ibaraboshi***

home > 小説 > , , , > 黄金鹿の花妻 了

黄金鹿の花妻 了

「もういいってば、ばあちゃん!」
「いけません!神仙様のところへそんな格好で行かせられますか!」

 神無月吉日。山はすっかり秋の装いを深め、朝晩の空気は澄んで霜を伴う。だが、昼餉の時間を過ぎればまだ日差しは充分に温かく、穏やかな小春日和が続いている。縁側で弓の調整をしていた徳松は先程から攻防を繰り返す妻と息子を見遣って目を細める。めでたい良き日に騒がしいこと。だが、それも今日までと思えばどこか寂寥感を伴って響いた。この道具もこれからは息子自身で手入れをするのだ。教えることは教えたが、果たしておぼえているのかどうか。実際にできるのかどうだか。心配の種は尽きないが、それでも送らねばならぬ。それは親の務めだ。

「疲れた……」

 よろめきながら息子が縁側に姿を現す。日頃の継ぎ接ぎとは異なる衣装に身を包んだ彼はどこか落ち着かない。国の特産である藍染の生地に墨染の襟。銀糸の縁取りは凛々しく、帯の細やかな刺繍は草木の蔓を表す。徳松が若かりし頃に仕立てて以来、大事にとっておいた一張羅は息子にぴたりと合っていた。

「おお。なかなか似合ってるな」
「ぱりっとしてるし着慣れない…」
「すぐ慣れる。男前だぞ、萩」

 誉めたところで半信半疑の息子はそうかなあと裾を払ったり、袖を引いたり。綺麗に整えた弓を見た瞬間の顔の方が余程いきいきとしていて苦笑する。それだけは幼い頃から変わらないのだ。豊かに変わる表情、よく動く手足、何もかもを受け入れる心。十八年間共に育ったとはいえ、彼の心の内は徳松にもわからない。だが、楽しかったと充足していたと少しでも彼が少しでも思ってくれればそれで良かった。そして、願わくばこれからもそうであれば。

「…あ、」

 息子が空を見上げて呟き、慌てて靴を取りに走る。いらっしゃったか、と徳松が腰を上げれば、留も息子同様足音を鳴らして庭に走り出てくる。
 秋風に乗って雲路を駆けるのは、一頭の金色の牡鹿。先導するように飛ぶのは二羽の木菟。
 澄み渡る青空を背景に中空を真っ直ぐにこちら目指してやって来る獣の行軍は現実から乖離しているようだったが、息子の表情にそれが真と知る。子はいつの間にか大きくなるものだ。気づいたときにはもう巣立ちのときとなり、親はその速度に心が追いつかない。けれど、そのときが来ても手を離してやらない親ほど愚かなものはない。子が飛ぶと言うのであれば、その背を押すのが親だろう。
 一頭と二羽はどんどんと距離をつめ、やがて地表間近となる。まず二羽の木菟が大きく翼を羽ばたかせ、二人の妙齢の女性へと変わる。整った顔立ちに美しい瞳の色、輪に結い上げた髪に薄く軽い素材でできた衣装。手には寿ぎを表してか、玉串を持つ。続いて牡鹿が地にその蹄をつけた瞬間、実に壮麗な男性の姿をとった。金色に輝く髪に白皙の顔立ち。長い睫毛に縁取られた瞳は黒く、長駆なれど身のこなしは優雅で気品に満ちる。
 彼はたっぷりとした意匠の裾を引き、両手を胸の前で組むと頭を垂れた。神仙の習わしはわからずとも、それが高位の礼儀を表していることはわかった。神であるというその前に一人の人格として、親に礼を尽くそうというその姿勢に徳松は慌てて背を正した。隣ではすでに妻が感極まって涙ぐんでいる。

「菘明山刹谷洞(ほうめいざん せっこくどう)が主、岳麓真君(かくろくしんくん)と申す。天命と山河の導きにより、ご子息をお迎えにあがった」

 夫婦は顔を見合わせ、息子を見遣った。また、息子も両親を見遣る。視線は僅かに交錯し、ただ言葉なく彼は頷いた。手には弓を。それだけを携えて、秋に生まれ、秋に愛された子は二人の元から旅立つ。

「じいちゃん、ばあちゃん」

 屈託なく笑う顔が。

「ありがとう」

 愛しくて、愛しくて。
 二人はただただ頭を下げた。妻はとっくに目を腫らしていたが、徳松は歯を噛み締めてじっと耐えた。否、ひょっとして耐え切れてはいなかったかもしれない。衣擦れが聞こえ、羽音と蹄の音が鳴り、顔を上げれば金色の巨躯が息子を背に中空を蹴るところだった。その姿は淡く滲んであっという間に碧空に溶ける。嗚呼そうか、とようやく実感がわいた。巣立ちとは即ち、親元を離れるということ。人であればそれは追いつける距離かもしれないが、神仙となっては決して渡れぬ隔たりの向こう側へ行ってしまうということ。

「……行っちまったな…」

 独り言のような呟きに妻が鼻を啜る音がかぶさる。見下ろせば小さな肩が目に入った。留は目尻を拭い拭い掠れた声で、そうですね、とだけ答える。

「良い御方だったな」
「ええ…おじいさん」
「萩も良い顔だった」
「……萩がいて……一緒に暮らせて、本当に良かったですねえ」
「そうだな」

 夫の言葉にまた妻は泣く。その背を撫でながら、徳松は息子が行った空の彼方を思った。そこは美しく、幸福に満ちているだろうか。長く生きた親でも知らぬ極楽だろうか。否、きっと厳しい場所であろうとも、彼なら切り開いていけるだろう。何故なら萩は、あの純朴で心の真っ直ぐな青年は自分たちの息子であるから。

 風が吹く。山はいつも通り静かにそこにあり、空は高く青い。深まる秋は過ぎれど巡る。そして、また山を染め上げるのだ。彩られた森の中に揺れるのは小さな花。秋に愛された紅紫の小花は来年も再来年もたくさん、たくさん咲くだろう。そしてその傍には美しい金色の牡鹿がいつまでもいつまでも寄り添っているのだろう。まるで、花妻の如く。


2014.10.26

新しい記事
古い記事

return to page top