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黄金鹿の花妻 六、藤袴

 二羽の木菟が夜を通して連れてきた医師は非常に有能だった。
 若白髪混じりの癖毛に大きな薬箱を担いだ男は手慣れた手つきで患者の脈を診て薬を飲ませ、一昼夜ほど滞在するとすぐに次の村へ向けて去って行った。無論、処置を受けた養母が見る間に回復し、その容体を見届けることができたからこそなのだが。牡鹿の言うとおり肺に入った病は決して重いものではなかったのだ。さすがに年齢のせいもあり、すぐさま全快とはいかなかったが、日を追うごとに精力的な姿を取り戻して行く養母に萩もほっと胸を撫で下ろした。
 日常は取り戻されつつあった。
 季節の歩みは相変わらずで、ゆっくりと、しかし着実に変わっていく。紅色や黄色の彩りは山裾へと広がり、空は一際高く、時折驚くほど冷たい風を連れてきた。

 萩は考えている。あの日からずっと。

 手始めに養母の恩人である医師を麓の村まで送るときに尋ねた。博識な男は萩の唐突な質問にも手際良く、いろいろと答えてくれた。曰く、人と神仙は時の流れが異なること。神仙の王は玉帝黄龍という龍神であるということ。獣に限らず、人も草木でさえも昇仙できるということ。神仙の扱う術は仙術とされ、妖が使うそれとは名称が異なるだけで本質は同じであるということ。人と神仙が無闇に交わることは禁じられているということ。ただし、例外として神仙が人の子を妻として迎え入れるときがあること。
 まあその多くは龍神だがな、と医師は言った。龍神は神仙の中でも最高峰とされている。だが、それ故に牝の龍は気位高くなかなか雄になびかず、その多くは王の妃となってしまう。だから、牡の龍は人の子を妻に求める。ときに水辺で妙齢の女が行方知れずになることを、龍の嫁取りとも言うのだそうだ。しかし、それでも龍神は人々から尊重される。彼らの住まう河川は水害が起きにくく、周辺の地域の旱魃も少ないとされているからだ。
 ふと、牡鹿はなにを守るのだろうと思った。山の神様だから、山そのものだろうか。それとも季節ごとに咲く花々か、秋の豊かな実りなのか。
 彼が一通り語ってくれた話は有益ではあったが、萩が求めていた充分ではなかった。考えるために必要な知識はまだ足りていない。かと言って他に訊くあてもなく、悩んだ挙句、萩は村長に直談判することにした。初老の長は突然の申し出に驚いたようだったが、快く蔵を解放してくれた。一歩足を踏み入れれば、薄暗く埃臭い部屋の奥に堆く積まれていたのは書物の山。数冊を手に取って、日の光の下で見ると一層紙魚が目立ったが、なんとか文面は読める状態だった。
 萩は正式に読み書きを習ったことがない。生きていくためには山での仕事をおぼえるのが優先されるのは当然だったし、それに疑問を感じたこともなかった。ただ、今はそれがとても歯がゆい。簡単な一文でさえ、読み解くのに四苦八苦する。しかも、萩がここに来て書物に目を落とす時間は仕事前と後の短い時間に限られていたから、読解は遅々として進まない。それでも挿絵から類推し、消えかかりつつあった知識を総動員し、目的と思しき一文をどうにか見つけたのは幸運にも二冊目の書物の中だった。
 『神界』という題の中程には、即ち人でありながら神の世に入ることについての詳細な記載があった。修行を繰り返し、徳を積み、俗世の垢を払い落として仙人となるのともまた異なる手法。それは神仙との魂の交感。人の子が異界の神とつがうこと。それは人の世を捨て、神々の伴侶として生きるということ。「捨てる」のだ。他の章で読んだ幾つかの事例もそれを裏付ける。人の前に現れた神と彼らと心を交わした人の話のほとんどは、その後の経緯は一切描かれていない。つまり、そういうことなのだろう。萩を恋う神が最も恐れること。それは萩が養父母や山の暮らしや村の様子恋しさに、泣いて泣いて悔やむこと。

「…ほんとに萩だわ…」

 呆然とした声が届いたのは蔵に通い出して五日目の夕暮れ時。幼馴染のものだと、すぐに気がついた萩は顔を上げた。祭のときとは異なり、普段着に身を包んだ少女は蔵の入り口前に腰掛けて熱心に書物に目を落とす萩に信じられない、といった風に首を振った。

「どうしたの、読みものなんて。熱でも出たの」
「失礼なやつだな。俺だって調べたいことぐらいあるの」
「…読めるの?」
「……ちょっとずつ」

 灯里は呆れたように一つ息を吐くと、いつものようにすとんと萩の隣に腰を下ろした。見せて、と差し出してくる手に素直に書物をのせると小鳥のような声で萩が指差した箇所から朗読してくれる。

「ええと…人にありて人でなく魂の交わりにおいて昇仙するは即ち之をつがうと称し人の世を絶つことに等しい……なんでこんなもの読んでるの?」

 少女の怪訝な瞳は真っ直ぐに萩を見つめ、なんと返そうか迷っているうちに小さく首も傾げられた。そういえば祭の日もこんな光景を見たなとふと回想する。鮮やかな秋の西日はあの日よりも柔く二人を包んでいる。

「…なにかあったの?」
「なにって?」
「なんか…顔が違う」

 顔というか目?表情?と独りごちて、少女は萩の顔を間近で無遠慮にじっくり見つめたあと、あっと小さく叫んだ。その手には神仙について書かれた書物。察しが良いのは彼女の特性か、それとも女性全般にいえることのなのだろうか。こと、色恋沙汰に関しては。
 少女は一人で納得したかのように、そうかあと深く息を吐いた。長い睫毛の奥を萩は推し量ることができない。生まれてから今日に至るまでそこそこの時間を共有してきたにも関わらず。きっと、人とはそういうものなのだろう。短く太く生きる故、忘却も成長も許される。そんな、生き物。

「遠くに行ってしまうのね?」

 尋ねられ、たぶんと答えようとして思い留まった。
 仕入れた知識とその心で、考えていた。ずっと。彼と共にゆくということ。暗闇かも知れぬその果てを。行き止まりと知れてもなお引き返せぬその行路を。そして、きっと置いていくことになる老いた養父母のことを。捨てていくのかと罵られるかもしれぬその日のことを。この手には両者を掴むことはどうしてもできない。神世と人世の埋めてはならぬその狭間。侵してはならぬその領域。
 飛び越え、会いに行く。
 夢想は甘美だった。萩の思い描く理想は現実の前に何度も何度も瓦解した。自分がなにかを選ぶ日が来るなんて予想もしなかった。だから、きっと今苦しんでいる。萩が怠ったせいなのだから、これは誰のせいでもなく自身の責任だった。後悔しないように、と彼は言った。麗しい声音。鮮やかな黄金。濡れた瞳。幾度となく目にし、目に焼き付いて離れないそれを二度と見れぬことを選択したら、萩はどうなってしまうのだろうか。かつて萩が思い描いてた将来を想像してみる。けれど、以前とは異なり、それはどんなに頑張っても実像を結ばない幻のように揺れて、定まらない。代わりに隙間からじわじわと滲みだすように浮かぶのは、獣の姿。秋の深山に紅葉を踏みしめて、鳴く。あの。
 今一度、己に問う。
 波一つない静かな胸の内から、たった一つ簡素な答えが返る。
 天秤にかけると言ったら言い方は悪いのかもしれない。けれど、震えるほどのこの恋と安寧の日常を手に萩は冷静に前者を取る。他でもない。後悔を、しないために。

 熟考の末、萩は少女の丸い瞳を見つめ返してゆっくりと頷いた。彼女は一つ身震いすると真剣な顔で言う。きっと萩も同じくらい、恐いくらいに真剣な顔をしていたのだろう。

「幸せになって。それが恩返しなの」

***

 翌朝、ほとんどいつもの調子を取り戻した留が快気祝いとばかりに揃えたのは豪勢な朝餉だった。白米の粥には甘辛いあんかけ。蒸した零余子に塩を振り、芋茎と南瓜は煮付け、里芋は白和え。質素ではあるが、心尽くしの品々。それにいつもの倍の品数に養母の気合が伺えようというものだ。丁重に手を合わせて箸を取れば、息子が平らげる様を彼女はにこにこと眺めていた。
 常ならば朝餉のあとは萩と徳松は山へ、留は家で家事などとそれぞれの仕事に入るのだが、今日は萩がそれに待ったをかけた。常になく真剣な顔で話があるんだけど、と言う息子に養父母は顔を見合わせながらも神妙に膝をついた。
 早鐘を打つ心臓を宥めながら、萩は息を吸う。吐いて、一息で言う。目は思わずつぶった。

「俺、この家を出てこうと思うんだ」

 僅か十数文字の言葉は絞り出すように萩の口から落ち、波紋になって沈黙を呼んだ。鳥の声がどこからともなく聞こえてくる。長く、永遠のように感じられた間に怖くなって、薄っすらと目を開く。するとそこには、思いのほか穏やかな表情をした養父母が並んで萩を見つめていた。

「神仙様のところへ行くのね、萩」

 たぶん萩は生まれてこのかた、これほどに驚いたことはなかっただろう。否、断言してもいい。なかった。
 すべて心得たりといった雰囲気の二人に、思考のついていかない萩は疑問符をいっぱい浮かべて視線を彷徨わせる。こんなはずではなかった。萩の事前の予想では養母は泣いて、養父は怒り、それを必死で説得する自分という図式を描いていたのに。目論見は外れた。それも物分りがいいどころか、すべてお見通しの状態では萩の混乱も少しの間には治まらない。
 そんな息子の困惑をよそに、養父はしみじみと腕を組んだ。焼けた頬に刻まれた皺。浮かんだ笑みはどこか誇らしげだ。

「萩も十八だからなあ。神仙様もだいぶ気の長いお人だったということだな」
「いやですよ、おじいさん。私はもっと長いこと居てくれると思ってましたよ」

 本人そっちのけで始まる会話にも、やはりまったくついていけない。ぽかんと口を開けていると、息子の惚けた様子に気づいたのか養父が呵呵と笑った。

「そうだな。これはお前が家を出てくと言い出したときに言おうと思ってたんだがな」

 そう言って養父が語り出したのは、十八年前の初秋のある日の出来事。
 いつも通り山へ入り、薪を集めていた徳松が見つけたものは萩の茂みで産着に包まれた一人の赤子。ここまでは萩が聴かされてきた話と同じ。けれども、ここには真実がもう一つ。

「お前に気づいたのは、お前が泣いていたからじゃない。笑っていたからだ。萩の花しか見えぬ野にまあ楽しそうな赤子の声が響いていて、何事かと近づいたんだ」

 近づいて、ようやく若き日の養父は理解した。赤子が見上げたその先の金色のきらめき。雄々しい角を掲げ、漆黒に濡れた瞳の牡鹿。小さな命を守るように仁王立ちするその姿。

「すぐわかったさ。この子は神様に愛された子なんだと。俺たち夫婦にはあの御方が連れに来るまで、預けられるに過ぎないんだと」

 でもそれでもよかったのよ、と養母は顔をしわくちゃにして笑う。

「子供のいない私たちは貴方のことが可愛くて可愛くて。いつか神仙様の元へ行ってしまうとわかっていても、小さな手も甘い匂いも歩く姿も全部全部可愛くて」

 養父は胸を張って言う。

「お前は自慢の息子だ。もう、どこに出しても恥ずかしくない。だから、お前はお前の信じた通りに生きなさい」

 嗚呼。
 これを「家族」と呼ばずして、なにを「家族」と呼ぶのだろう。

 答えは答えにならず、ゆるゆると身体の中心が弛緩する感覚だけに委ねた。感謝とも悲哀とも言い切れぬ、安堵にも似た感情はただ萩の目頭を熱くした。目尻にたまった涙は後から幾つも幾つも溢れ、留まることを知らない。養母の年老いた手がそっと、萩の手に置かれた。それは小さく、そして温かく。萩は随分と久しぶりに養父母の前で嗚咽を漏らして泣いた。





藤袴の花言葉は、「ためらい」「あの日を思い出す」「優しい思い出」


2014.10.26

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