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野花に白露

 風が吹いては音もなく一葉、一葉。鮮やかな色彩は日毎色褪せ、なにもまとわぬ寒々しい枝が増えていく。時は進み、巡る季節に里山も街も森も例外はなく、それはここ、菘明山刹谷洞も同様である。
 深山に深く根を張る大樹のごとき聖域は、豊かな水量を誇る銀水の滝と力強く生い茂る木々、四季折々鮮やかに花開く草木と堅固な石造りの宮によって成り立っている。山門は崖の入り口にありひどく狭まっているが、一歩足を踏み入れれば滝壺から溢れるが如き清流が緩く蛇行して続き、その両脇に聳え立つ岩盤には幾重にも連なる九十九折の道。石畳のそれには緑青の瓦屋根がかけられ、太い柱は美しく滑らかに磨かれた御影石。軒下に連なる釣り燈籠は辺りが夕闇に包まれると勝手に火が入り、柔らかい橙の光で足元を照らす。崖と崖の両端を渡すのは弧を描いた朱塗りの橋。ところどころ虹のように空に浮かんでみえるそれは、背筋が寒くなるような高所にありながら、いくら風が吹こうとびくともしなかった。
 秋に愛される花の名を冠した孤児の青年が、洞の主人である黄金鹿から熱心な求愛を受け、妻として昇仙してから早十日。
 一頭の神仙と二羽の女仙だけが暮らしていた聖域は俄かに活気づいていた。何しろやってきた人の子は、じっとしていられない性分だ。昨日は滝の裏側の小さな洞穴へ光る苔と水晶を見に、今日は崖上に広がる森に毬栗を拾いに行ったかと思えば、顔を泥だらけにして籠いっぱいの茸も携え、明日は干柿を作るのだと準備を進めていたはずが渓流沿いに生える芹がうまそうだと摘みに出かけ、とにかく朝早くから夕暮れまであちらこちらと駆け回るのに忙しい。伴侶が少しは落ち着きを、と苦言を呈するのを知っているのか知らぬのか。今日も天真爛漫に跳ねる彼の靴音が澄んだ空気に満ちた渓谷に響き渡る。

「あら、紫香(しこう)様」

 一瞬、己の名であると理解するのが遅れる。妙に耳触りの良い音の名には未だに慣れることができていなかった。
 幾重にも続いていく急な坂の一角。屋根はなく土が踏み固められて、ちょっとした広場のようになった場所には何本かの樹木と実をつけた南天が生い茂り、御影石の欠片が無造作に積まれている。昨日までは落ちた葉が散乱し色とりどりの敷物を敷いたようになっていたはずだが、今日は乾いた落葉がそこかしこに小さな山を作っているだけだった。
 振り返れば案の定、竹箒を手にした女仙が小首を傾げて立っている。美しい姿形に小綺麗な格好をした女仙は、高価な人形のような見目に反して非常に働き者だ。炊事、洗濯、掃除などの日頃の労働を手際良くこなした上に、縫い物やちょっとした建物の修繕も彼女たちは実に器用に自らの手でやってしまう。

「ええと…」
「わたくしは彩矍ですわ」

 木菟を本性に持つ二羽の女仙は、変化したあとの人の姿も瓜二つで、萩は未だに見分けがつかない。並ばれても怪しいなら、各々別個で出くわしたときにはもうお手上げだし、木菟の姿になってしまえば最早個体差があるのかさえ自信が持てなくなってしまう。最も彼女らはそういった対応に慣れているのか、特段気に留める風もなく萩が言い淀むと同時に先に名乗ってくれるのだが。

「彩矍。掃除?」
「ええ、この時期はいけませんわね。掃いても掃いても終わりませんわ」
「まだ葉が付いてる木が多いしなあ。こんなにあるなら芋焼けそうだけど」
「まあ、お芋」

 萩の発言が思いも寄らなかったのか、驚いたように口に手を当てた彩矍はしばし考え込んだが、やがてぽんと手を打ち鳴らした。その目が爛々と輝いているのを見逃すほど、さすがの萩も鈍くはない。

「やりましょう、紫香様。確かお芋もありましたわ」
「え、でも掃除は?」
「そんなのあとでよろしいですわ。少々お待ちくださいませね。…紙と水と火種も入用ですわね」

 最後の方は独り言のように呟いて、萩に竹箒を押し付けた女仙は目にも留まらぬ早さで宮の方へと立ち去って行く。瑞矍、瑞矍!と片割れを呼ぶ声が二度三度岩壁に反射してはこだまになって残った。
 旋風がくるりと回って落ち葉を数枚攫っていく。取り残された萩はしばらく女仙の勢いに圧倒されて呆然と佇んでいたが、まあ惚けていても仕方ないか、と手持ち無沙汰に散り散りになった落ち葉を集め始めた。
 土を撫でる竹箒のざっざっという音。どこか懐かしく、心地良い感覚に人知れず手に力がこもる。今後は彼女らの代わりに落ち葉掃きもいいかもしれない。これぐらいなら萩にもできるし、彼女らには彼女らにしかできないことをやってもらったほうがいいだろう。今度提案してみようかと考えながら、無心で箒の柄を左右に動かす。
 順応が早いのは萩の利点だ。
 まだしっくり馴染むとは言い難いが、日が昇り日が落ち、夜明けを拝み夜更けを越す度に、美しい渓谷での生活に徐々に慣れつつある実感がある。ここは美しい。それは天上の国のような浮世離れした凄烈な美ではなく、地に足のついた移ろい変わる四季のような親しみ深い情景。どこか見慣れたともいえる景色は萩にとって有難かった。環境が変わるということ、営みが変わるということにある程度覚悟して来たとはいえ、やはり元々の生活とそれほど変わらず暮らせるというのは何よりも心安らぐものだ。

「…なにをしているんですか、貴方は」

 不機嫌そうな声は上空から唐突に降ってきた。手をかざして見上げれば、抜けるように晴れた秋の空を背に大きな獣の影。天空を駆ける牡鹿は鹿にあって、鹿にあらず。自然の化身にして、山の神。人語を操り、草木を解し、そして萩を愛する魂の伴侶。
 陸峯、と名を呼ぶ。これもあとで知ったことだが、神仙は血族と伴侶になるものにしかその真の名を呼ばせない。彼も表向きの名は岳麓真君というし、女仙らは彼を主様(ぬしさま)と呼び習わす。聞けば彼にも血族と呼べるものは今や存在しないらしく、正しく萩だけがその名を呼ぶ。だからだろうか。彼は萩がその名を口に乗せるとき、真っ黒に濡れた瞳を必ず僅かに細める。

「女仙らはどうしたのですか?」

 一駆けで萩のすぐそばへと着地した牡鹿が問う。長い脚、巨躯、金色の毛並み、枝分かれした雄々しい角、干し草の香り。彼の気配が一挙に押し寄せ、萩はほんの少しだけたじろぐ。その気配に慣れつつあるとはいえ、相手は神様である。圧倒的存在感は近寄って一層その神々しさを実感させる。

「焼き芋やるって。色々取りに行った」
「……焼き芋」

 繰り返した言葉に含まれていたのは、呆れと諦めか。たった二人だけの女仙に陸峯は少し甘い。
 本来ならこれほどの宮を維持するのに、もっと多くの女仙がいてもいいはずなのだという。けれど、陸峯はそうしない。そう、できない。主様は神仙の位でいえば中の下といったところなのでございます、と歯に衣着せぬ物言いだったのは彩矍だったか瑞矍だったか。九つの尾を持つわけでもなく、怪力乱神を地で行くわけでもなく、ましてや三世一の神である龍でもない。ただ少し毛色の変わった牡鹿は如何に仙術に長けていようと、重く扱われることはない。なんだか呆れて人の政の世界のようだとよく知らないながらも萩が呟けば、二羽の木菟は揃って首肯した。
 表情のない獣の顔で器用に渋面を作る陸峯を宥める。彼は基本的に几帳面な性格だ。役割を成し遂げることを至上としているし、間違いを嫌う。けれど、あまりに四角四面な性質はときに良い方向に働かないものだ。たとえそれが無力感の裏返しだとしても、肩の力は抜いた方がいい。美しい獣の顎下をそっと撫でる。大きな耳がくるりと動き、心地よさそうに目が細くなった。

「いいじゃないか、陸峯。焼き芋うまいぞ?」
「…そういう問題では」
「掃除なら俺も手伝うから」
「……そうではなくて」
「陸峯、」
「………」

 そして牡鹿は女仙以上に、愛しい愛しい伴侶に甘い。
 それを知っている当の伴侶は、自分でもたちが悪いことを自覚している。けれども、この頑固な神仙はとにかく力を抜くということを知らないものだから見ていて不安になるのも確かだった。それにたぶん、萩はこういう役目なのだ。萩の花に寄り添う鹿がただ脚を折って、伏すように。ゆるりとその心をほどく。

「…仕方ありませんね」

 言葉とは裏腹にその声は柔らかい。ほどけた心はただ穏やかで、ひたすらに凪の湖面のように。静かに、けれども優しい。奥深い森のようだと思う。その身に近寄ればいつも、色濃く静かな森がある。
 反するようで、その実は同一。一人で感心した萩は無意識のうちに顔をほころばせた。虚を突かれたように牡鹿は瞬きをする。その距離は近くて、とても近い。

「…貴方のそういう顔、ずるいと思いますが」
「え?か、顔?」

 慌てて己の頬をつねる萩に牡鹿は吐息一つ、蹄の足踏み一つでその身を人へと変えると、大きな手を伸ばしてきて萩から竹箒を奪った。長い金色の髪が光に当たってきらきらと輝く。稲穂のように揺れる金糸を目で追うと、漆黒の目線とかち合った。人の形をした一点の曇りもない黒曜石に息を呑む。どちらがというわけでは決してないのだが、何故か人の形にはまったときのほうがその瞳の透明度は目立つような気がした。

「私は貴方に甘い」

 萩の心を読み取ったかのように彼が言う。

「でも、貴方も私に甘い。そうですね、萩」

 拗ねたような表情がきっと子供っぽいと自分でもわかっているのだろう。すぐに目をそらせた彼に、つい堪えきれず萩は笑った。
 遠くから自分らを呼ぶ声がする。見遣れば橋の向こうから両腕いっぱいの芋を持った二羽の女仙が意気揚々とやって来るところだった。思わず顔を見合わせた萩と陸峯は同じ感情を顔に浮かべていて、やはり一瞬の間のあと、どちらともなく相好を崩した。


2014.11.24

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