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花散里の愛月1

斉の国 南方山中に翡翠の湖あり 名を浬鳴湖(りめいこ)という
かの大池 国を潤す梁江(りょうこう)の源とされれば 篤く尊ばれ 龍神住まうとされる
―龍は人の嫁を取る―
古き言い伝えに従って 花と楽と生娘を捧ぐ祭
未だ 辺り四村において行われること 早数百年の慣わしなれば




 風が凪ぐ。皐月の空は留まって、そろそろ曇天が目立つようになる季節だ。夜になれば近くの田畑では蛙の声。物心付いた折より一歩たりとも屋敷の外へ出たことのない散里(ちるさと)ではあるが、稀に庭先に現れる蛙のことぐらいは知っていた。緑色のぬめった身体に黒い眼が二つ。それは蝶とも似ていないし、犬とも似ていないし、鳥とも似ていなかった。何とも言えないその不可思議な生き物は散里に「かえる」という貴重な枠を一つ増やしてくれた。散里の知る数少ない知識の中では、動いているものは全て「いきもの」ということになるわけではあるが、幸いにも夜中に突然縁側に現れた蛙に侍女たちが騒いでいるのを耳にして、散里はその名を知ることになった。
 散里が名を知っているものは酷く少ない。部屋の中にあるもの、毎日使うもの、庭にある僅かな花の名、少々の生き物。だから散里はその「かえる」という名の生き物が、ある日、何かしら長い紐のような生き物に一呑みにされる様を見て、酷く衝撃を受けたのだ。それはてらてらと光る肌を持った動く紐で、やはり黒い眼を二つ持っていたから、恐らく「いきもの」なのであろうに、足がなかった。だのに、不思議なことにそれはゆらゆらと地面の上を這い動いて、傍に居た蛙をぱくりと飲み込んでしまったのだ。散里は吃驚して声も出なかった。ただ、蛙を飲み込んだ紐の腹が、徐々に大きく膨れていく様を固唾を呑んで見守っていることしか出来なかったのだ。やがて、紐は満足したのだろうか。大きな腹を抱えたままその場で丸くなって大人しくなってしまった。散里は、侍女に呼ばれるまでずっとそこに立ち尽くしていた。

 そして、今も散里はその場所にいる。

 庭の片隅。大きな紫陽花の木の下に、もう今は紐の姿を見ることは出来ない。ただ、当てどもなく立ち尽くす一人の少年。否―少女だろうか。柔らかそうな茶褐色の髪は肩を越す程度に長く、あまりに素っ気無く細い組紐で結われていた。瞳は薄い赤色。白磁の肌は透き通るほどに美しく、野良仕事などしたこともない指先は桜色だった。整った容貌。憂いを含む表情は美しいと言えば、美しい。だが、その姿に若干の奇妙な違和感を覚えるのは、彼の性別がはっきりと見た目からでは知れぬからだろう。着物の上からも解る未発達な身体。腕や脚は酷く細くて、彩り鮮やかな毬を握り締めた手は薄く小さかった。子供だから、というのではない。彼は恐らくもうすぐに成熟の時期を、迎えるというのだろうに。一向に女性特有の膨らみも男性らしい強固さも見られない。言うなれば、それはちょうど「合間」。少年のようで少年ではなく、少女のようで少女ではない。彼は、毬をぽんと一つ地面で跳ねさせた。

「一つ 我が子の爪を剥ぎ 二つ 我が子の眼を抉り」

 散里は歌の意味をよく解っていない。ただ、彼の母親が嫌そうに傍にいる時に必ず歌っていたから覚えてしまっただけ。かといって彼は他に時間を潰すような歌も遊びも知らない。だから、歌っていた。小さな毬と愚かな歌。散里に与えられた遊びはそれだけだ。今年で数え年十六を迎える少年にしては、あまりにも無知なるその生き様。

「三つ 我が子が泣くのなら 四つ 舌さえ縫い付けよ」

 ぽんぽんと毬が跳ねる。紫陽花の根元にいた小さな虫が吃驚して走り出した。何となくそれを目で追う。たくさん足がある小さな虫はやがて少しだけ大きな石の下へと隠れてしまった。所々に雑草も生え始めた庭先。散里が知ることの出来る小さな世界には大きな紫陽花と小さな池。水面には睡蓮の葉が浮かび、小さな蕾も見えた。今は葉だけの沙羅双樹。もうすぐ雨の季節がやって来る。曇天が空を覆えば、しばらくは庭に出ることは出来まい。

「ああ 口惜しや 口惜しや 生まれたこの子の 心の臓」

 誰も散里が病になろうと、倒れようと気にも留めないだろうけども。しかし、侍女の手を煩わせることは出来なかった。そうすれば、誰もが散里を何時も以上に厄介なものを見る眼で見たから。冷ややかな声。潜めても、散里には聞こえる。一人息子でも、一人娘でもない散里に接する周囲の人々は、酷く劣悪だった。散里は決して賢いわけではない。だが、己に対する悪意にも似た冷たさを感じることぐらいは、本能でも出来た。散里は、この家で望まれていない。それだけは理解出来る。母に訊かずとも、父に訊かずとも。一つ大きく毬を突いた。ぽんと丸が跳ねる。

「内で止まっていたのなら これほど憎きもなかろうに」

 大きく跳ねた毬がころころと庭先を転がっていく。それを草履を鳴らして追いかけながら、ふと散里は小さな池を覗いた。僅かな風で揺れる水面。見飽きた自分の顔が映っている。褐色の柔らかい髪が、土の色のようで汚らしいと母は言った。薄い朱を刷いたような瞳の色が妖のようで薄気味悪いと母は言った。母は、彼女は散里の何もかもが嫌いだった。散里はどうだろうか。生まれてから母だと言われてきた、あの女性のことを果たして好いているだろうか、それとも、嫌っているのだろうか。散里にはよく解らない。ただ、散里の世界において彼女は確かに名前をもって存在していることだけは、確か。父は幼い頃から不在がちだった。その理由を、散里は知っている。散里のせいだ。だから、母は殊更辛くあたる。散里のせいで母の大好きな父が離れていってしまうから。それは酷く、順当な理由だと、散里は思う。
 落ち葉と土埃で汚れた毬を拾い上げた。ぽんぽんとはたきながら、散里は何となくもう一度池を見る。すると、一体何処から現れたと言うのだろうか。先程までは確かに何のいきものの気配すらしなかった睡蓮の丸い葉の上に、音もなく存在していたのは、一匹の動く紐だった。そう、紐だ。
 散里がその場所で見たものと言えば、今までは蛙が常だった。緑色の肌を持つ湿ったいきもの。だが、今その場所に当たり前のように鎮座しているのは、その蛙を以前呑み込んだことのある紐のようないきものだ。それは青色のてらてらと光る肌をしていて、些か散里の眼にも不気味に思えた。その上、紐は散里へとじっと視線を向けたまま、動こうとはしないのだ。二つの瞳。見たこともないような鮮やかな青の瞳が散里を捉えて離さない。動くことも出来ず、散里は紐と見詰め合った。ただ、緩やかな風だけが今小さな庭で動いている全てだった。散里は毬を持つ指先にじっと力を込める。永遠とも思える時間に、途方もない緊張感を感じて、神経が悲鳴をあげ始めたその時。

「―祭の夜、」

 唐突に、声が聞こえた。辺りを見回すが誰もいない。小さな小さな、甲高い子供のような声。それは紛れもなく、散里の目の前から聞こえてきていた。視線を落とせば、そこにいる紐のようないきものの真っ赤な口から。あまりにも当然のことであるかの如く、明瞭な声が言の葉を操ることが出来るはずのない人以外のいきものから聞こえる。

「我が主が貴方様をお迎えにあがられます。努々、お忘れなきよう」

 清涼な水音のような声音を発する紐はそれだけを述べると、まるで人のように深々と礼のようなものをして、ぽちゃんと池の中へと潜っていった。水面に波紋だけが延々と続くかのような円を幾重も描いて、消えていく。散里はただ眼を見開いて池を見つめていた。正確にはすでに円が見えなくなりつつある、睡蓮の葉の間を。今、聴いたばかりの言葉を反芻する。全く意味が解らなかった。それは散里の知識が足りないからなのかもしれない。だが、それ以上にきっと紐の言った言葉が難解なのだと何となく思う。祭の夜、というのは僅かだが察しが付く。それはたぶん、もう三夜も後に迫った湖のお祭のことだろう。毎年、その時期になると村は途端に賑やかになるのだ。無論、散里は家の中から人々の賑わいの声を聞いているだけで、実際に訪れてみたりしたことはないのだけれど。
 しかし、その他の言葉の意味はまるで解らない。「我が主」とは誰のことだろう。紐にも家にいる侍女のように、仕える相手がいるのだろうか。それに「迎えにあがる」とはどういうことなのか。誰かが散里を迎えに来るという意味なのか。それにしては、散里には心当たりがなさ過ぎた。何しろ生まれてから一度たりとも屋敷から出たことはないというのに。一体顔も知らぬ誰が迎えに来るというのだろうか。解らないことを、解らないまま考えてもちっとも埒は明かなかった。
 仕方ない。
 何を思うでもなく散里は縁側へと戻る。僅か汚れた草履を脱ぎながら、部屋へと戻ろうとすれば、耳に届く声。遠くから、それでも誰が何を言っているのか確かに解る声音。父と母だ。言い争いの声は、物心付く頃から聞いている。今更ではあったが、それでも何となく散里の胸は痛んだ。理由は解らない。ただ、その声は耳と心に、痛い。

―あの子を人前に出すですって?何をお考えなの?
―しかし、今年村で十六になる娘は散里しかおらんのだ。祭の夜だけだ。構わぬだろう。
―娘?娘ですって?笑わせないで下さいまし。あれの何処が《娘》だというの?
―…椿。口が過ぎるぞ。

 草履を叩いて縁の下に仕舞った。毬を抱いたまま、散里は部屋へと戻る。簡素な部屋だ。床の間と一輪挿しと文机と。それだけの部屋で隅に置いてある座布団へと散里は静かに座った。手持ち無沙汰に手の中にある毬をくるくると回す。綺麗な絹糸で作られた毬は大分薄汚れてきていた。だが、散里にはそれを美しくする術はない。何一つ持たぬ。そうあることを求められてきた散里は、そんな己に不都合や不自由を感じることすら禁じられてきた。ただ、その身が汚らわしいからと。家の中へと居続けることを求められ、そして反することを知らぬ散里は此処にいた。
 ずっと、ずっと。今までも、これからもずっとそうなのだろう、と漠然と散里は考えている。考え、続けている。
 それは終わることのない袋小路の考え。散里は生きている。確かに此処で、心の臓は動き、脚は動き、指は動く。けれど、嗚呼、思うのだ。どうして散里は通りを大声をあげて走り回る子らと同じように、過ごしてはこれなかったのかと。
 この身が悪いことは重々解っている。何度もそう言われ続けてきたのだから。醜い身体。男でもない、女でもない。妻を娶り家を継ぐことも出来ねば、着飾って嫁に行くことも出来ない。我が家の恥だと母は言う。その通りだと散里は思う。そして時折、夢想する。もしも。もしも、散里は単なる少女か、もしくは少年であったのだとすれば。母は愛してくれたろうか。その顔に笑みを浮かべて、散里を抱きしめてくれたというのだろうか。その夢想は、何時も。散里の悲しい夢で終わる。目覚めても、目覚めても、散里は散里のまま。無意識のうちにそっと胸元に手を置く。ほんの僅かな膨らみ。散里は少女だ。だが、下肢には確かに男の象徴がある。散里は少年だ。どちらでもない、半端な存在。

「散里?入るよ」

 何時の間に口論は終わったのだろう。気がつけば、襖を開いた父が畳を踏み鳴らして入ってくるところだった。恰幅の良い父は穏やかな表情を何時も浮かべている。それは散里に対しても例外ではない。

「散里、今日はお前にお願いがあって来たんだ」
「……おねがい、」
「ああ。三日後に水神様のお祭があることは知ってるね?その祭の夜に散里には出かけて貰いたいんだよ。何、怖いことは何もない。綺麗に着飾って、籠に乗って、湖の傍へ行くだけだ」

 そう言って安心させるように父は微笑んだ。祭の夜はそう言えば、籠が湖の方へと行くのを何度か散里も見ていた。野の花で飾った籠には綺麗な少女が乗っていて、彼女らは皆、一様に誇らしげな表情をしていたものだ。

「水神様に捧げる花嫁、と言っても役だからね。毎年、女の子が湖の畔に立つけど、何も起こらない。何も心配いらないよ。私もお前と一緒に湖まで行くからね。大丈夫だ」

 父は村の長だ。恐らく今年、祭の少女を排出できなければ、それは彼の責任となってしまうのだろう。散里は、父が好きだ。少なくとも嫌いではないと思う。だから、父が困っているのならば、それはとても悲しいことだと思う。たとえ彼が散里には決して触れてくれなくても。厄介な腫れ物を扱うようにしても。それでも、散里は父が嫌いではない。だから、散里は柔らかな髪を揺らして、一回だけこくんと頷いた。はい、とも行った。小さな声ではあったが。

「…、行きます」
「そうか…そうかい、散里。行ってくれるか」

 父は嬉しそうに笑うとすぐに立ち上がった。そして、さり気無く散里の持つ毬に眼を留めると、大分汚れてしまったね、また新しいものを見繕わせようと、だけ言い残して、襖の向こう側へと去って行った。しばらく床板を踏む音が響いて、やがて聞こえなくなる。散里はぼんやりと手の中の毬を見つめた。変な気持ちだった。外へなど、出るのは初めてだ。それも籠に乗って、湖へ行くのだという。山の上の湖。水神様が住むんだという。綺麗な綺麗な水が流れる聖地へ。そして、散里は気付く。計らずとも、あの生きている紐の言っていた通りのことが実行されそうだということに。「祭の夜に」「お迎えにあがる」。誰がとも何がとも知れない。散里には、何一つ知る術はなかった。

 ただ、あの紐のようないきものの名だけは父に訊いておけば良かったな、と少しだけ、散里は後悔した。


06/06/20

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