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黄金鹿の花妻 二、葛

 宗山の中腹、山頂からも麓の村からも離れた森の中に萩の生まれ育った家はある。広葉樹を切り開いた土地はそこだけぽっかりと日が差し、大きな陽だまりのように暖かい。薄暗い獣道から出てくると、いつもその明るさに目が眩みながらも心の底から安堵をおぼえたものだった。
 今日は清々しいほどの秋晴れ。傾きかけた太陽が中秋とはいえ、強烈な光を差し向けている。山間の土地は日が沈むのも早い。茜雲は空高く棚引いて、数羽の烏が鳴き交わしながら遠い山へと飛んで行く。紅の蜻蛉は群れをなし、忙しなく飛び回る。少し前まで喧しいほど鳴り響いていた蝉の音も蛙の声ももうほとんど聞こえなかった。
 土地には必要最低限を営むための開拓しかされていない。小さな畑には蕎麦、芋、南瓜などが植えられ、まだまだ威勢の良い葉先を伸ばしている。主に卵を目的に飼っている鶏は我が物顔でゆっくりと庭先を歩く。茶色の尾羽を振りつつ、盛んに地面を啄ばむ様は平穏な日常そのものだった。少し離れたところに建つ炭焼き小屋は手入れが行き届き、積み重なった薪さえ規則正しく並ぶ。近寄れば灰の匂いが色濃く残り、つんと鼻の奥をついた。一方、住居はこの辺りで一般的によく見られる木造平屋で、簡素ながらしっかりとした柱で土地に鎮座している。軒先には天日に当てて縮んだ茸がざるに山盛りになっていた。次に麓の村に行商人が来たときに炭と一緒に卸すのだろう。形の良いもの、大きいものが厳選されている。突っ張り棒で開いた窓からは湯気が走り、仄かな煮炊きの匂いがしていた。独特の香りが庭先にまで流れている。今日は蕎麦がきだろうか。そろそろ今年の結実も収穫時だ。

「ただいま」

 開け放した引戸から中に向けて声をかけると、明るい声音ですぐさまおかえりと返ってくる。薄暗い室内に目を慣らすように数度瞬きすると、竃の前で菜箸を手にした留(とめ)の姿がはっきりと認識できた。細い白髪を質素なかんざしで一つにまとめ、巻き布は銀糸の刺繍で美しい細工がしてある。紺地の着物はこなれていたが丁寧に手入れされている様がありありとわかり、御年七十を超えようかという柔和な顔には笑い皺が幾つも刻まれている。精力的に家事をこなす留は、常に萩の母親代わりだった。まだ小さな赤子だった萩に山羊の乳をやり、産着を変え、子守唄を歌ってはあやしたのは他でもない彼女だ。そして今、小さくなった彼女は眩しげに自慢の息子を見上げる。

「おかえり。茸、どうだった?」
「松茸が豊作」
「それはいいわねえ。明日は茸汁にしましょ」

 息子が下ろした籠をにこにこと覗き込みながら、あらと彼女は何かに気付いたように首を傾げる。その視線が自分の頭に注がれていることに気付いて、萩は罰が悪そうに目をそらせた。そんなことしたところで、彼女の目を誤魔化せるわけではないということは百も承知なのだけれど。

「あんた、頭、どうしたの?」
「あー………あげちゃった…」
「あげちゃったって…誰に?」

 嘘が滅法不得意な萩があっさり吐露すると、留は目を丸くしてきいてきた。
 それはそうだろう。あれは萩がこの家に来る前から身につけていた唯一のものだ。正直、萩自身は一切の記憶にない実の親に対する興味はほとんどない。形見にしたって育ての親がそう言うのだから、そうなのだろうな、程度の認識で執着も何もあったものではない。そもそも顔も知らない誰かを思えなんて無理な話だと思うのは萩が薄情なだけなのだろうか。どこかで旱魃や水害などが起きれば、口減らしの捨て子など珍しくもないご時世である。結果として自分は生きて、血は繋がっていないけれど二親がいて、それで充分だとそう思うのだけれど。しかし、彼らにしてみれば出自に繋がるかもしれない品をそう易々と失っていいものではないと思っているのだろう。驚きから段々と不信の表情に変わってきた留に萩は慌てて弁明する。

「違うって、ばあちゃん!適当にあげたんじゃなくて、山ん中で怪我してる鹿がいてさ…それで手当てに使ったの!」
「…鹿って…あんた…」

  萩としては嘘偽りなく述べたつもりだったし、実際嘘偽りなかったのだが、それでも留は変わらず顔を曇らせていた。萩としては包帯代わりにちょうどいいくらいの軽い気持ちだったのだが、留の表情から察するにやはりまずかったようだ。なんと言い募ろうか、萩が逡巡しているうちに聞こえてきたのは吐息が一つ。あれと思って顔をあげればいつも通り、眦に皺を刻んだ養母の顔。

「まったく。あんたらしいと言えばあんたらしい」
「…ばあちゃん」
「あげちまったもんはもうしょうがないからねえ。また新しいのを仕立ててあげるよ」

 布を探してこないとねあの色はよく似合ってたよ、と朗らかに言う留に萩は深く頷いた。優しい表情は十数年間、誰よりも萩が見てきた母の顔だった。

「おじいさんが戻ってきたら夕餉にしましょう。萩、水を汲んできておくれ」
「うん。じいちゃん、どこに出かけてんの?」
「今日は竹切ってくるって」

 竹炭かと合点がいった。
 萩は今度は籠の代わりに水桶を手にすると、家から飛び出す。いつも水を汲む小川はすぐ裏手にあった。鶏小屋の脇を軽やかに駆け、真っ直ぐ伸びた木々の合間に延びた小道を抜けると、すぐに水の気配が強くなる。彼岸花が薄闇に真紅のぼんぼりのように浮かび上がる。蜉蝣が心許ない半透明の羽を震わせて舞う。夕暮れが近かった。
 いつもの岩の上に飛び乗ると、屈んで桶いっぱいに水を汲む。苔むした岩と清らかな流れは、美しい黄金色の鹿のいた浅瀬を思い起こさせる。森の中に溶けるように、けれど圧倒的存在感をもってあった忘れがたいその色。すぐに立ち去ってきてしまったが、あの後彼は無事立ち上がることができただろうか。水辺に長い間留まることは危険であると、獣は重々承知であろうし、萩の杞憂である可能性が高いのは確かだが、やはり無事起き上がるまで見届けるべきだったか、と萩が流れに手を遊ばせながら悶々と悩んでいると。

「何ぼーっとしてやがる」

 荒々しい声が間近で聞こえて、危うく萩は夕暮れ時の寒々しい川に落っこちるところだった。振り向けば色濃く焼けた肌に精悍な顔つき。白髪混じりの短い髪はまだ若々しく、山ほど背負った青竹からは鮮烈な香りが漂ってくる。萩の育て親のもう一人である徳松(とくまつ)は熟練の炭焼きだ。常に手も指も真っ黒にしながら炭と向き合っている彼は水桶をそばに置いたまま物思いに耽っている息子に変わらず威勢のいい声を投げる。

「どうした。ばあさんに叱られたか」
「そんなんじゃねえよ。子供扱いするなよな」
「子供のくせに何一丁前に言いやがる」

 からかうような口調に唇を尖らせると、立ち上がった。危なげなく岩から飛び降り、汲んだ水をこぼさぬよう慎重に水桶を担ぎ直す。同じ地に降り立つと、養父とその息子の背丈はほとんど変わらなかった。

「飯だって」
「わかってる。日が落ちるのも早いもんだ。…ああ、そうだ、萩」
「なに?」
「お前の弓な」
「直った!?」

 二人並んで小道を歩き始めた瞬間、萩が振り返ったせいで徳松は多少面食らった顔をしたがすぐに不敵に笑ってみせた。年の割りには若々しい養父はそうするとまるで子供のようだ。

「おうよ。もう踏んづけるんじゃねえぞ」
「…しないって。気をつける」
「矢も失くすんじゃねえぞ」
「あれ、は!去年の話だし!少し調子悪かっただけだし!」

 この話題を出すと萩がむきになって怒るのを知っていて、徳松は折に触れて蒸し返す。
 萩は鴨を狙うのが得意だ。池や広い湿地帯の畔に群れをなす彼らが飛び立つ瞬間を狙い定めて矢を放つ。当たれば矢は獲物ごと落下し、無事回収できるのだが、外せば大きく弧を描いて到底取りには行けない場所へと落ちる。矢を失くす、とはつまりそういうことだった。徳松はここぞとばかりに失敗談を強調してくるが弓矢を使って狩りをするようになって早数年。萩の腕前は師である養父に並び立つほどである。

「明日使う」
「おう。茸は?」
「今日行った。今年は東の赤松林がすごいよ」
「そりゃいい」

 二人で取り留めのない会話をしながら我が家へと戻る。鼻をくすぐる香りは今日、萩が採ってきた松茸のものだろう。留の手にかかりご馳走となった秋の味覚を想像して、萩の腹の虫が一つ盛大に鳴いた。




葛の花言葉は、「芯の強さ」「治癒」「 恋のため息」


2014.09.20

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