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花散里の愛月2

 かたかたかたと、散里を乗せた籠が揺れる。
 辺りを包むのは、龍神の加護を讃える楽の音と暗闇。大勢の人間が籠の周囲を一緒に歩いていくのが気配で解る。散里は籠の出入り口である御簾の向こうに覗く、微かな闇を眺めながらぼんやりと手にした花を弄った。白い花の名前を散里は知らない。庭には咲いていない花だ。ただ、甘ったるい香りが先程から鼻をくすぐる。かたかたとゆっくり揺れる籠の中で着慣れない衣装の裾を引っ張った。湖へは後どれぐらいなのだろう。祭の娘はその姿を一番最初に水神様に見せなくてはならぬと言われて、屋敷の中から籠に入った散里には今、何処を、どうやってやって移動しているのかさっぱり解らない。生まれた時から暮らしている村と土地とは言え、散里とはあまりにも無縁だった外の世界。御簾越しに見る風景は、松明に照らされた若木の緑と時折見える皐月の花の赤が入り混じった茫洋な色ばかりで、参考にもならなかった。
 楽の音が高鳴る。甲高い横笛の音色に鐘の音が混じり、弦を爪弾く楽器が重ねられて、壮大な神楽と成している。それにまるで合わせるように何人もの足音が続く。柔らかい土を踏む草履の音は何十人という大所帯だろう。祭がどれほど盛大なものなのか、散里は知る由もないが、それでもこれほどの人間に囲まれているという事態は、些か恐ろしいものだった。籠の中から外の様子が然程伺えないのは、幸いだろう。見知らぬ人の視線は怖い。皆、きっと散里を異質なものでも伺うような眼で見るだろうから。たとえ容易に予想出来るとはいえ、拒絶は、怖い。今まで誰一人として散里を受け入れてくれなかった。これからもきっと誰一人受け入れてくれないだろうということが、解っているとは言っても。あの瞳は怖い。人は、何か気味の悪いものを見るときに、本当に、本当に、冷たい瞳をするものだ。散里は生まれてから、ずっとそんな瞳を見てきた。否、それだけしか、見てこなかったと言ってもいいだろう。母も父も侍女たちも。散里がその瞳の奥に冷笑とも言える嫌悪を感じ取れなかったのは、庭先に現れるものたちだけだ。
 そういえば、あの青色の紐はどうしたのだろう。
 唐突に思い出して散里はそれと解らぬ程度に小首を傾げた。つやつやと光る青色の肌をしたいきものは、あの時、散里の目の前で池の中へと消えてしまったが。思えばあれほどに美しい青を散里はこれまで見たことがなかった。言うなれば美しい碧空。今から訪れる湖もあんな色をしているのだろうか。青い色、青い水。父は湖を司っている水神様は「黒龍」なのだと言っていたけれど。「黒龍」とは一体何なのだろう。黒、は解る。黒は墨の色だ。暗闇の色。眼を瞑った時の色。けれど、「龍」という言葉を散里は知らない。いきものだろうか。それとも神様なのだからいきものではないのか。よく解らない。けれど、父は水神様は滅多に姿を現さない、とも言っていたからきっと散里は一生その姿を知ることもないのだろう。それとも尋ねたら父は教えてくれるだろうか。湖の神の姿というものを。もう随分昔のことにも思える、まだ散里が幼かった頃のように筆と墨と紙でそれを描いて。
 かたん、
 籠が急に重みを思い出したかのように揺れて、動きを止めた。散里は思わず身を竦めたが、どうやら目的の場所へと、無事到達しただけのようだった。楽の音がより一層大きくなっている。同時に人の数も増えているのだろう。祭は散里の村だけでなく辺りで湖の恩恵に肖っている四村によって毎年行われているそうだから。恐らく、祭の娘の到着を待ちわびていたのだと思われる。期待を込めた静けさの中で、神楽だけが鳴り響く。
 ぎゅと白い花の茎を握り締めた散里の目の前で御簾が開かれた。数多の松明の灯りの眩しさに眼を細めた散里に、次の瞬間、飛び込んできた色は、翡翠。何処までも続くかのような永遠の翡翠の湖面が、目の前に続いていた。それはまるで夢にも見たことがないような美しさで、思わず呆然と散里は口を開けてしまった。大きい、池だ。湖、とはかくも美しい場所なのだろうか。松明からの炎の光できらきらと輝く水面が、まるで玉のよう。見惚れるがままに散里はそっと籠の中から外へと出る。照らす光。翡翠の湖。周りを萌黄色の山々に囲まれた舞台に、散里は立った。茶褐色の髪は結い上げられ、銀の簪に珊瑚の玉飾り。時折、ちりんと鳴るのはやはり純銀の鈴だ。
 白皙の肌は匂い立つように緑に映える。薄い紅色の瞳はまるでこの世のものでないかのような、宝玉の煌き。眼に鮮やかな衣装は繻子に金と銀の意匠を凝らした刺繍を施したもの。散里が纏えば、裾は緩やかに靡き、まるで天女の羽衣のようだった。周囲に集まった数多の人間が一斉に息を呑むのが解る。誰も見たことのないような美貌の《少女》に見惚れて。夜の闇に立つ清楚な姿に、神楽が一際大きく奏でられた。
 その音にはたと我に返った散里は白い花を握り締めたまま、舞台の上を湖の方へと歩いていく。手順は予め教えられていた。籠から出たら、後は楽が鳴り響く中を湖へと向かい、手にした花を水へと投げ込むのだと。何度となく頭の中で繰り返した行為をなぞるように、散里はゆっくりと歩いていく。何しろ着慣れない衣装だ。裾を何度も踏んでしまいそうになりながら、散里は何とか舞台の一番端まで行くと、湖に向かって白い花を投げ入れた。
 ぽしゃん、と軽い音がして楽の音が止まる。
 皆が黙り込んで湖へと恵みの祈りを捧げる。今年も水が絶えることなく、田畑を潤しますようにと。大雨や長雨で作物が死んでしまうことがないようにと。秋には多くの収穫が得られますようにと。農村にとっては死活問題の祈りを存分に受け止めながらも湖は沈黙を保ったままだ。予定通り。後は静かに籠に戻れば、それで散里の役目は全て終わりのはずだった。僅かな安堵感と共に身を翻そうと散里は身体を動かす。だが。

 その時、湖面が俄かにざわめく。

 ざわ、ざわ、ざわ、とそれは松明に照らされた翡翠色の湖から確かに聞こえてきていた。しかも、それは単なる水音にあらず。徐々に大きくなっていく渦潮のような響きに気付いたのは散里だけではない。村人の間にもざわめきが広がっていく。何が起きたんだ。こんなことこれまでの祭ではなかったのに。水神様がお怒りなのか。そんな人々の声を聞きながら、散里はただ立ち尽くしていた。水の音はいよいよ大きくなり、松明の灯りに照らされた湖面には、確実にそれと解る渦が出来る。全てを飲み込むかのような水に誰もが不安を覚え、恐怖を感じ始めた頃、唐突に《それ》は散里の目の前に現れた。
 ざざざざざ、と《それ》から水が滴り落ちる。黒い肌はぴかぴかしたものに覆われて、松明の灯りで艶やかに輝いた。蜥蜴のような三角形の頭。だがその大きさは比ではない。散里がその頭に寝そべってしまえるだろうか。一瞬、頭とも思えぬような大きさのそれには、けれど確かにずらりと牙の並んだ口があり、漆黒の二つの瞳があった。そして、頭の上部分には雄々しい鹿のような角。それもまた、煌く黒曜石の如き黒色をしていた。湖から飛び出した身体は長く、その上の方には手だろうか、足だろうか。三つの鋭い爪が付いたそれは散里など、簡単に引き裂けそうなほどに尖っている。姿だけを見るならば、《それ》は散里がこの前見た動く紐に良く似ていた。けれど、似ていると言うにはあまりにも。あまりにも、今目の前にいる黒いいきものには威厳があり過ぎた。見つめるだけで、圧倒されそうな気配。背筋まで震えるかのような威圧感に、散里は声も出ぬままその場に立ち尽くした。
 黒い瞳は、散里をじっと見つめている。漆黒の鏡面に散里の姿が映りこむが、それは驚愕の表情をしていた。《それ》はしばらく水を滴らせながら散里を見ていたが、やがてその視線をふいと逸らすと、巨大な口を開いた。ずらりと並んだ牙と真っ赤な口内。松明の灯りに照らされながら、低い低い、途方もない重みを感じさせる声が告げる。

『我は浬鳴湖蓮崋山玲央洞(れんげざんれいおうどう)が主、慈澪真君(じりょうしんくん)なり』

 楽も人々の話し声も虫の音さえも止まる。何も知らぬ散里は直感的に確信した。嗚呼、この人が《水神様》だ。「黒龍」なのだ。湖の主と言われれば納得出来る。その圧倒的な存在感に最早呑まれてしまったに等しい少年はぺたりと座り込んだ。朗々と響く声は湖も山も空気も炎も全てを震わせて、全ての人々へと届けられる。

『其処の者、我が花嫁として迎え入れん。よって今後如何なる形であれ、娘の贈呈は我が妻への侮辱とみなす』

 そう、漆黒の神は堂々と言い放った。散里は人々のざわめく声を、何故か一枚膜を隔てたように遠くで聞いた。はたと辺りを見回した瞬間にはすでに全てが終息へと近づいていた。身を翻し、湖の底へと戻り行く黒い影。そして、散里の周りには薄い薄い水の膜が出来て、まるで漆黒に引き寄せられるかのように、水へと近づいていく。逃れる術はなかった。逃れようと思う暇もなかった。ただ、最後の瞬間、視界の隅で名を呼ぶ父の姿が見えたような気がしたが。
 それだけ。
 ぱしゃん、という水音と共に散里は一瞬の後には物音一つしない水の世界へと入り込んでいた。薄暗い水の中、翻る黒い神の後ろを忠実に散里は付いていく。正確には散里の意志ではない。散里を包み込む丸い泡が、さも当然のように動くのだ。夜だからだろうか。暗闇に彩られた湖の底では、何一つ散里の認識出来るものはなかった。ただ、静かに気温が下がったかのような膜の中で散里は腕を擦る。暗い、暗い、闇の底のような水の中を。黒い影はひたすらに泳いでいく。優雅に、その巨躯を揺らめかせて。散里はごく当然のように、その姿を美しいと思った。柔らかな動きで泳ぐ一匹のいきもの。初めて見た姿だというのに、不思議と恐ろしさは感じなかった。彼の傍で揺れる泡の中にいると緩やかな水の動きに包まれているように、何故だか心地良い。護られているような。そんな、心地良さに、散里は無意識のうちにほんの僅かに眼を細めた。
 暗い闇の中、やがて一条の光が見えてくる。それは相変わらず水の中だったが、きらきらと薄青色に光って美しい。一体何だろうと、と散里が身を乗り出すように動くと、急にがくりと泡が動いた。球体のように周りを包む膜である。当然のように転がった散里の視界に次に飛び込んできたのは、真っ黒な肌。何時の間に移動したのだろうか。散里は水の膜ごと龍の手の中に抱えられるようにして、水の中を進んでいた。こぽこぽと龍がその尾を振る度に、小さな泡が生まれる。静かな世界だ。音はたったそれだけ。何となく散里は、黒い黒い龍を見上げた。腹側の少し銀がかった肌から上へ。鋭い牙を並べたいきものは、散里に気がついたかのようにぱたと視線を此方に寄越した。
 眼が合う。
 思わず散里は視線を逸らしてしまった。漆黒の瞳が確かに散里を見ていた。その視線、強く雄々しく、誇り高い。ぎゅうと衣装を握り締める散里に何を思ったのだろうか。龍はしばらく沈黙していたが、やがて口を開く泡の音がした。ぽこりと泡を吐き出して、龍が言の葉を喋る。それは先程、舞台の前で彼が落とした口調とは微妙に質が変化していた。

「名は、」

 端的に落とされた言葉。しかし、それに肩を跳ね上げんばかりに驚いた散里は思わず、もう一度彼を見上げた。だが、もう龍の瞳は散里を見下ろしてはいなかった。真っ直ぐに前を見た漆黒に安心したような、それでいて何処か寂しいような。自分でもよく解らない気持ちにぐるぐると混乱しながら、問われたことに答えようと散里は必死で言葉を探る。

「は、え、と…、」
「名は、何というのだ?」
「あ、はい、散里、です…、…水神様、」

 答える散里は必死だったが、それはしっかりとしていた言葉になっていたかどうか、不安なところだった。やはり龍は黙ってしまうから、判断の付けようがない。ゆったりとした彼の言葉は気持ちが良いと思うが、それ以上に少し怖い。水の膜に包まれて、彼に連れられて、一体何処へ行くというのだろうか。水の世界は本当に静かで音一つしない。今更、それが恐ろしい。何が起きているのだろう。背筋がひんやりと冷えて、散里は震えた。薄青色の美しい光は徐々に近づいてきている。どうやら龍はそこを目指しているようだ。そこに辿り着いたら何が、待っているのだろう。散里には解らない。解らないことには慣れているはずだった。けれど、やはり、それは途轍もなく怖いことだ。

「…、律影(りつえい)」
「え、」
「そう呼ぶが良い」

 突然落とした言葉にそう付け加えられて、漸くそれが彼の名だと解った。りつえいさま、と恐る恐る口の中で呟けば、彼が尾を揺らす。漆黒の瞳が散里を見下ろす。大きな瞳だ。思わず見返してしまったそれは、けれどやはり優しい。敵意も悪意も冷笑すらない。それは彼が人ではないから、なのだろうか。人は、こんなに散里に優しくない。散里を異様なものでも見るような目つきで見る。わけもなく、胸が痛んだ。嗚呼、一体なんだというのだろう。己はどうなってしまうのだろうか。水の中。「律影」という名の水神。龍。黒い影。泡。祭。父。母。甘い香り。青い光。何もかもが解らない。混乱している。どうして、どうして泣きたくなってしまうのだ。怖いはずなのに、どうして彼の瞳を、魅入られたかのように見つめてしまうのだろうか。その漆黒の宝玉に映る自分は、本当に散里、なのだろうか。

 泣きそうに不安げで、それでいて、幸福そうな顔をした、自分は。

「…ッ!」

 最後に彼が口を開いて零した言葉は、散里には解らなかった。ただ、まるで日没のように暗転していく世界の中で、心地良い掌と鼓動の音だけを、感じていた。


06/06/20

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