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花散里の愛月3

 水の音が聞こえた。
 だからというわけでは恐らくないのだろうが、散里はふと眼を覚ました。見慣れない天井。記憶が曖昧だが、しかし、それが自室の太い梁ではないということは解った。異様に天井までの距離が遠い。張り巡らされた梁は細くて、黒檀を使っているのか黒かった。そして、天井そのものは漆喰に何か混ぜているのか僅かに銀色に煌いている。散里はぼんやりと己の身体を見ようと視線を巡らせた。ふかふかとした布団に包まれている。無論、散里のものではない。絹織物の柔らかい肌触り。それは何と言うのだろう。畳の上ではない。散里は箱のような、台の上に敷かれた布団に、寝かされていたようだった。自分でこの場所へと寝入った記憶がない以上、誰かの手によって。肩までしっかりとかけられた布団からもぞもぞと腕を引き出す。白い皮膚。白い襦袢。何時の間に着替えたのだろうか。やはり、記憶はない。ゆっくりと自分の身体を確かめるように起き上がる。壁へと背を預けて見れば、部屋全体が見渡せた。
 広い。
 散里が住んでいた部屋が四つは入るだろうか。しかもその造りは今まで見たことがないほど、妙なもの。日差しが降り注ぐ方向には透明な壁がある。壁なのに、透明。しかも、天井と同じような細い梁が格子のようになっていた。床は石だろうか。銀色に輝く石が美しく磨かれている。散里が寝ている箱も変なものだったが、部屋に置かれた小さな台も、何なのだろう。つくえ、だろうか。脚が異様に長い上に、もう一つそれより低い台が一緒になって隅っこにあるのだが。優しい色合いの壁は恐らく木製だろうが、その真ん中辺りに一箇所だけ色の違う場所があった。四角く、細長くて、その中心には金色の金属が付いている。何だろう。四角い部屋の箱の中で、散里は思案する。考えても、やはりよく解らない。そもそも散里は賢いと言えるほど色々なものを知っているわけではなかったが、此処は今まで以上に知らないものだらけだ。結い上げるものが何もなく、はらりと顔に落ちてきた髪を払う。此処は何処なのだろう。記憶を反芻しても、よく解らない。
 あの日は夜だった。祭の夜。舞台の上で散里は歩いていって、湖に花を落とした。そこまでは確かに、事前に散里が、予測していた通りのこと。だが、その後、何故か湖の翡翠はかき乱され、現れたのは漆黒の「龍」だった。「黒龍」、湖の主。彼が朗々と告げる声に圧倒されている内に、気がつけば散里は水の中にいた。湖の底の世界。何の音もしない場所で、けれど、散里はかの龍の声だけは聞いたのだ。確かに、向けられた言葉と視線。彼は何と名乗っていたか。水の泡に紛れるように、けれど、低く優しい声で、彼は何と呼べば良いと言っただろうか。

「………律影、様、」

 そうだ。それが、彼の名。

「失礼致します」

 突然、壁の一部色が違う部分がかちゃりと鳴り、散里は肩を跳ね上げた。急いで視線を遣れば、そこは何と言うのか、入り口、だったのだろうか。一人の妙齢の女性が手に盆を持って、部屋へと入ってくるところだった。鮮やかな青色の髪を結い上げている。身に纏う藍色の衣装はゆったりとした生地で、見たことがない装飾が施してあった。まるで青空のような色をした髪と瞳を持つ女性は、起き上がっている散里に気がつくと、その美しい顔を柔和に緩めた。その瞳や笑顔に、散里に対する嫌悪の感はない。思わず散里は眼を見開いて、彼女を見つめる。不思議な雰囲気。侍女のようにも思えるが、それにしては美麗過ぎた。それに、どうして散里に対して笑いかけるのだろう。解らなくて、不思議で、二度三度も瞬きする散里に、彼女は柔らかな笑顔を保ったまま静かに近づいてくる。

「気付かれたのですね、何よりで御座います」
「…あの、」
「申し遅れました。わたくしの名は碧雲(へきうん)。慈澪真君様より夫人の面倒を見ますよう、仰せつかっております」

 お見知りおきを、と一礼する女性にやはり混乱して散里は言いかけた言葉を引っ込めてしまう。何もかもが解らないので、何か尋ねようと思ったのに、彼女の言葉でますます解らなくなってしまった。袖を振り捌きながら、丁寧に近くにあった台に盆を置く彼女―碧雲は一体誰なのか、此処は何処なのか、散里は、一体どういう事態に陥っているのか。彼女の言葉がくるりくるりと頭の中を回る。慈澪真君?夫人?どういうことだ?

「…あの、碧雲、さん?」
「どうぞ、お呼び捨て下さいませ」
「…えと、碧雲。此処は何処、なんですか?」
「蓮崋山玲央洞が奥宮(おくみや)で御座います。此処が夫人のしばらくの仮住まいとなります。少々、殺風景で大変申し訳御座いませんが、宮が完成されるまでお待ち頂ければ幸いです」

 そう言って碧雲はにこりと笑う。更に意味が解らない。混乱している散里は、必死で情報を整理しようと、頭を回転させる。つまり、一体、どういうことなのか。蓮華山、玲央洞、という名には聞き覚えがある。それに、よく考えれば慈澪真君という名にも。どの名もあの黒龍が現れた時に名乗り上げていた名だ。そしてあの時一緒に彼は言った。「花嫁として迎え入れる」と。そして、連れてこられたのは散里だった。そうなれば、最早自ずと答えは一つしか出てこないのでは、ないだろうか。

「…えと、つまり…此処は、律影様、のお屋敷で、夫人というのは、その、私のこと…です、か?」
「はい。その通りで御座います。ふふ、夫人はあどけないのに聡明でいらっしゃる。真君様が見初められましたのも頷けようもので御座います」

 何だか嬉しそうに笑う碧雲とは対照的に散里は眩暈のような感覚を覚えていた。
 流石の散里だって、「花嫁」やら「夫人」やらがどんな意味を指しているかぐらいは解る。それは男の人の元へと嫁ぐ、「女の人」へと使われる名称だ。だから、それは散里には絶対的に相応しくない。散里は女でもないし、男でも、ない。顕現したこの身の醜さは何処にいようと変わりはしない。たぶん、あの黒龍は勘違いをしているのだ。祭の夜に献上された身である故に、散里が娘だと。そう思っているに違いない。それは大変な誤解だ。散里は、神の花嫁として扱われるような大層な人間ではない。誤解を解かなくては、と散里が並々ならぬ決心を抱いて、口を開きかけた、その時。

「入る」

 短い言葉が聞こえて、やはり碧雲が入ってきた時と同様に壁の一部が開いた。少々手狭なその場所を背を縮めるようにして、一人の長身の男性が入ってくる。短く切った硬質な黒い髪。鋭い瞳は漆黒で、身を包んだ衣装もやはり真っ黒だった。屈強な体躯がゆったりした衣服の上からでも解る。純銀の腕輪がちゃり、と密やかに鳴り響く。首から下がった装飾には翡翠。耳を飾る色合いも鈍く光って、彼によく似合っていた。しかし、見慣れぬ男の登場に、本能的に警戒心を抱いて散里は縮こまる。碧雲はと言えば、柔らかな表情に僅かな驚きを込めて、あら、と呟いた。小首を傾げた仕草がなんとも女性らしい。

「すぐにでもお知らせに参ろうと思っていましたのに、」
「…いや。気になってな」

 低い声で告げた男に、碧雲はやはりきょとんとした表情を一瞬だけ浮かべて、ついでくすくすと笑いを零し始めた。袖口で口元を隠しながらも、震える肩すら抑えられない彼女に、男は憮然とした表情を浮かべている。さっぱり意味が解らない散里は男の顔と碧雲とを交互に見遣っていたが、やがて笑いをどうにか収めた彼女が台の上の、小さなお椀を指しながら、散里へと言った。そう言えば、その陶器の棒のようなものは食器、なのだろうか。

「棗の糖水(とうすい)で御座います。温かいうちにお飲み下さいませ」

 そう告げると、何時も微笑んでいるような碧雲は深々と一礼し、入室した時と同様に部屋から去って行った。ぱたんと入り口の木が閉まる音。彼女が指した椀には赤い木の実が入っていて、その名の通り確かに甘い匂いがした。うっかり目の前の人間を忘れて興味深そうに糖水とやらに見入っていた散里は、ぎっと箱が揺れる音で我に返った。見遣れば、布団の端に男が窮屈そうに腰掛けている。距離が近い。見つめられて、居心地が悪そうに散里は、視線を逸らした。何だかよく解らないが。彼は、散里を知っているのだろうか。動けぬまま、じっとしていると男は徐に口を開いた。

「…解らぬか?俺だ」

 そう言われて、散里は軽く眼を見開いた。ぱたりと顔を上げれば、男は椀と小さな陶器の食器を手に取るところだった。否、それはたぶん別段特別小さいわけではないだろうけれど、男が手にするとそう思えるだけなのだ。そして、彼は散里を見る。漆黒の瞳。真っ黒で透明な黒曜石。美しいと純粋に思える黒に、思わず散里は瞬きした。彼、なのだろうか。直感めいた衝動に動かされるように、律影様?、と呟けば、彼は少しだけ笑ったようだった。笑う。優しい笑顔。嗚呼、やはりそうなのだ。彼は、あの舞台から水の中へと散里を導いた、あの漆黒の、龍。

「腹は空かぬか?」
「…え、は、はい…」
「そうか。だが、少しでも口に入れたほうが良い」

 何しろ丸一日眠っていたのだから。そう付け加えて、彼は陶器で椀の中身を掬う。ほんの少しだけ湯気のあがる糖水を、大の男がふーふーと冷ましている様はちょっとだけ、何だか可笑しい気がした。しかし、至って真面目な男は、やがてゆっくりとした動作で冷めた糖水を差し出してくる。散里は、こんなことを母親にもされたことのない散里は、少しだけ戸惑ったが、この状態のままなのも失礼だと思い、素直に口を開いた。小鳥の雛のように、口を開けて、彼の手から甘い食事を受ける。仄かに温かく、甘い液体は思いのほか、素直に散里の喉を伝って、腹へと沁みた。甘い、が美味しい、気がする。その気配が伝わったのだろうか、彼はもう少し要るか?と散里に問うた。はい、と今度は淀みなく答えた散里に僅かに口元を緩めて、彼が糖水を掬ってくれる。そうして何度、口にしただろうか。椀の中身が半分ほどなくなる頃には、散里はすっかり満足してしまって、申し訳ないながら、頭を振った。
 男はそれ以上強制することはなく、食器を台に戻す。それきりの沈黙。食事をしている間は気にならなかったが、こうして手持ち無沙汰になってしまうと、痛いほどの静寂が二人の間に流れた。否、ひょっとしたら居心地の悪さを感じているのは、散里だけで、彼は何事か考えているだけなのかもしれないけれど。それを、彼の表情から読み取ることは出来なかった。整った表情だ。美しい男。彼が龍の姿をとるだなんて、ちょっと見た目からは想像がつかない。此処でこうしている彼は、本当に人間のように思えるから。散里よりも余程。普通の人間のように。
 そこではたりと散里は気がついた。そうだ。悠長に食事をしている場合ではなかった。彼は壮大な勘違いをしているのだ、と。教えなくてはならなかったのに。急に慌て始めた散里に、彼は不審げに眉根を寄せてみせた。何だかそういう顔をされるとちょっとだけ彼は怖く思えて、散里は怖気づいてしまうのだが、これだけは言わなくてはならない。私が連れて来られたのは誤解だと。私は神様の相手などに相応しくはないのだと。

「律、影様…っ、私は、貴方の花嫁などでは、ない、です…」
「…何、」
「私は、ええと、その、」

 口ごもる。何と説明したら良いのだろう。女ではない、男でもない、と自らの口から言うのは憚られて、散里は黙り込む。実際、その通りなのだけれど、しかし、今まで口に出すことすら禁じられてきた己の肉体のこと。言われようのない辱めを受けている気分になって、散里は唇を強く引き結んだまま、下を向いてしまった。言わなければならないのに。誤解を、解かなくてはならないのに。唇を動かして、それすら言えぬ自分が恨めしい。何も言えずに悲しい思いをするのは律影だ。真に伴侶を求めているこの龍が痛むのは、散里は嫌だと、思った。

「…半陰陽の身が、そんなにも辛いか?」

 落とされた声に、思わず散里は顔をあげた。「半陰陽」という言葉は何度か聞いたことがある。母が、散里のことを、冷たい眼で言う時に使う言葉だ。だが、今目の前にいる彼は、何故か、酷く、酷く辛そうな顔をしていた。辛いか、と問うたのは律影だと言うのに。混乱して、散里はぱちぱちと瞬きした。何度見ても、辛そうな顔なのは、彼だ。解らない。どうして彼はそんな顔をするのだろう。散里のせいなのだろうか。また、何かしてしまったのだろうか。部屋の隅でじっとしても、それだけで散里は母の機嫌を損ねてしまったように。また、彼も。散里の何かが気に障ったのだろうか。

「あ、の、…ご、ごめんなさ、…」
「何故、謝る」

 ぴしゃりとした言葉に反射的に肩が跳ねる。身体が、一挙に重たくなる感覚。下を向いて、ぎゅうと布団を握り締めた。呆れられたのだろう。きっと、嫌われた。こんな身体で此処に存在し、何か不快な言葉を吐いた散里に対して。これから散里はどうなるのだろう。外の湖へと放り出されるのだろうか。今の季節、まだ湖の水はきっと冷たい。そもそも、散里は泳げるかどうかが解らない。何しろ、水と触れ合うことなど湯浴みの時ぐらいなのだから。ぐるぐると最悪の状況を考え込んでいる散里に、けれど、次に届いたのは罵声ではなく、穏やかで静かな、吐息だった。すまなかった、と低く穏やかな声が届く。何故、彼が謝るのだろう。眼を見開いて、散里は顔を上げる。彼は、真摯な表情で散里を見ていた。漆黒の瞳が、真っ直ぐに向けられる。しかし、今度は散里は視線を逸らしたり、しなかった。

「…言が強すぎたようだ。すまなかった」
「そ、そんな、」
「だが、お前を選んだのは間違いなどではない。他ならぬお前を、俺が呼んだ。我が領域である浬鳴湖までな」

 彼は、手を伸ばす。
 骨ばった指先が散里の髪に触れた。それが他人の体温だと気がついた時に、散里は全身を硬直させた。今まで、この髪に触れた手など数えるに及ばない。数名の身の回りを扱う侍女。それも散里の身嗜みを整える時のみだけで、こんな風に、あからさまな慈しみの意味を持って散里に触れた者など、これまで唯の一人もいなかった。信じられないようなものでも見るように、彼を見る。律影は、その唇をほんの少しだけ緩めて、低い声で、囁きを、落とす。

「お前は美しい」
「………………、」
「お前が我が湖の畔に立つれば、まるで白翡翠の睡蓮の咲くが如きだった」

 それは、
 たぶん、
 誉め言葉なのだろうけれど。

 幾分どころかそんな言葉など言われた経験はおろか、聞きかじった経験すらない散里は呆然としたまま固まってしまう。何だか、凄い言葉を、直接言われたような気はする。真剣な言葉だ。真剣な瞳だ。じっと散里を見つめる漆黒の玉。それは言葉の意味が解らぬ散里にも徐々に実感として認識されていった。照れるということを自覚しているわけではない。ただ、その正体が解らぬまま僅かの頬を染めた散里は、落ちた沈黙にだけ慌てて、何事か言わなくては、と唇を動かす。慌てれば、慌てるほど、何を言えば良いのか解らなくなっていく散里は、結局のところ、口を開いた挙句、

「り、律影様、はっ、睡蓮が、お好き、ですか…っ?」

 と言った。たぶん、大幅に検討違い。発言直後に莫迦な質問だったと気がついた散里は、今度は羞恥で顔を真っ赤に染めて、俯いた。だが、それを大きな掌が制す。髪を撫で、頬を撫で、柔らかな声が言う。柔らかな、表情。優しい瞳が、告げた。

「そうだな、」

 微笑んで。

「愛しい。とても」

 彼の顔が近づいてくる。つい先程まで言葉を落としていた唇が、散里のそれへと落とされた。愛しむように、そっと。それはほんの一瞬の出来事で、彼はすぐにすいっと離れてしまうと、その長躯を伸ばした。見上げる散里に微笑んで、掌が伸びてくる。大きな体温がくしゃりと少しだけ乱暴に散里の頭を撫でた。もう少し眠ると良い、と言葉だけを残して。彼は部屋を後にする。床を叩く靴の音。草履ではないのだな、と今更気がついた。色の違う壁が開かれる。軽い音の後には広い部屋に静寂が落ちた。最初と同じように、一人だけの静けさの中、けれど、散里はその指先で、そっと己の唇へと当てた。触れた場所。彼が、その唇で、そっと、触れただけの、場所が。

「…甘い、」

 呟いた後、散里は今度こそ甘ったるい羞恥でぼうっと頬を火照らせた。


06/06/22

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