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黄金鹿の花妻 三、桔梗

 最初に弓を与えられたのは七つの時だった。
 竹を削って歪曲させ、麻を拠った弦を張っただけの簡素な品ではあったが、幼い萩が目を輝かせて手に取るには充分だった。畜産がほとんど行われていないこの地域にとって、狩りは貴重な獣肉を得るための手段だ。兎や水鳥の類から大型の猪や鹿。肉、骨、皮、羽、毛と余すことなく活用できる鳥獣を仕留めることのできる狩人は否が応でも人々の尊敬を集める。
 山の民として生きるにあたり、知らなくてはならないこと、できなくてはならないことを毎日どっさり与えられ、それをこなすのに精一杯の日々の中、萩は弓矢に関することだけは手を抜くことなく熱心に学んでいた。
 ひとえに憧れであった。秋祭りの夜に振舞われたのは、湯気立つ巨大な鍋で煮込まれた牡丹肉。仕留めたのは彼よ、と指差された先には壮年の狩人が酒を片手に皆に囲まれていた。篝火に照らされたたくましい横顔はとても誇らしく見えたものだ。萩の養父は優秀な炭焼きであり、加えて実に手先の器用な職人であったが、脚に不安があるせいで狩人として終日野山を駆けることは難しかった。だからと言うのもあるだろう。彼が作った弓と矢を持ちて、萩が獲物を射る。そのとき、少なからず父の影がそこにあるように感じた。宿っているのだ。竹のしなりに、張りつめた弦に、鋭い矢尻に。

 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。

 狩りの前の儀式のようなものだった。山間の湿地帯。森が開けたその場所は高い空がどこまでも広がり、徐々に朽葉色に変わり始めた木々がところどころで塊になっている。大地は緑色に一分の隙間もなく覆われ、丸くて白い花が風に揺れていた。水辺の近くに群生する葦は一斉に穂を出し、ざざざと波のような音を出す。その高い草丈に隠れるように萩は身を低くして潜んでいた。手にした弓は竹と木材を貼り合わせて作られた半弓で、いわゆる狩猟弓と呼ばれるもの。長年愛用したそれは幾度も扱っているせいで構えれば手にも指にもしっくりと馴染んだ。
 息を殺して、耳をそばだて、目を凝らす。姿はほとんど見えないが、僅かな水音、鳴き声、羽音からそこに水鳥がいることを察する。恐らくは真鴨だろう。子育てを終え、束の間の休息を経たのち、雪の少ない越冬地へと飛び去ってしまう彼らを捕らえるのは今が好機である。
 竹を利用した矢筒から矢を取り出す。矢尻は打ち鉄、矢羽は雉の尾羽を使い、萩自らが削り仕上げた一本だ。命中率を上げるためにとにかく真っ直ぐであることが重要な矢は、やはり作るとなるとそれなりに手間がかかる。だからこそ、失ったときは痛手だった。何しろ大きな時間と手間をかけた品を失うばかりか、手ぶらで帰る羽目にもなる。心ばかりか腹にも痛く、帰りの道中の空しさといったらなかった。
 慎重に矢をつがえる。息を吸って、吐く。水鳥の呼吸にあわせるように、鼓動を整える。茂みの中を直接狙う狩人もいるが、萩はそうしない。彼らが飛び立つ瞬間を狙う。その方が威力が落ちることなく伝わるし、間違いなく仕留めることができるからだ。ここだと思う瞬間を逃してはならない。それは経験と気配が教えてくれた。
 水音が跳ねる。雰囲気が、変わる。矢を引く肩に力を込める。羽が唸る。弓がしなり、張り詰める。草が揺れ、風が起こる。
 飛ぶ。
 そう思うよりほんの早く指先を放す。碧空を背景に今正に天高くあろうとした影が一羽、不自然な動きで一声鳴くと落下した。ぎゃあぎゃあと鳴き交わす他の鳥たちは一目散に別の池を目指して飛んでいく。萩は肩の力を抜いて、一息つくとすぐに立ち上がり湿った土を踏みしめ、葦かきわけた。
 かくしてそこには見事に胸の中心を貫かれ、絶命した真鴨の牝が落ちていた。深く刺さった矢のせいで出血もほとんどない。血を巡らせるため、矢もそのままに手持ちの皮袋に入れる。矢尻は鴨の体内に留まっているから、怪我をすることはないだろう。
 一羽仕留めた。
 その安堵感で思わず笑みがこぼれそうになるのをぎゅっと引き締めて、萩は思案する。手ぶらではないにしろ、狩猟で出かけて真鴨一羽とは寂しい成果だ。あまり多くの獲物は持ち運べないが、小型の鳥獣ならあと二三羽は獲っても問題ない。肉は干し、毛皮や羽毛は防寒具として来るべき冬に備えることができる。そうと決まれば次も鴨を狙おうかそれとも雉か、はたまた野兎かと萩が考えを巡らせながら湿地に歩を進めると。
 ぱきっと甲高い音が響いた。
 振り返る。その音は思った以上に近い。湿地帯の間際まで広がる広葉樹の森の中、小枝を踏む音が徐々に近づいて来るのがわかる。最初は人かと思ったが、違う。音の大きさや間隔がそれは人ではないと如実に告げている。では獣かと問われれば、萩にはなんとなく予感があった。一応、人に危害を加えるものであることも視野に入れつつ、数歩後退ったりしたが、おそらくその心配はいらないだろう。
 かくして一際大きく森の土を踏む音が聞こえた次にはもう、目にも鮮やかな稲穂の色合いと枝分かれした角の陰影がはっきりと萩にも見えていた。獣はゆっくりとその四つ足を繰り、完全に森の中から出てくると、まるで萩がここにいたことを見透かしていたかのようにこちらへと鼻先を向けた。
 あの、鹿だった。
 変わらず美しい毛並みは眩いばかりの金色で、日の光の下できらきらと輝く。長い脚は汚れ一つなくすらりと伸び、その後脚に萩の巻いてやった布はもうない。浅い傷だったせいだろうか。遠目では傷があったこともわからなかった。真黒に濡れた大きな瞳が見つめてくる。萩が目を細めると、獣はゆっくりとまたたいた。そして、その長い首を垂らすと、口に咥えていた何かを地面に落とす。萩が首を傾げる間もなく、再び如才のない動きで身を翻すと、やけに目立つ白い尾の色を残して薄暗い森の中へと入って行った。
 萩は牡鹿の姿が見えなくなると同時に彼が立っていたところまで近づいた。遠くからは下草に覆われてほとんどわからなかった「何か」を上から覗き込み、ようやくそれを理解する。それは萩がかの獣に巻いてやった布だった。手に取って広げて見ると、馴染んだ質感に見慣れた色合い。薬草の上からとはいえ傷口に直接あてたせいで少なからず獣の血を吸ったはずなのに、染みひとつないそれを握り締める。
 やはりただの獣ではなかったのだ。
 妖、それは人ではない何か。神仙、それは天におわし五色を司る龍神の使い。確かにそこに存在するにも関わらず、人とは明確な距離をとり、住む世界を違え、決して必要以上に交わろうとはしない自然の化身。幼い頃に養母から繰り返し聞かされた御伽噺の記憶が奔流のように蘇る。萩は今確かにこの世とあの世の交わりの狭間にいるのだと思い知り、しばらく呆然と獣の消えた森の奥を眺めていた。

 その晩、養父母に対して興奮気味に今日の一件を語った萩は、けれど翌日翌々日と過ぎるにつれ、御伽噺も摩訶不思議も慣れればただの日常茶飯と早々に悟ることになる。

 つまるところ、金色の鹿は翌日も翌々日も、もっと言えば三日後も四日後も萩の前に現れた。
 相当な荒天でもない限り、基本的には山で仕事に励んでいる萩だから、野の獣に出会うことは珍しくもない。だが、それが妖はたまた神仙の類と言われれば話は別である。出会う場所も時も定かではない。早朝に渓流で釣りをしている最中、日の高い内に赤松の林で茸採りに励んでいるところ、小楢の森で野兎を追いかけ回したり、休憩中に落ちてきた毬栗と格闘しているとき、高い声で旋回する鳶を見上げて視線を戻した直後など。ふと気配を感じれば、十中八九そこには彼がいた。鳴くでもなく、擦り寄ってくるわけでもなく。現れた獣はまるで萩に姿を見せることが目的だと言わんばかりに常に一定の距離をとって視線を寄越した後、また元来たときと同じようにどこへともなく去って行く。
 初めは何かしら反応を得ようとしてみたりしたのだが、その全ては梨の礫。そのうち萩も諦めが勝り、特に危害を加えられるわけでもないせいで、段々と美しい牡鹿のいる風景は日常と化した。以前は茂みを揺らして獣が現れる度に身構えていたくせに、なんという順応性だろう。今や萩は突然森の奥から二つ蹄が顔を出してもぴくりともしない。嗚呼今日も来たか、と顔を綻ばせて良いきっかけと一息つく。他に誰に出会うともしない深山で、風とせせらぎだけが見ている一人と一頭の交流だった。

 そんな日々が十日と二日も過ぎたある日のこと。

 雨が降り出したのはお昼過ぎだった。
 今の今まで澄み渡っていた空に暗雲が立ち込め、遠雷はまるで意思を持っているかのように蠢いている。風が運ぶ水の匂いを萩の鼻も敏感に察する。心なしか小鳥たちも忙しなく羽ばたき、足元で揺れる草が強風で唸るように鳴った。秋の空は変わりやすい。承知している萩は焚き付け用の小枝をたくさん入れた籠を手に獣道を走り出す。こういうときの対処に関してはほとんどが頭の中に叩き込まれていると言って良かった。
 しばらく行くと、鬱蒼とより深くなる緑の色。高木と低木が乱立する木立を抜け、落ち葉を踏みしめた先には梛の巨木がすっくと佇む。萩が両手を回しても届かないほどの幹の根元に滑り込むと、図ったようにぽつりぽつりと滴が落ち始めた。だが、隙間なく葉を茂らせた樹木の真下ではその水滴も届かない。きっと驟雨だ。すぐに止むだろう。呑気に構えて荷を下ろすと、隆起した木の根に腰を下ろした。
 さあさあと森が濡れていく音が耳を打つ。手持ち無沙汰な萩は太い幹に背を預けたまま、ぼんやりと上を見上げる。重なった円錐状の葉の隙間から鈍色の空が遠く覗いている。雨は音を吸いこむものだ。静まり返った森の奥、生き物の気配は希薄で萩の薄い息遣いだけが湿った空気に溶けるよう。だから、すぐに気付いた。
 雨音に紛れて柔らかい土を踏むその足音。見上げていた首を戻す。萩はもう驚いたり、身構えたりせず、その色を待つ。
 かくして巨木の背後から現れたのはかの牡鹿であった。彼は座り込んだ萩を一瞥すると、当然のようにちょうど手を伸ばしても触れない位置に器用に脚を折りたたんで座る。意外にも彼が地に伏せてみせるのは、初めて出会った小川の畔以来だ。気を許しているのだろうか、それとも萩などいないものとして扱っているのか。正面を見据えて動かない獣の横顔をじっと見つめる。全身を金色に包まれた獣ではあるが、ぴんと上を向いた耳の外側、角の根元、鼻先の少しは薄っすらと黒い。大きな黒い瞳に黒い縁取り。目の周りには長い毛がところどころ生えている。耳の内側の毛は外側と違い、白に近い金色で触れたらふんわりと柔らかそうだ。
 触ったら、逃げてしまうだろうか。
 ふとそんな気持ちがもくもくと湧き上がる。手当のために必要に迫られてではなく、その毛並みを愛でるために触れたら彼は立ち上がって、駆けて行ってしまうだろうか。しばらく悩んだが、結局は衝動を抑えることはできず、萩は座ったままそっと獣に近付いた。牡鹿が僅かに驚いた様子で此方を見下ろす。その視線を受けていることを感じながら、萩はわざと緩慢な動作でその背に指を伸ばした。
 結果、彼は逃げなかった。
 鹿の子の消えた広い背は正に秋の稲田のような色合いだ。意を決して大きく撫でれば一層わかる毛皮の下の硬く締まった肉と頑丈な骨格。案の定、手触りは抜群で、しかも触れれば触れるほど伝わってくる柔らかい体温に離れ難くなる。奇しくも秋深まり時雨降り注ぐ森の奥である。肌寒さはじわじわと身を蝕み、冷たく病んだ指先は熱を欲している。
 迷うのは一瞬だった。萩は、えいとばかりに上半身全てを獣の背に預ける。半分とはいえ人の重みを受け止めて、さすがに焦れて逃げ出すかと思い見上げたが、予想に反して獣はおとなしかった。濡れた黒曜石はじっとこちらを見つめ、やがてふいと逸らされた。
 萩は頬を緩めると、お許しを得たとばかりに存分にその麗しの毛並に顔を埋めた。深く息を吸うと温まった干し草のような、春に淹れる茶のような香りが鼻腔を満たす。まるで安眠を誘っているかのような匂いに温度。辺りに降りしきる雨垂れまでも心地良く耳朶を打つ。いつしか重くなり始めたまぶたに抵抗するのはすぐに諦めた。ぐずぐずと身の奥から溶けるような抗い難い深い眠りへと身を任せ、やがて静かに落ちていく。

 夢を見ていた。

 誰かが頭を撫でている。細い指、ひんやりとした体温。心地良い。身体中を安堵が満たし、意識するでもなく全身が弛緩した。優しく揺り籠に揺られているような、こんな感覚はとても久しぶりな気がした。薄らと目を開けると白い靄の中に長い髪と白皙の横顔がぼんやりと見える。母さん、無意識に唇が動いた。夢は萩の意思の元にある。だからこそ、それはこちらを向いて優しく微笑むはずだった。けれど、その意に反して夢の肖像は不機嫌そうに口を開く。

ー誰が貴方の母親ですか。
ー………だ、れ…?
ー私は陸峯です。
ーりく、ほう…?
ーそうです。つがいの名を忘れるなんて不誠実ですよ、萩。

 萩。
 あ、それ。

 俺の名前だ。

 目が覚める。気がつけば雨は止んで、緑陰には薄日が差していた。鼻先に強く土の匂いを感じて身を起こす。見回しても辺りに金の獣はいない。ぼんやりと絹織物のような手触りの苔の上にそっと手を置くと、まだ少し温もりが残っていた。





桔梗の花言葉は、「変わらぬ愛」「気品」「誠実」


2014.09.29

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