線は散里がつい先程まで眺めていた玻璃の向こう。翡翠色の湖が広がった宮の外へと向けられている。散里は小さく頷いた。彼の手を振り払ってしまわないように、最小限の動きだ。

「はい。とても、綺麗ですから」
「………では、行くか?」
「え、?」

 僅かな沈黙の後に告げられた言葉の意味が解らなくて、一瞬きょとんと散里は眼を見開いた。だが、律影はそんな散里の戸惑いなど取り払うかのように、その広い両腕を伸ばすと、呆気なく散里を抱き上げる。かくんと下から上へ。突然、上昇した視界に慌てる間もなく、散里は彼の片腕で簡単に担がれてしまった。何時も見上げていたのに、今は目の前に男の整った顔立ち。近くで見る黒曜石の瞳は思う以上に大きい、などと、そんなことを考えている暇もない。ただ吃驚している散里を横目に彼は手を押すような仕草だけで、窓を大きく開いた。ふうわりと吹き込んでくる初夏の風。湿気を含んで涼しい湖面へと、男は向かって跳躍する。無論、先は水の上だ。普通の人間ならば無様に湖の底へと沈んでいくのが道理であるが。彼は、すでに解っている通り、人などではない。
 水を司る神はまるで地面に降り立つのと同様に、あまりにも自然に湖の上へと着地してみせた。ふわ、と彼のつま先が触れた部分に波紋が出来上がり、そして消える。とん、とん、とん、と軽やかな跳躍で、彼は湖の上を跳ぶ。鮮やかな翡翠の水面。天高く青い空の色をして輝くそれに、思わず見惚れた散里はうっかり男から離れてしまいそうになって、慌ててその身体にしがみ付いた。衣に思い切り皺を寄せて掴んでしまった散里は、はたとして手を離したが、降って来た声音は予想以上に優しい響きだった。恐る恐る見上げれば、微笑している彼の表情。笑う。日の光の下で。

「掴まっていろ」
「は、はいっ」

 声に促されてそっと散里は彼の衣装を掴んだ。風を切って、龍である男は水面の上を跳んで行く。時折、驚いたように翡翠色の水の中で魚たちが跳ねた。遠く湖畔には咲き誇る野の花が見え、小鳥たちは頭上を飛び交う。涼やかな風は男の行く手を遮ることなく、ただやんわりと吹いた。それは心地良く、散里をも包み込んで、髪を揺らす。水晶の聳え立つ山々。光を受けて輝くそれへと、彼は迷うことなく近づいていく。何があるのだろう、と散里が首を捻る頃、漸く小さな入り口のような穴が湖に向けて開かれていることに気がついた。彼はその場所を目指しているのだ。ふわりと水面を軽やかに跳んだ律影と共に散里も薄闇の入り口へと入っていく。日の光が差さぬからだろう。湖面以上にひんやりとした空気が身を包み、散里はそっと彼の衣を握る手に力を込めた。とん、とん、音もなく続く歩みは、やがて、光差す丸い場所へ出る頃には止まった。男は散里を抱き上げたまま、そっと笑う。散里は、そんな彼の表情の変化にも気付かぬほどに、わあ、と感嘆の声をあげていた。美しい、その場所に。
 白水晶の結晶が翡翠の湖面からまるで木の様に生えていた。天井はどういうわけか丸く岩盤がなくなっていて、太陽の光が差し込んでいる。キラキラと輝く水晶とそして翡翠色の水面。恐らく日光が当たるからだろう。丸い見たことのある葉っぱに混じって薄紅色の睡蓮が幾つも咲き誇り、まるで錦絵のようだった。夢のような光景とは正にこのことを言うのだ。何もかもが麗しく、美しい場所に、眼を輝かせる散里に彼が問うた。

「気に入ったか?」
「はい…!」

 思いがけず大きな声で頷いてしまった散里は慌てて自分の唇を噤んだが、彼はそんな少年を優しく微笑んで見ているだけだった。怒鳴られたりしない。ぱちぱちと眼を見開いて、首を傾げる散里に日の光に煌く黒曜石の瞳を合わせながら、彼が言う。

「漸く、笑ってくれたな」
「…え?」
「やはり笑顔の方が余程美しい」

 そう言って笑う穏やかな笑みに散里はぼやっと見入ってしまった。何を言われているのか理解したのは、その一瞬後。また以前のように甘ったるく誉められているのだと気付くと、途端にどうして良いか解らなくなって、散里は俯いた。彼の言葉で、彼の声で、そうやって何事か告げられるのは嫌いでは、ない。嫌な気持ちはほんの少しも感じない。ただ、それは酷く優しくて、穏やかで、そんな言葉に何一つ慣れ親しんでいない散里は混乱してしまうだけなのだ。本当に、彼は自分に語りかけているのだろうか。醜い散里に、全てを悲しませる散里に、誰もが疎み、蔑み、それが当然だと。ずっと暗い場所で生きていくのだと思っていた。小さな部屋と小さな庭。二つ眼のある物言わぬいきものたちと、数種の花だけが散里に優しいだけで。他に誰も、誰一人としていない、散里の世界。嗚呼、それなのに、今此処にあるのは。優しく降り注ぐ太陽の光と、咲き誇る睡蓮の香り、そして、離すまいと抱き上げてくれる逞しい腕。

「律影様、」
「ん?」
「……、律影様、は、どうして私に、そんなに優しく、して下さるんです、か…?」

 彼が眼を見開くのが解った。けれど、一度口をついて出た言葉はもう元には戻らない。堰を切ったように、今まで押し込んできた言葉が全て溢れ出すかのように、止まらなくなる。飛び出す。

「わ、私はそんな風にして頂けるような、人、ではないです…!本当は、本当は解ってるんです…!父上も、母上も、私なんて、いなければ良いって、思って…、母上が歌っていた唄だって、本当の、意味は…、」

 お前なんていなくなれって。

「だ、だけど、それを、父上や母上に、尋ねるのは、本当に、本当は、こ、怖くて…っ、解ってるのに、…解ってない、ふりをして、私は、黙って、黙ったまま、ずっと、ずっと………!」

ずっと。嗚呼、そうか。
私は、ずっと「悲しかったんだ」。
誰にも必要とされていないのは、寂しくて。
誰にも抱きしめてもらえないのは、悲しくて。
どれだけ大人しくて聞き分けの良いふりをしていても。
何処にも、散里を抱きしめてくれる人はいなくて。
自分から求めようともしないので。
閉じこもって。
あんな小さな場所で。
今だって、彼に縋りついたりして。
嗚呼、私は酷い。
私は、本当に「醜い」。
弱い自分が、卑しい自分が、嫌いだ。
ぼろぼろと両目から溢れる涙を止めようとしても、止められない。
彼の顔が涙で歪む。
一体、どんな表情をしているかも解らぬ彼が、

「…散里、」

 呼ぶ。

 次の瞬間、散里は彼の広い胸に抱きしめられていた。ぎゅうっと両腕に力を込めて、強く強く、抱きしめられる。息も出来ないほどに強い力。嗚呼、けれど、その拘束は酷く心地良くて、余計に涙が溢れた。温かい腕、聞こえる鼓動。ずっと散里が欲しかったもの。本当はこんなに簡単に手に入れてはいけないもの。だけど、その心地良さは抗いがたく。名を呼んで、落ちる彼の言葉は拒絶すら許さぬほどに、甘く。散里は、強く唇を引き結んだ。

「…お前は本当に、美しい。この世で誰よりも美しいよ、散里」
「そ、そんなの、そんなことは、本当に…っ」
「お前は悪くない。だが、もしもお前がそれを罪と思うなら、俺も共に引き受けよう。俺は、お前と生きたい。お前と共に。お前の伴侶として。………散里、」

 呼んで。吃驚して涙も引っ込んだ眼で見上げれば、真剣な彼の表情。
 そして、彼は問うた。あの時と同じように、威厳ある言葉で、永久の、誓いとなる、その言の葉を。

「俺の妻となるのは嫌か?」

 強く、けれど少しだけ弱気を含んで、問われた言葉に散里は彼に抱きしめられながら、でも、と呟く。散里は人間だ。それに男でも、女でもなく、ましてや彼の言うように美しい人でもない。彼が、望んでくれるのは嬉しい、と思う。しかし、最後の最後で何かが散里を踏み止まらせる。越えられない壁に不幸になるのは、きっと彼だ。律影が悲しむ様は見たくない。どんな形であれ。だから、散里はふるふると首を横に振ろうとしたのに。それは彼の思いがけない行動で止められてしまった。彼の片手が散里の頭を広い胸に押し付ける。吃驚した散里が眼を見開けど、彼は何を気にした風もなく聞こえるか、とだけ言った。密着した肌を通して聞こえるのは、鼓動。とくり、とくりと少しだけ早い速度で繰り返される心臓の音の、何と心地良いことか。思わず眼を細めた散里に、彼のもう片方の腕が伸ばされる。大きな掌が大きく触れたのは散里の胸元。心臓の、鼓動の位置に。大きな掌。途端に跳ね上がった散里の鼓動はあっという間に早まる。だが、不思議なことにそれは耳から聞こえる音と同じだった。とくり、とくり、とくり、と同じ速度で刻まれる生きている音。一緒だ。何一つ、変わりない。散里と律影と。

「何が違う?何が異なる?俺とお前と、同じ想いを抱いていると、俺は自惚れても良いのか?」
「あ…、」
「玉帝黄龍が第四十七子、律影が真名において誓おう。あらゆる災厄からお前を護り、あらゆる幸いをお前に与えよう」

 漆黒の瞳が、散里を見つめる。

「―散里、俺と契りを結んではくれぬか?」

 嗚呼、その言葉は嘘じゃない。瞳も鼓動も全部、全部。こんなにも、心が温かい。いとしいんだ、このひとが。人だからじゃない。龍だからじゃない。何もなくても構わない。ただ、この人を、こんなにも。生まれて初めて散里の心が求めている。何もかも、全てを引き換えにしたとしても、散里の全てを受け入れてくれるこの人に、応えたい、とそう思った。それは初めての散里の明確な意志。踏み出した最初の一歩。嗚呼、漸くだ。

 漸く、散里は今、「生きている」。

 震える指先で彼の衣装をぎゅっと握った。ともすれば緊張のせいで止まってしまいそうな唇を奮い起こして、言わなければ。静かに顔を上げて、彼の瞳を見て。綺麗な漆黒に頷いて。これ以上ないくらい頬を染めて、散里は、告げた。

「………はい…っ」

 感極まった彼からの返事は、力強い抱擁だった。


06/06/22

新しい記事
古い記事

return to page top