ibaraboshi***

home > 小説 > , , , > 黄金鹿の花妻 七、萩

黄金鹿の花妻 七、萩

 踏み入れた足裏が落ちた葉に包まれてふわりと沈む。土の匂いが色濃く匂いたち、樹齢数百年を超す古い巨木の小道をゆく。肉厚な樹皮の合間を縫うように生い茂る羊歯はまだ鮮やかな緑色を掌のように広げている。古い森だった。萩も普段はほとんど立ち入ることがなく、加えて今日はその手に弓矢も籠もない。しかし、隅々まで歩き回った山の一部であることには変わりなく、恐怖心や不安は全くなかった。
 別れ道に差し掛かると、迷わず東の方角を選ぶ。養父に連れられ一度しか訪れたことはなかったが、不思議と迷う気はしなかった。中腹を抜けると木々は種を様々に、開けた地には野の花も咲いていた。
 淋国の国花は桜花である。
 王都はここよりも遥か高地にあって、岩山に張り付くように造られた道と石造りの建物で構築されている。一年のほとんどを霧に覆われ、俗に漆黒の都とも呼ばれる街は、けれども早春のほんの僅かな間だけ美しく嫋やかな薄紅に包まれる。数千本を超えるという桜花は王が女神に願ってもたらされた花。薄暗い都に年に一度の晴れやかな色彩を与えるそれは正に春に女神の真骨頂、人と神の特別な交わりの証。故に桜花は初代の王が没して数千年の時を経たとしても、王の花である。
 そのためか、ここ宗山でかの花を見ることはほとんどない。萩にとって馴染み深いのはやはり野に咲く小さな花々の方だ。国の中では低地に位置するこの山では四季を問わず花が咲くが、春に次いで盛んなのは秋だろう。苛烈な夏の日差しが少しだけ控えめになり、夜半に虫が鳴くようになれば、槿が先駆けて柔らかい花弁を広げ始める。続いて鮮やかな紫色の実を幾つも結ぶ紫式部。百日紅の花は魚の尾のようにひらひらとはためき、鳥兜が木陰で静かな青色を放つかと思えば、その横では釣船草がたっぷりとした花を揺らす。黄色の小花をたくさんつけた女郎花は日向に整列し、木々へ絡む葛の葉の隙間からは渦巻いて咲く赤が覗く。桔梗は凛と星型の花弁を空に向けて開き、撫子の可憐さは風に吹かれてもなお揺るがず美しい。一方で心地良さげに穂をなびかせて群生するのは芒。藤袴は玉のごときを花を幾つも抱え、そして何より誘われるのは萩の野。
 まるで海のような。
 蝶に似た紅紫の小花はあとからあとからこぼれるように咲き、風が吹けば丸みを帯びた楕円の葉とともにうねりを伴って波立つ。
 木立から抜け、開けた中腹に広がる萩の群生地。見渡す限りの満開の花と高く澄んだ空。振り返っても、見回しても、宗山の峰が豊かに広がっている。緑から少しずつ赤や黄の色に衣替えを始めた森はすぐ傍まで迫りながら、この野原を侵食する様子はなかった。おそらく萩がここで養父と出会った日の光景と何一つ変わらないだろう。そして、萩の知らなかった獣の気配もここには確かに残っている。
 風が吹く。
 透明な空気は露を連れ、紅葉を運ぶ。白の季節は駆け足で、急くようになにもかもが過ぎていく。
 けれども、彼は決して萩を責め立てるようなことはしなかった。待って、待って、ただひたすらに待って、そこにいた。まるで山そのもののように。その足取りは優雅で、美しい金色の毛並みは唯一無二。幾重にも枝分かれした鋭角、立ち上がった耳、知性を宿した瞳。静寂と豊穣。秋の象徴は、鹿の形を成して栄枯盛衰の化身とする。
 萩は微笑む。
 蹄の音を響かせ、茂みを揺らして山岳の神が姿を現す。その目を逸らさずに見つめれば、頬撫でる風に乾いた草の匂いが混ざる。無言の邂逅はまるで初めて出会ったときのようで、けれどそれと今とは全く異なる。萩は知っている。その目もその耳も自分にだけ向けられていることを。神仙と人の織り成す物語を。

「考えたんだ」

 萩の花が群れなして舞う。泣き止まぬ赤子が濡れた鼻先を突き出されて、無邪気に笑ったあの日のように。

「考えて、調べて、悩んで、思ったんだ」

 俺はね、と言えば牡鹿が耳をそばだてるのがわかった。一言も漏らすまいと獣が全神経を尖らせているのが手に取るように伝わる。萩は、笑う。

「お前のことが好きだよ。きっと、お前が思ってるより、もっとずっと好きなんだよ。俺はお前と一緒じゃないと嫌で、この先の、ずっと先にもお前がいないと嫌なんだ」

 きっと、俺は。

「そうあるためには何だってするよ。考えて、選んで、後悔しないでいてみせるよ。だから、」

 幸せになるよ。

「俺とつがいになってよ、陸峯」

 瞬間。

 一際強い風が萩野を吹き抜けた。舞い上がる土埃に思わず手で顔を庇った萩は、恐る恐る薄っすらと目を開く。目に入ったのは、微動だにしない金色の牡鹿と変わらず揺れる萩の花。何事もなかったとほっとするのも束の間、視界に飛び込んできた色彩に目を見開く。

 緋色、
 臙脂、
 蘇芳、
 海老茶、
 赤銅、
 照柿、
 橙、
 薄香、
 黄檗、
 山吹、
 鶸色。

 つい先程までまだ緑色が多かった一帯の森が一瞬にして錦に染まっている。紺碧の空を背景に森は色付き、燃え上がる。筆舌に尽くし難い色彩はありとあらゆる木々が最後の力を振り絞った結果のよう。その様は正に圧巻と言う他なく、千差万別の色合いは正に錦繍と呼ぶに相応しい。
 呆然と口を開く萩の前で、再び一陣の風が吹き、森を揺さぶる。ざざという音ともに色付いた葉は枝より離れて一斉に中空を舞った。赤子の手のような楓の葉は目にも鮮やかな真紅に染まり、ふわりふわりと萩の目の前に幾つも幾つも降り注ぐ。
 妻問うは晩秋のこと。かの獣が狂おしく恋うのは秋を冠した小さな花。
 黒紫の瞳が金色を捉える。漆黒の髪を風が撫で、舞い散る紅葉が萩野を彩る。四季を、時の移ろいを思う。春が訪れ、夏が過ぎ、秋が来る。そして、冬を越し再び季節が巡ってもきっと。彼は萩の元へやって来るのだろう。だって、それは絶えることのない想いだから。貴方を想い、故に想われ、恋い焦がれる。
 ゆるゆると口元に笑みがあふれた。なんとなくこの紅葉の意味がわかってしまった気がして、相変わらずぴくりともしない牡鹿に近寄る。彼は逃げずに伸ばされた指先を受け入れる。触り心地の良い首筋を撫でれば、切なげに目を細めた。

「…本当に後悔しませんか」

 その声は微かに震えていて、萩は一つ息を吐くと目を伏せて首を振るう。臆病な獣を安心させるように静かに、優しく吐く息に任せて言う。

「しないよ。それより、お前と別れる方がきっと俺は後悔する」
「…本当に、」
「本当に」

 もう一歩近寄って、頬を寄せる。獣は驚いたように一瞬身を固くしたが、すぐにゆるりと力を抜いた。金色の向こう側で真紅の葉が降り続いている。萩に寄り添うは牡鹿なれば、それは自然の理だ。

「…夢でないでしょうね」

 疑り深い獣の言葉に今度こそ萩は声をあげて笑った。その顔に手を添えて覗き込めば、濡れた漆黒の瞳に粧う山が映る。

「照れるなよ」
「…照れてません」
「嘘つき」

 笑えば憮然とした声と共に顔を逸らそうとした獣を逃がさない。その濡れた鼻先に唇をほんの触れるだけ。風が吹き下ろし、鳥が飛び立つ。森はざわめき、色づく。獣の心を表すように。それは同時に萩の頬も耳も染めて行く。秋晴れに恋心。うるさい鼓動。優しい温度。包まれれば一つ跳ねる。

「……貴方って人は……」
「…陸峯、苦しい」
「少し、静かにしなさい」

 人の形をとった神はその両腕に伴侶を閉じ込めて身じろぎ一つしないので、萩はその表情を伺い知ることはできなかったけれど。山の色合いがそれを教えてくれた。次々に変容する緑から赤へ、黄色へ。愛しい心を獣は草木で表現するのか。とんでもない人を好きになってしまったものだと少し笑う。けれども、その気持ちは次から次へとあふれて留まることを知らないのだから仕方がない。留める必要もないように思えた。だって、それは巡るから。ゆっくり、けれども確かに。幾度も、幾度も、貴方だけを、想って。

「…お慕い申し上げます、萩」

 それはきっと実ってなお甘い。





萩の花言葉は、「前向きな恋」、「思い」、「柔らかな心」。
鹿が好み寄り添う姿から、その妻と見たてて花妻とも呼ばれる。また、秋萩の咲く頃と鹿が盛んに鳴く時期が合致するため、鹿鳴草の別名も持つ。



2014.10.26

新しい記事
古い記事

return to page top