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黄金鹿の花妻 四、撫子

 どこか遠くで長く長く鳶が鳴き、峰々に反響してはこだまとなる。
 長月が急ぐように過ぎ、神無月に入って数日。山は徐々に粧う準備を始め、遠目に見える高地は紅や黄へ日に日に変容していく。憎らしいほどの晴天に風は乾いて緩く、どこからともなく木犀の甘い香をのせてやって来る。
 秋の深まりを感じながら萩は午後の日差しを浴びる縁台で、ぼんやりと籠を編んでいた。幼い頃から幾度となく作ってきた竹の深笊はもう思考を介さずに、半ば自動的に指先が作り上げていく。そのせいで、萩は手仕事に精を出しながらも、まったくもって心ここに在らずだった。
 鮮明に蘇るのは土の匂い。苔生した樹木の肌触り。
 そして、何より色。脳裏をちらついて離れない黄金のきらめく色彩の鮮やかさ。たわわに実り、頭を垂れた稲穂。お天道様の通り道、満ちた月。きらきら、きらきらと。
 その色にもう三日と会っていなかった。
 日常と化すほどに顔を合わせていた相手が、急に音沙汰なくなるのはたとえ人ではないとしても寂しいものだ。それに、寂寥感以上の何か。言葉で捉えることのできない感情があの日からずっと萩の胸の内に巣くっていた。それを知りたいのか、知りたくないのか、それとも知られたくないのか。己の気持ちも正体も掴めぬまま、彼に最後に出会ったときのことを萩は繰り返す想い出す。獣の心地よい背を枕にふと眠ってしまったときに見た夢。あれは一体なんだったのだろう。夢を見たことはおぼえているような気がしても、細部はまるで靄がかかったように覚束ない。頭を振るえど一向に答えは出ず、萩は思考の螺旋に落ちていくばかりのような日々を過ごしていた。

「……萩…萩!聴こえてるの?」

 養母の声がすぐ耳元で聞こえて、萩は肩を跳ね上げた。振り返れば、真後ろに呆れたような表情で留が立っている。思索に耽っていたせいで、長い間気づかなかったのだろう。悪いことをしたと思いつつ、なに、と控えめにきけば初老の婦人は吐息一つ。よく見ればすでに外出の支度を整えているようだった。

「私は一足先に行くよって言ったの。貴方、どうするの?」

 そう言われてようやく今日が麓の村の秋祭だったことを思い出す。もうそんな時季かとも思うが、風は涼しく、山は色付き、靴を濡らすのは草の露。徳松は朝から炭を担いでいそいそと出かけて行っていたし、留は留で前日から小豆を煮、お重いっぱいの餡子餅をせっせとこさえていた。どうやら萩のぼんやりが過ぎただけのようだ。

「俺も切りの良いとこまでやったら、すぐ行くよ」
「そう?じゃあ、遅れないよう…」

 お小言が不自然に途切れたかと思うと、留は急に顔を歪ませた。口元に手を当て、続けざまに大きく咳き込む。

「ばあちゃん!?」
「…ああ、大丈夫だよう。ときどき、こうなるのよ。いやねえ年をとるのって」

 季節の変わり目で昼夜の寒暖差も激しい。養母は体調を崩しがちなのかもしれなかった。萩が気遣わし気に眉根を寄せると、心配ないという風にからっと笑ってみせる。その姿がまた心配だったが、留は私のことはこれでお終いと言わんばかりにぽんと膝を叩いた。

「じゃあ、私は行くからね。貴方も早く来なさいね」

 踵を返す養母の背中に気をつけてと返し、その背中を見送ると萩はしばらく手元に目を落としたが、結局ほとんど間をおかずに立ち上がる。膝に落ちた木屑を払い、作りかけの籠が飛ばないように部屋の奥へ放り込むと今正に戸口から出ようとしていた留に大きな声で、やっぱり俺も一緒に行く!と呼びかけた。

***

 桜花を開いて国に春を告げるのが佐保娘々(さほうにゃんにゃん)なら、黄金の実りを持って秋を運んで来るのは竜田娘々(たつたにゃんにゃん)である。
 春に芽吹き、夏に育ち、秋に結実す。実りは恵みであり、来たる厳しい冬を越すための蓄えでもある。それらをもたらすのは全て滞りなく巡る自然。牙向くことなく、寄り添ってくれたものたちのおかげ。だからこそ、人々は祭を催して盛大に祝う。己が、親が、子が、孫が、村が、健やかに過ごせることを自然の化身である神々に感謝する。

 麓の村は約五十世帯程が両脇を里山に囲まれた谷に沿うようにして暮らす、長閑な場所だ。谷底は一本の道となり、下れば鳳の国へ続く街道、上れば宗山の山道へと通ずる。道の両脇には何枚もの稲田が広がり、安定した水源と村人たちの精魂込めた手入れのおかげで豊かな実りを得ることができていた。
 今の時季、田はすでに落とし水が行われ、無数の稲架掛けには重たそうな稲穂が重なり合うように掛けられている。畦道には盛りを過ぎた彼岸花が揺れ、落穂を求める雀が行ったり来たり忙しい。田と畑の間にぽつぽつと点在する民家の軒先にはまだ瑞々しい柿簾が下がり、脱穀機が出番を待つように庭先に鎮座していた。
 土を均しただけの道を進むにつれ、日の高い内から赤々と燃える篝火が立ち並ぶ様が露わになる。道すがらすれ違う村人たちの頬は心なしか上気し、皆にこやかだった。何度か時候の挨拶を繰り返し、やがて田一枚分はあろうかという村の広場に辿り着く。幾重にも重なる祝杯、笑い声。煮炊きの匂いに細く伸びる湯気。炭が爆ぜる音、煙、酒の匂い。中心部に組まれているのは大きな櫓。奥の舞台には今年の新米、南瓜、小豆、常緑の榊の枝が祀られている。それらを囲むのはすでにご機嫌な村人たちで埋め尽くされた茣蓙だ。皆今年の大仕事を終えて解放されたかのように無邪気に笑っていた。村は今日、ハレの日だった。

「じゃあ、私は行くからね」

 そう言って連れ立って来た養母が村の女たちの輪に加わってしまうと、途端に萩は手持ち無沙汰になった。徳松を探そうかとも思ったが、それより先に腹の虫が催促してぐうと鳴る。今日は祭だ。それも一番盛大な秋の収穫祭となれば節制を心がけるケの昨日とは異なり、山と里の恵みを存分に堪能していい日と言い換えても間違いではない。そこかしこから漂ってくる良い香りに萩は自ずと生唾を飲み込んだ。意識した途端、より盛大に感じる空腹にもう我慢も限界と、辺りを見回す。見知った顔はすぐに見つかり、萩は小走りで宴席へと近付いた。

「初おばさん、こんにちは」
「あら、萩!久しぶりね!」

 必要以上に大きな声で出迎えてくれたのは体格の良い中年の女性だった。彼女は萩の頭のてっぺんから爪先までをちらりと見遣やると、すぐに赤く染まった相好を崩す。それから、久しぶりに会った若者の成長を身振り手振りを交えながら一通り褒めちぎり、案の定次々と宴の席の食べ物を手渡してくる。
 潰した米に串を刺し、味噌を塗って香ばしく焼いたもの。鳥と牛蒡を炊き込んだ握り飯。塩を振って焼いた岩魚。竹筒に入った汁物には今年も狩人が仕留めた牡丹肉が使われている。
 これもこれも食べなさいと山のように渡され、それらを器用に両手に抱えて礼を言うと、萩はその場から脱兎の如く退散した。普段村から離れて暮らしている萩の一家は村人たちの格好の話の種だ。留まっていたら矢継ぎ早に質問責めにされて、ろくにご馳走にありつくこともできないに違いない。
 かくして人気も人目もなさそうな舞台裏までやってくると、具合の良さそうな丸太を見つけて腰掛けた。
 皿は一旦膝にのせ、とりあえずはと持っていた握り飯を口にする。牛蒡の滋味と鶏肉の旨味と醤油の香ばしさ。山里で鶏は貴重な卵を生む家畜として大事にされている。それを一羽潰して饗するとは贅沢の極みだった。しかも、美味い。やはり鶏の肉は美味い。一年に一度の食感を萩が味わって噛み締めていると。

「こんなところにいた」

 聞き慣れた声がした。顔を上げれば、目の前に白を基調とした華やかな祭の衣装に身を包んだ少女が立っている。萩より一つ年下。長い黒い髪に丸く大きな瞳。金糸の刺繍が施された巻き布には小さな金の鈴も縫い付けられ、彼女が首を傾げると小さくまろやかな音で鳴った。名は灯里(あかり)。歳が近いせいもあり、比較的萩とは気安い仲だった。それが証拠に彼女は特に断りなく、萩の隣にすとんと腰を下ろす。その拍子に甘い匂いが彼女の全身からふわりと立ち、萩の鼻先を優しくくすぐった。

「すごいね。山盛り」
「初おばさんがくれた」
「あ、やっぱり。いつもそうなんだから」

 ころころと笑う声は昔とほとんど変わらない。幼い頃は萩もときどき村に降り、二人して泥だらけになって日が暮れるまで遊んだものだった。蛙取りや鬼灯遊び、石投げもままごとも男の子の遊びも女の子の遊びも、分け隔てなくなんでもやった。無論、最近はすっかりそんな遊びに興じることもなかったのだが、当然と言えば当然の話だ。萩の手足や背丈が伸びたのと同じように、彼女も少女のままではいられない。祭で晴れの衣装を着て舞い踊る娘の姿は、収穫の喜びを神に捧げる神楽であると共に少女らの成人の儀でもある。気のせいか、その横顔は少し大人びてみえた。

「踊るんだ、今日」
「そう。緊張しちゃって」
「灯里なら大丈夫だろ」

 そうかなあと困ったように笑う。傾いできた日差しが橙の道筋となって刈田を、藁葺き屋根を、舞台を、少女の顔を照らす。紅を差した唇は妙に艶やかに萩の目には映った。しばらくの沈黙。萩が手の内に残った握り飯を食べ切るのを見計らっていたのか、それとも偶然か。あのね、と少女は切り出す。

「私ね、お嫁入りが決まったの」

 思わず数度まばたきを繰り返した。灯里は萩の目を真っ直ぐに見つめていた。また萩も彼女の化粧が施された顔立ちを見つめた。その色に最早幼さはない。そこにいたのは萩のよく知る無邪気な少女ではなく、嫁入りを控えた一人の女だった。

「喜須さんところに嫁ぐの。長男さん」
「……ああ、気の良い人だよな。うちのじいちゃんも滅多にいない好漢だって誉めてた」

 良かったなと言うと灯里ははにかんだような、それでいて何かを押し込んだような相反する感情を浮かべながらも、こくりと頷いた。幼馴染に重大な報告をして緊張が解かれたのか、それともようやく告げることができて安心したのか、大きく息を吐いては突っ伏すように顔を膝頭にうずめる。連なった小さな鈴が一度、二度と軽やかに鳴った。

「あーあ。まさかこんなに早くお嫁さんになるなんて…」
「嫌なのか?」
「嫌じゃないけど…もう萩ともなかなか会えなくなっちゃうし…」

 語尾を濁し、ふと顔を上げた少女の透明な瞳が萩を見る。写し鏡のような、誰か。

「ねえ、萩は好きな子とかいるの?」
「え?」
「それとも留さんや徳さんが決めた子がいるの?炭職人になるんでしょ?だったら山で暮らすわけだし、丈夫で若い人じゃないと…」

 言われてたじろいだ。確かに一つ年下の幼馴染が嫁ぐような頃合いだ。そのうち、萩にもお鉢が回って来るのは間違いないだろう。想像したこともないと言ったら嘘になる。職人として腕を磨き、質の良い炭を作る。畑を耕し、鶏の世話をし、水を汲む。山菜を採り、鳥獣を狩り、薪を拾う。妻を娶り、愛し、子を育て、養父母のしわくちゃな笑顔を横目に仕事に精を出す。日々繰り返される変わらぬ山の暮らし。それが今まで萩がぼんやりと思い描いていた未来の形だ。

 少なくとも今年の秋の初めまでは。

 自分の心の変わりように自分で困惑する。狼狽する。いつからだろう。どうしてだろう。なにかが変わってしまった。太陽の光を浴び真っ直ぐに伸びるはずだった若木が突如として枯れ、朽ち果てた後の柔い土から新しい芽が勢いよく吹き出す。春になれば種が芽吹くことが自然の摂理であるように、それは誰の手でも止めることはできない。緑の若葉に気づいたときにはもう遅い。巡らされた根はしっかりと大地を刺し、するすると伸ばされたしなやかな、けれど嵐にも折れぬ強かな枝葉の先には幾つも幾つも薄紅の花が零れるように咲く。風が吹く度に揺れる花弁に寄り添うのは黄金色。気配、色、匂い、音、全てが。
 一幕の白昼夢。
 それは続けざまに山村に響き渡る甲高い鳴き声によって破られた。形容しがたいその音は風に乗って、木々を揺らし、はっきりと届く。困惑した声で鹿?と呟く少女の隣で、萩は指先が震えるのを止めることができなかった。

 嗚呼。それは。
 妻恋う牡鹿の鳴く声。

 秋の深山でしばしば聞かれるそれは、季節の風物詩であり、萩も聞き馴染んだものだ。だが、なぜか今日に限ってその声は違う色を伴って響く。
 彼だ。
 高く、大気震わせ恋う声は、正しく金色をまとっている。美しい毛並み、黒く濡れた瞳、勇壮な大樹のごとき角、強靭な蹄。触れれば温かく、頬寄せれば香る干草の匂い。知っている。呼んで、いる。
 ぎゅと心臓を鷲掴みされたみたいな息苦しさ。とてもではないが、居ても立っても居られなかった。
 萩は勢い良く立ち上がると、驚いた表情を浮かべた幼馴染を余所に全力で走り出す。
 後ろから追いかけてくる声を気にかける余裕もなかった。無心に土を蹴り、畦道を駆ける。蜻蛉が同じ速度で並走し、驚いた蝗が目の前を横切る。茜色に染まりつつある空を視界いっぱいに映して、萩はただ走った。村を抜け、杉の木が並んだ獣道をそのままの速度で駆け登る。すでに薄暗い木立の中に闇雲に突っ込んだ。生い茂った羊歯をかき分け、鮮やかに色づいた烏瓜の蔓をくぐり、熊笹の茂みを散らした。ひんやりと湿った空気が身体を包み、土の匂いが強くなる。一足早く真っ赤に染まった漆紅葉の脇を過ぎると、萩の剣幕に驚いたのか数匹の栗鼠が慌てて樹上に逃げて行く。行き先なんてわかるものか。ただ、声のする方に行きたかった。それだけだった。

 秋の日は転がるように落ち、夕闇が包み。

 月明かりしか光源がなくなった頃、息を切らした萩は森の中の開けた場所に出た。いつしか牡鹿の鳴き声も聞こえなくなり、夜鷹の鳴き交わす声と虫の音だけが森を支配していた。
 どれほど走ったのか検討もつかない。ただ、早鐘を打つ胸と脚の疲労だけが、痛みを伴った確かな感覚だった。
 目の前には澄んだ水で満たされた真円の池。見覚えのない場所だった。水面には白い月の盃がその姿をありのままに映す。月下の幻。膝をつき、触れようとすれば歪んでたちまちに消える。決して手に入らぬものが、この世には存在していることを思い知る。
 獣に、しかも牡の獣に恋煩ったと知ったら、養父母は何と言うだろうか。
 恋煩い。言葉にすれば、殊更その想いは消え難く、はっきりと形を成す。だが、何より困惑しているのは萩自身だった。曝された心の形は見るのも触れるのも怖い。それは、それが理屈ではなく、感情によって引き起こされる唯一無二の絶対だと知っているから。
 月の光を集めた水鏡は、萩の心も、想い人の姿もなにも映し出しはしない。
 結局、遠くから彼の名を呼ぶ養母の声が聞こえるまで、萩は泉の畔に膝をついたまま、ぼんやりと空を見上げていた。紺色の夜空に広がる天満星はただ遠く、どこまでもどこまでも澄み渡っていた。





撫子の花言葉は、「純愛」「大胆」「燃える愛」


2014.10.06

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