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春雷が呼ぶ

 彼方の空を這い回っていた遠雷が雨雲を伴って徐々に近づき、やがて降り始めた雨粒は未だ固く閉じた蕾や若芽を急かすかのように叩く。次第に強まる雨脚が白い帯のように山を撫でれば、一足早く顔を出した下萌えの上を幾度もすべり落ち、雪代水と合流して勢いを作り出す。水際の芹は生温い風に群れをなして揺れ、まだ淡い黄色を見せない山吹が大きくしなかったと思えば、夜半に活動する生き物たちは慌てて鳴りを潜める。
 ごうという風は山の上から川に沿って谷へ。途切れることのない雨音は巡る回廊の緑青の瓦や崖の中途に嵌めこむように作られた宮の庇や玻璃の窓を不秩序に叩く。窓枠はその勢いに押されて僅かに軋み、石畳の敷かれた室内へと落ちる影はごく薄い。ひんやりとした静寂が支配した闇夜の隙間にそっと押し込められたような寝台の上。花鳥風月の彫刻が施された漆塗りの天蓋に染み一つない白い絹の綿入れが海のように波打っている。その波間、垣間見える金色の毛並みにに寄り添うように眠っていた萩はふと目を覚ました。
 一拍の間を置いて夜を震わせる轟音と閃光。
 夕暮れどきに変な色合いをしていた空が嵐を連れてきたと萩は寝ぼけ眼で思う。ずるりと身体を引きずり、身を起こして窓の遠くを見やれば明滅する闇色の雲が重く垂れ込めている。常より深く暗い夜は時折走る雷光によって雨粒だけがはっきりと浮かび上がり、雨音はまるで水の牢獄のように宮全体を包み込んでいる。降りしきる勢いは留まることを知らず、常のこととはいえ、四季が移り変わる際のお天道様の機嫌は一抹の不安をおぼえる激しさだ。だが、春の雨は誰にとっても必要不可欠な目覚めの雨だ。雪を融かし、草木を揺り起こし、大地を潤し、成長の季節へと向けた素地を作る。一雨、一雨繰り返す度に季節は進む。早春の霞はほどけ、仲春にまとまった春雨となり、晩春にはその甘露を受け取った花々が次から次へと綻ぶ。
「あ、」
 そして、天を揺らしながら凄まじい速度で走る雷(いかずち)は水を呼ぶ。
 鮮烈な光が窓から差し、遅れて地鳴りのような音が響き渡る。ぴりぴりと玻璃を震わせた余韻に萩が思わず背筋を伸ばすと、萩?と胡乱げな声がその背にかかる。薄闇の中で首を回せば、見事に枝分かれした角を持つ牡鹿が自身の前脚の付け根に突っ込んだ鼻先をゆっくりと持ち上げるところだった。今正に深い眠りから目覚めたらしい彼はしばらく焦点の合わない黒い瞳でまばたきを繰り返すと、今一度、萩と繰り返した。
「どうかしましたか?まだ丑三つ時だと思いますが…」
「稲妻の音で目が覚めたんだよ」
「稲妻…?ああ」
 牡鹿ー正しくそれを本性とする萩の伴侶、陸峯は長い首を伸ばし難なく窓の外を見遣った。ちょうど何度目かの強烈な雷鳴が鳴り響き、萩は首を竦めたが、陸峯はびくともしない。ただ鼓膜が揺らされるのが鬱陶しいのか、盛んにふっさりとした毛皮に覆われた大きな耳を振るう。
「春雷ですね。そろそろ草木も目覚めましょう」
「なあ、ここに落ちてきたりしないよな?さっきから音もだいぶ大きいけど…」
 そう不安そうに口にする萩に対し、陸峯はその黒々とした瞳で伴侶をまじまじと覗きこんだ。こういうとき、あからさまに呆れてみせるのは、彼の良くないところだ。たぶん。
「萩、貴方ひょっとして雷が怖いのですか?」
「いや、怖いっていうか別に音とか光は怖くないけど、落ちたら嫌だなっていうか」
 あれは萩が幾つの頃だっただろう。麓の村のとある民家のすぐそばにある一本松が落雷に打たれて真っ二つになった。燻る焦げ臭い匂いに倒木によって無残に倒壊した鶏小屋、飛び散った小さな羽根と辺りを取り囲む大人たちの深刻そうな顔つきは今でも萩の脳裏にしっかりと焼き付いている。恐怖は刷り込みとなり、雷に関する知識や対処をある程度身に付けた今でもそれは和らぐ気配はない。山で仕事する際は雷雨に遭遇するのは最早必然のようなものだったから、萩は殊更慎重にいざというときの退避場所を探しては記憶に刻み込んだものだった。
「落ちません。あれは龍神の眷属です。だから、神仙の領域には決して落ちません」
 陸峯が何でもないように言ってみせた言葉に萩はしばらく考え込み、ようやく思い当たる節あって、ああと頷いた。
 神仙の長は玉帝黄龍老君という仰々しい名の龍神だ。龍は天候を御し、特に雨や雷をよく司ると、先日陸峯直々による「この世」に関する講義で教わったばかりだ。よってこの世の天に関する事象に関して彼らの思い通りにならないものはなく、その配下の神仙たちは漏れなくその恩恵に預かれるというわけだ。記憶が蘇るのと同時に彼の一切の揺るぎない発言にも合点がいった。
「なるほど」
「納得しましたか?」
「した。大いにした」
「それは結構です」
 伴侶は澄ましてそう言うと再び窓の外に視線を遣った。
 相変わらず春の嵐が窓の外で吹き荒れている。その横顔をそっと覗き見しながら、萩は神仙の伴侶として聖域にやって来てから初めて迎える春を思う。
 陸峯は相変わらず寡黙で多くを語らないが、寄り添うようにいつも傍にいてくれるし、二羽の女仙もまるで三人目に弟が加わったと言わんばかりに萩に良くしてくれる。渓谷は季節の移ろいにあわせて刻々と表情を変え、見惚れるような自然の豊かさは萩の故郷に勝るとも劣らない。この世界は疑うべくなく美しく、それでいて優しい。踏む土の感触も芽吹く草木の気配も息づく獣たちの声もすべて。
「そうですね」
 唐突に陸峯がこちらに視線を向ける。濡れた鼻先に柔らかい瞳。萩が恋して、愛した獣。生涯の伴侶が柔和な雰囲気をまとって、そこにただあるという幸福。
「雨は朝には止むでしょう。明日は彩矍、瑞矍も連れて山へ入りましょう」
「え?本当か?」
「ええ。蕨の群生地をお教えします」
「…蕨…」
 瞬間、おそらく萩の中で何らかの記憶が揺さぶられた。否、それはひょっとしたら食欲という純粋な欲望だったかもしれない。無意識のうちに口の中で忠実に再現されるのは春の菜特有の苦味と粘り気のある噛み心地。
「…灰汁抜きしてお浸し…!天ぷらでも良いし、蕨汁も美味いし、塩漬けにしても良いよな…!」
「…たらの木が生える斜面も知ってますよ」
「天ぷら!たらの芽は天ぷら一択!」
「………野蒜は」
「焼いて、味噌付けて齧る!」
「…………筍」
「筍ごはん、焼き筍、木の芽和え…あっ、朝採りなら刺身でも良いなあ!」
「…………ふっ」
 とうとう堪えきれなくなったのか、牡鹿が笑みのような吐息をこぼす。つらつらと列挙される山の味覚に食い意地を発揮して幸せな夢想に耽っていた萩はそこでようやく我に返るも、時すでに遅しである。
 伴侶は大笑いを堪えているのか、角は傾き小刻みに揺れ、耳を伏せると鼻先を逸らす。いっそ盛大に笑い飛ばしてくれた方が気は楽だという萩の心の声は彼には届かない。居た堪れず頬を紅潮させた萩は上掛けを引き寄せると顔を隠すように白い布地に中に潜った。
 その様子に気付き、ようやく笑いをおさめた陸峯の声が萩?と追いかけてくる。本当は無視を決め込もうかと思ったのに、続けて怒っているのですか?と問われては、顔を出さざるを得ない。渋々目だけを覗かせると、こちらを覗きこむ濡れたぬばたまの夜の色とかち合う。
「…萩、」
「…怒ってないよ。笑われたから恥ずかしかっただけ」
「…それは、すみません」
 ただ、と続ける伴侶に何となく嫌な予感を察して萩は身構える。上掛けの端を握る掌に勝手に力がこもり、近づいてくる夜に無意識に息を呑む。だって、萩には見えるから。その奥底で揺らぎ、またたく、その眩いばかりの黄金色が。
「あまりにも萩が愛らしかったので」
 つい笑みがこぼれてしまいました、と連ねる伴侶に今度こそ本当に萩は首まで真っ赤に染め上げると、何度呼びかけられても決して朝までその顔を覗かせることはなかった。


2015.03.29

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