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黄金鹿の花妻 五、芒

 重湯を煮る。米の香りは水に溶け、冷ややかな空気を少しだけ退けてくれる。ぽってりした汁をお椀によそり、温度を吸った木の器を両手で包んだ。こぼさぬように盆にのせると、匙を添える。起き上がれるのかどうかもわからない。ただ、何もせずにいられないだけだ。
 雨は未だ止む気配を見せない。
 湿気た空気と淀んだ冷気はじわりじわりと養母の身体を蝕んでいるようだった。あの日、夜が更けても戻らぬ息子を案じて森に入った彼女は夜露にあてられたのか体調を崩し、寝床から離れられない日々が続いている。最初こそ気丈に振舞っていたものの、日に日に血色は悪くなり、今は気を失ったかのように一日中眠っていることが多かった。徳松はそんな妻の側をほとんど離れず、付きっ切りだ。冷たい手を握ったり声をかけたりする横顔は穏やかだが、その背には常に言い知れぬ恐怖が滲んでいるように思えた。
 誰も萩を責めはしない。だが、取って代わった無言はまるで真綿で首を絞めるかのように、緩く細く呼吸を妨げている。
 音を立てないように摺り足で歩き、奥の間の襖をそっと開く。天気が悪いせいで窓から差し込む光もほとんどなく、布団に横たわった養母の薄い呼吸と微動だにしない養父の石のような姿だけが湿っぽい部屋にぼんやりと浮かび上がっていた。じいちゃん、と声をかければ、眠らぬ肩が僅かに動く。状態は相変わらずなのだろう。重苦しい空気は静寂が雄弁に語り、膝を折る衣擦れは妙に白々しく反響した。置いた盆に養父がちろりと視線を落とす。

「…ありがとうな、萩。助かる」
「…じいちゃん、俺、」
「ばあさんなら大丈夫だ」

 まるで自分に言い聞かせているみたいだった。唇を噛む。きっと最悪の事態になったとしても、徳松は萩を責めたりはしないだろう。いつものとおり、けれど悲しげな目をして俯くのだろう。
 だからこそ、どうにかしたいと思うのに。
 萩にはなんの手立ても、知識もない。薬草も、食事も効果はなかった。こんな山奥の村には医者もいない。ただ祈ることしかできないのは、己の無力感を煽り、逆撫でし、焦燥感を募らせるだけだった。
 居た堪れずに、水汲んでくる、と言い残し水桶を手に取った。重たい戸口を引開ければ、雨はだいぶ小降りになっている。笠も被らず外に出ると、すぐに霧のような水滴がまとわりつき、ぬかるんだ道を歩けば泥は靴の溝にまで入り込んだ。
 木立を抜ければ、常より水嵩を増した小川が音を立てて流れている。しかし、濁るほどではなく、飲料には差し支えはなさそうでほっと安堵した。
 濡れた苔で足を滑らさぬよう用心して、いつもの岩へと登る。白い飛沫をあげる流れを覗きこんでも、水面は何も映しはしない。ただ、灰色の曇天を混ぜ込んだようなうねりが一つ、二つと生まれては消えていく。その繰り返し。
 霧のような細かな雨は髪を濡らし、頬を濡らし、肩を濡らした。否、頬を濡らすのは本当に雨だろうか。急速に熱くなってきた目頭を誤魔化すためにごしごしと擦った。
 養父と養母と自分と。三人の暮らしは穏やかで、不変だと信じて疑わなかった。この川のように流れるままに生きていく。それは萩にとっての無二の正解であり、不変の真実だった。思い返してみれば、萩はこれまで養父母の言に逆らうことなどなかったし、逆らうという発想自体が生まれることはなかった。そして、たぶんそれはそれで間違いではなかったのだろう。

 だって、二人に愛されなくなったら、萩はどうやって生きていけばいいのだ。

 養父母のことは信頼していたが、心の底に「拾われ子」だという事実は常に横たわっていた。愛情を注がれ育てられている自覚はあったし、計り知れない感謝もあった。だが、果たしてそれが本当の家族の姿かと問われても萩にはわからなかった。答えようもなく、知りようもなかった。深山に産着で捨てられた赤子にどうして「本当」の家族など思い至ることができるのだろう。愛されるということは無条件ではないと思っていた。だからこそ、言われるままに生きてきた。受け入れる。それが萩の考えた生きる術だったから。
 だが、きっとそれを今、見つめ直す必要がある。
 秋の深まりと共に訪れた様々な日常の変化。婚礼を控えた幼馴染の告白を聴き、己の行く先を考えた。養母が病に倒れ、年老いた親のことを案じた。

 そして、恋を知った。

 無償の慕情をおぼえる相手と出会い、誰かと添うことに思いを馳せた。それはきっと萩が思う家族の情とも愛とも似て非なるなにか。思えば切なく、苦しく、けれど胸の奥が熱い。理由なんて知らない。理由なんてきっとない。だから、人はそれに病と名付ける。

 ふと、頭上に影が差す。

 しばらく物思いに沈んでいたせいで気がつかなかったが、いつの間にか薄い雨が止んでいた。途切れることなく行く川の流れから波紋が消える。
 振り返ったのはごく自然、その目の前。吃驚するくらいの近距離に、濡れた獣の鼻先。
 思わず固まった。拍子に尻餅もついた。岩の上に落ちた尻が冷たいとか、言っている場合ではなかった。開いた口は塞がらず、喉はどうにも開かない。呼吸困難の魚みたいに声にならない声をなんとか搾り出そうとしていると、牡鹿は耳を振るい、長い睫毛をまたたかせ、よりぐっと首を伸ばし。

「なにを泣いていたのですか」

 喋った。

「………っ、し、し、しゃ、喋った!」
「喋りますよ。いけませんか?」

 神様だと言ったのは貴方でしょう、と鉄鈴を打つが如き流麗な声で獣は人語を話す。しかも、話すどころか、解している。意思疎通ができている。
 金色の生き物は萩と同じ言葉を話すのだ。話して、聞いて、そして尋ねた。
 獣は驚きのあまり再び声も出ない萩を何と思ったのか、苛立たしげに蹄で地をかいた。荒い砂利はからから音をたて、ようやく我に返る。質問を思い返し、言葉をまとめようとするがうまくいかない。常になく慌ててしまうのはきっと彼への恋心を自覚しているからだ。そんな場合ではないというのに。恐れや喜びやなにもかもが混ぜこぜになって、まったく平常心が戻ってくる気配はない。吐息一つ。顔を上げれば、何を思ったのか牡鹿が今度はその巨躯を大きく揺るがすところ。
 変化は一瞬で捉えられもしない。
 地についた脚は二本。舞い上がるゆったりとした意匠の衣服は仙人が着るというそれそのもの。幾つかの装飾品には翡翠や白金が使われ、彼が裾を引くと軽い音をたてた。漆黒の瞳、涼しい目元、白皙の肌。長く美しい金色の髪が辛うじて獣の面影を残している。

「…神様だ…」
「さっきからそう言っています」

 人の姿をとる獣は神仙か妖のいずれか。しかし、隠しようのない清浄な雰囲気は天に連なる者で間違いなかった。なにが、なにやら。もう一体どれに驚けばいいかもわからず、値を振り切ったかのようになると逆に肩の力はふっと抜けた。
 人の形となった獣は相変わらず、さあ喋れと言わんばかりに無表情の瞳をこちらに向けている。まとった雰囲気も印象も正直ほとんど変わらないのだが、ひょっとして獣の身では萩が話しにくいだろうと感じての配慮なのだろうか。神様の考えることはよくわからないが、とにかく誠意だけは伝わってくるのは間違いなかった。
 手をついて腰を上げ、のろのろと岩から降りると萩はようやく口を開く。まだ膝が微かに震え、それを宥めるように足裏へと力を込めた。

「ばあちゃんが病気なんだ」

 ぽつりと落ちた言葉は重みを伴い、中空に落ちた。せせらぎが絶えることなく続き、急かされるように萩は継いで言葉を紡ぐ。

「祭の夜から体調崩して…咳が酷いし、ものもほとんど食べられない。熱もあるし、最近は寝床からも起きれなくて…」

 人の姿の獣は黙して語らず。萩の独白のような声に耳を傾けているのかいないのか。察しのつかない黒い瞳がただじっと萩を見下ろしていた。同じ地に立って気づいたが、彼は随分と長身だ。長い髪は渓流からの風になびいて、芒の穂のようにさらさらと揺蕩う。
 言葉が途切れてから、如何程の間だったのだろうか。薄い唇から覗く象牙色の歯をちらつかせ、彼が緩やかに口を開いた。

「私は確かに病を治癒させる力を持っています」
「じゃあ…!」
「ですが、それを貴方がた人に使うわけにはいきません。人と神の掟に反します。境界線を侵す行為を私自らが行うことはできない」

 続いた言葉に、失望というよりかはやはりという感想を抱いた。
 この世では人と神は区別され、わけ隔たれている。その交わりは必要以上は避けられ、必要とされるときでさえ最低限が好ましいとされている。天を龍の王が治めると決まったとき、地は人の王が治めると決まった。唯一無二の決定事項。何人もこの例外を生むことは許されない。掟は人一人の命より絶対的に重い。

「よって、これが精一杯です」

 だからこそ、次に彼が言った言葉は萩にとって意外だった。え、と思わず呟けば、彼は大きな声でどこへともなく呼びかける。

「瑞矍(ずいかく)!彩矍(さいかく)!いるのはわかっているんですよ!」

 瞬間、二つの黒い影がこちら目掛けて滑空してくるのが目に入った。神仙が萩に背を向け、両腕を空に向かって突き出すと、音もなく近づいてきたそれはほんの少しの羽音だけを残して見事に着地する。空気を含んだ斑な茶褐色の羽毛に琥珀の玉の瞳。黄色の嘴は鋭く、頭頂からは一対の耳のような羽根が生えている。猛禽の中でも一際大きく、威圧感のある森の狩人。現れた二羽の木菟(みみずく)は、人の腕を止まり木代わりにすると、まるで会話でもするかのようにぼうぼうと盛んに鳴き交した。

「言い訳はいいんです。それより、辺りの村へ行って医師を探してきなさい。急病人だと言ってこちらへお連れするんです。…ええ、もう雨は降りませんが、足元がぬかるんでいますから、よくよく貴方がたで案内するんですよ」

 いいですね、という声に唱和して答えると、二羽はすぐさま空高く飛び去った。その尾羽を呆然と見送って、萩は頭を抱えた。
 そうだ、医師だ。
 どうしてそんな簡単なことに思いが至らなかったのだろう。飛ぶ鳥には及ばないが、人でも足を使って探すことはできたはずだ。思えば養父母も萩も病気知らずで今まで医師の世話になったことは一度もなかった。それが余計に思考を狭めた。村を巡る渡りの医師が国の制度によって存在することを知らなかったわけではなかったのに。

「おそらくですが」

 萩の後悔と苦悩を知ってか知らずか、木菟を見送った男が口を開く。柔らかい衣擦れの音ともに香るのは、獣の背に顔を埋めたときと同じ匂いだ。

「彼女はそう重い病ではないと思います」
「…え?」
「肺に病が入り込んでいるのは間違いないのですが、医師の適切な処置で問題なく完治する程度です。過度な心配は止めて、治療を待つことです」
「…なんでそんなことわかるんだ?」

 萩の疑問はもっともで、彼は養母が病に倒れたあとどころか、今まで一度も会ったことはないはずだ。だが、彼は平然と相変わらずの表情で答える。

「見なくても、診れます」

 意味は、よくわからなかったが。
 とにかく、彼は嘘はついていない。しかも、神様で医師もやがてやって来る。幾つかの事実がゆっくりと染み込むと、急に全身を脱力感が襲った。きっと安堵の反動が大き過ぎたのだろう。ゆるゆるとしゃがみこむと上から変わらぬ温度の声が、変わらぬ速度で降ってくる。

「もう日が暮れます。早く戻った方がいいでしょう」

 目を伏せて、姿が見えなくなってしまうと変な感覚だった。確かに気配があって、それはあの恋しい牡鹿のものなのに見目はまったく異なっている。でも、決してそれを受け入れられないのでもない。むしろ、当然のように受け止めてしまっている自分がいる。そこに、彼が。脈打つのは心の臓器。川辺の気温はぐんぐん下がっていくが、それに反するように顔が熱い。脈打つ音が耳の裏でうるさい。訊きたいことが、たくさんあった。

「あの、」

 まだ、傍にいる気配を信じて、そっと目線を移す。目に入ったささやかな金糸の縁取りがされた靴は布製で染み一つなく、萩のそれとは素材も意匠も異なっていた。

「どうして、俺のこと助けてくれるの」

 どうして目の前に現れたのか。何度も何度も。あまつさえ、今日は萩に手を貸してくれた。人と神の掟に反すると己の口で言いながら。答えは、ない。川音のみの静寂。風はなく、虫の音は気遣うように遠のいた。

「……なんで、俺のこと呼んだの」

 ひょっとしたらその質問はするべきではなかったのかもしれない。なぜなら、小さな旋風が起こったかと思った次にはもう、そこには人の姿をとった神様はいなかったのだから。ただ、雄々しい角を掲げた金色の牡鹿が一頭。立ち上がった萩に向かって無心の瞳を向けていた。けれども、決してそれは虚ろではない。明らかな熱情を持って、見つめていた。その、色。萩は知っている。花が咲き、枯れ、そして実る果実。甘く、柔く、崩れそうで、かぐわしく、浮かされたように、痺れ、愛しく。名を呼ぶ。嗚呼、呼ばなくてはその名を。でも、喉の奥に引っかかったように出てこない。こんな、すぐ傍まで、来ているのに。

「私は、」

 口を開いたのは獣だった。相変わらず美しい声が水滴のように落ちて、消える。

「臆病者です」

 意外な言葉に目を見開いた。獣は言葉を重ねる。

「私は怖い。貴方の優しさも、貴方の情の深さも、貴方の強さも、何もかもが怖い」

 彼は言う。息苦しそうに、言う。

「今、私が貴方と共にありたいと言えば、貴方は私と共に来てくれるかもしれない。けれど、それは一時の激情です。私は貴方をずっと見てきました。ずっと、ずっと見ていたから知っています。貴方は優しくて、情が深い。それは純粋であるということ…ときに流され易いということ。恋に絆され、愛に絆されるならそれが幸福だと言うものもいるでしょう。ですが、もしもそれが貴方にとっての不幸だとわかったときに、貴方が泣いて悔やむ姿を見て」

 息を呑む。

「私は耐える自信がない」

 たぶん、獣は泣いていた。目に見えぬ涙を流して誰かに懇願されるなんて生まれて初めてのことだった。獣は続ける。その角を掲げ、熱っぽい瞳をまたたいて。

「…萩野で生まれた人の子よ、かつての幼子よ。私は貴方のつがいです。それは間違いようのない事実です。ですが、それを強要するつもりは毛頭ありません。そのようなことはしたくありません」

 山の主、神の牡鹿は言う。

「人の行路は短く太く、仙の行路は細く長い。ゆめゆめ忘れず、選択なさい」

 地を蹴り、獣が当たり前のように天空を駆けてどこかへ消えてもしばらく萩はそこに立ち尽くしていた。
 ぼんやりしていたわけではない。ただ、ただただ考えていた。萩は、考えなくてはならない。「なに」が果たして自分の望むことなのか。すべての既存の事実を取り払う。意志を、持つ。
 己の幸せのみを一身に願うものを裏切ってはいけない。自我を超えた残酷な優しさを惨いという者もいるだろう。だが、萩はそれを彼の言いようのない愛情と受け止めた。全霊の恋情と心得た。
 考える。思考し、巡らせ、知らなくてはならない。生きていく、ということを。それが、誰かを悲しませたり、喜びをもたらすことに繋がるということを。
 行く先はあやふやで頼りなく、輝かしいのか真暗な闇かもわからない。けれど、萩は考えることをやめなかった。止めるということは、彼への侮辱になると思ったから。考え続けて答えを出すこと。それだけが、美しい獣への唯一の返答だと、そう考えたから。

 蕩けるような紺色の闇の帳が落ちる。空には眩い一番星が現れたばかりのようだった。





芒の花言葉は、「活力」「心が通じる」「憂い」


2014.10.17

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