ibaraboshi***

home > 小説 > , , , > 黄金鹿の花妻 一、女郎花

黄金鹿の花妻 一、女郎花

head


 淋の国の西南に位置する宗山(ソウザン)は広大な尾根を持つ国内屈指の名峰である。青々とした木々が立ち並び、小さな花々が咲き乱れ、美しい小川、豊かな湿地帯を幾つも抱き、その恵みは麓の村々へももたらされる。南方に延びる街道は鳳との国境に繋がり、古来より行商人とのやり取りも頻繁だ。特に山で焼かれる炭は良質な燃料として町でも人気のある品で、そのために村ではなくわざわざ山中に家屋を設け、その一生を炭焼きとして終える者も決して珍しくはない。

 そして、それは恐らく彼も例外ではないだろう。

 落ち葉を踏む度に土の匂いが湧き立つのがわかる。昨日降った穏やかな雨のせいに違いない。雫をまとわせた露草がその青色を可憐に開いているかと思えば、朽木の陰から蟋蟀が顔を出す。鳥は高らかな声で鳴き交わし、獣たちが冬に向けてあらゆるところで餌を探し回っている気配がする。実りの秋は人にとってだけではない。鮮烈な日差しが降り注いだ夏期を超え、乾いた風が頬を撫でるようになった長月も半ば。木漏れ日の差す森の中、一人の青年が細く長い花序を伸ばす水引の脇にしゃがみ込んでいた。
 この国では珍しくない烏の濡れ羽色の髪。この国ではほんの少し珍しい黒紫色の瞳。額から後頭部にかけては民族衣装とも言える帯状の布飾りを巻いている。深い紫苑に黄色の糸で縁取りされたそれは随分年季が入っていたが、同時に彼によく馴染んでいた。
 日々、山中を飛び回っているのだろう。履き口の長い革靴は傷だらけ、黒地の着物はあちこち継ぎ接ぎがしてあるのを、上手に目立たぬように直してあった。年の頃は数えで十八。すっとした鼻梁、薄い唇、短く切り揃えた髪から覗く形のいい耳。所謂、二枚目ではないが好奇心旺盛な表情が彼を幼くもし、殊更魅力的にも見せている。
 青年の名を、萩(はぎ)、という。
 秋に生まれた幼子に対して、些か安直とも言えるその名は彼が拾われ子であることに由来する。
 萩はその名の通り、萩の茂みにぽつんと置き去りにされていたのを育ての親に拾われた。
 奇しくも紫紅色の花が満開の季節のことである。夫婦は最初こそ戸惑ったものの子がなかったこともあり、萩を本当の息子のように大層可愛がって育ててくれた。薬草の効能、毒茸の見分け方、飲める水のありか、獣の足跡、弓の使い方。あらゆる山で生きる術をその子に託し、また彼もそんな育て親の背を見て育ち、実の親が迎えに来るようなこともなく、今日の今日まで健やかに生きてきた。今やすっかり山の民だ。
 彼は爪先まで土で真っ黒にしながら、熱心に落ち葉をかき分ける。土にまみれた手で額の汗を拭うものだから、顔まで黒くなっているがそんなことお構いなしだ。触覚を研ぎ澄まし、手の平で探る。しばらく静かに表土をまさぐっていると、指先にひやりと濡れた感覚があった。注意深く辺りの葉を除ける。すぐに日の光の元に現れたのは立派な松茸だ。赤松の根元に生えるそれを満足げに取り上げると、萩は手慣れた動作で藤蔓で編んだ籠に入れた。籠には松茸の他にも平茸、香茸の茸類、小さな零余子、木通なども無造作に放り込まれている。朝からかなり歩き回っていたのだろう。背負い式の籠いっぱいになろうかという収穫に萩は満足げに頷いた。

「これだけあれば、ばあちゃんも文句言うまい」

 食べる半分、乾燥茸として売る半分。山の幸で生計を立てる暮らしは楽ではなかったが、生まれてこのかた村の暮らしもましてや都の暮らしなど知る由もない萩にとってはこれが日常であった。日がな一日獣道を歩き、時に今日のように茸や果実を採り、時に毛皮や肉を求めて獣を狩り、時に育て親を手伝って木を倒し、炭を焼く。それが先祖の代から続く、「正しい暮らし」だと教え聞かされてきた。たとえ生みの親ではないとはいえ、物心つく前から育ててもらって今更親でないも何もない。彼にとって過不足ない山の暮らしは不変な世界そのものだ。
 だいぶ重くなった籠を一息で背負いあげる。このまま真っ直ぐ帰っても良かったが、手の汚れだけは洗い流して行くかと慣れ親しんだ獣道を歩く。樹上を栗鼠達が忙しなく駆けていく。秋は過ぎ去っていく季節だ。のんびりしていたらすぐに冬が来てしまう。雪国ほどではないにせよ、この山にも雪は積もる。それまでにやっておかなければならないことは山程あるのだ。
 時折小枝を踏みしめながら歩を進める内に道が開けてくるのがわかった。
 青々とした下草が広がり、狗尾草が揺れ、白い花を散らすは野菊、黄色の連なりは女郎花だ。聞こえてくる水音に耳を澄ます。この辺りは人の手が入っているから大きな獣に遭遇することはまずないが、用心に越したことはなかった。水辺で羆や狼に出会いでもしたら、それこそお互い吃驚するだけでは済まないかもしれない。しばし立ち止まって様子を伺うが、木々のざわめきと水のせせらぎ以外は何も聞こえない。萩は一息つくと、改めて歩みを進めた。
 一際開けた小川の畔は獣道の終着点にもなっていて、清流が多彩な玉砂利を磨くせいで常にきらきらと光っている。人の膝丈ほどしかない川は絶え間なく流れ、銀色の魚が時折激しく身を翻すのが水面からもよく見えた。時々ここで魚も釣るのだが、今日は生憎道具がない。
 萩は籠を下ろすと、片膝をついて手を洗い、両手で水をすくう。冷たさを享受するように勢い良く顔を洗い、犬のように頭を振るうと、ようやく土汚れや汗が落ちて人心地ついた気分だった。

 そして、ふと。

 本当に何気無く辺りを見回した。それは別段、特別な動作ではなかったし、萩自身も意識して行ったわけではなかった。
 ただ、いつものように魚が跳ねる。風が水の匂いを運んで吹き抜ける。
 水飛沫に晒され苔生した岩。白い群集となって咲く虎杖の茂みの向こう。
 対岸にある小さな砂地にその生き物は確かな鼓動と息遣いをもって、いた。
 黄色というには易く、なれば何かと問われれば実りの満ちた稲穂の色とでも言おうか。まず目に飛び込んでくる黄金の毛色は見事という他なく、筆舌に尽くし難い。幾重にも枝分かれした勇ましい角。黒い瞳も鼻も濡れて艶やかにあり、立ち上がった耳は時折何かを捉えたように鋭く動く。長い首、滑らかに続く背。持て余し気味に折られた脚でようやく獣が伏していることに気づく。

「…えっ?」

 しまったと思った時はもう遅かった。人の声を聞き捨てなかった獣はゆるりとその鼻先がこちらに向け、大きな目が逸らさず視線を寄越す。
 思わず声をあげたのは獣のその大きさに、だった。姿形は牡鹿に違いないのだが、通常山間で見かけるそれらよりも明らかに大きい。黒い蹄など大人の手の平の半分もあろうか。それに何より眩いばかりの黄金色、猛々しいまでの角。この山の主だと言われても不思議ではないほど、獣は清浄な空気を纏ってそこにあった。
 しばらく無言で見つめあっていた一人と一匹だが、逃げようとしない獣を不審に思った萩が不躾に見回してまたも気付く。細く長い後ろ足がじっとりと濡れて僅かだが赤く汚れている。傷は深くないようだが、痛みがあるのだろうか。牡鹿は萩の存在に気付いても一向に動こうとしなかった。
 迷ったのは一瞬で、萩は獣を驚かせないようにゆっくりと立ち上がるときょろきょろと辺りを探し始める。しばらく目を凝らして川の周囲を歩き、目的のもの、それは枯れた花をつけた細長い葉で、見つかるとすぐさま二三枚摘んでとって返した。相変わらず鹿はそこにいて、心なしか訝しげに萩を見ている。萩はなるべく静かに川の中に足を踏み入れる。驚いたのは清流を泳ぐ小魚たちばかりで、獣はやはり微動だにしなかった。足を滑らせぬよう慎重に川を渡り切ると彼の横たわる砂地に上陸する。
 間近で見る獣はやはり大きかったが、不思議と威圧感や恐怖はなかった。ただ心の中で逃げるなよ蹴るなよと唱え続けながら、萩は処置にかかる。まず、先程摘んだ葉を手の平で二三回揉むとそれを獣の患部にそっと乗せる。続いて頭に巻いていた布を手早く外すと川の流れで清め、きつく絞って傷口に巻く。恐る恐る触れた毛並みはすべらかで、細い脚はしっかりとした筋肉に覆われていた。鹿は山岳の獣だ。その四つ脚で岩地だろうが急斜面だろうが駆けてゆく。よって健脚でないということは、致命傷にもなり得ることだった。彼はこの傷の具合からして重傷ではないだろうが、大事をとって休んでいるのだろう。そして、きっと萩の行為が己に危害を加えないと理解している。それが証拠に美しい獣は動かない。ただじっと頭上から濡れた眼差しを下ろしている。その様を間近で見ると、ますます妖か神仙の類のようだった。

「これでよしっと」

 数日で自然と外れるように最後は緩く縛り、萩はそっと獣から離れた。最初から最後までおとなしかった牡鹿だが、その後ろ足で蹴られたら萩など一溜まりもないし、勿論その鋭い角で突かれても結果は同じである。来た時同様慎重に川を渡り、元の岸まで戻ると萩は獣の方を向き直り手を合わせて頭を垂れた。あれ程に美しく、賢しい生き物なのだ。本当に山の神様であっても可笑しくはないと思ったのだ。

「神様神様、いつもありがとうございます」

 獣は何も言わない。否、言わないのが正解であるのだから、萩は気にしない。ただ、ふと顔をあげて、自分の手当てした個所を見やる。巻かれた紫苑色の布地は金色の鹿の脚には不釣り合いだった。

「怪我、早く治るといいな。それ、俺もよく使う草だから効くよ」
「………」
「あとはええと…あ、俺は萩!この山にじいちゃんとばあちゃんと住んでます。これからも皆元気で仲良く暮らせますように」

 お祈りしてみたはいいものの特別神様へのお願いごともない萩は適当に言葉を重ねると、今一度一礼して、また籠を背負った。振り返ると相変わらず黒々とした瞳がこちらを見ている。別に恩を売るつもりは毛頭なかったし、そもそも本当に彼が「なにか」出来る神様だと本気で思っているわけではなかった。ただ、なんとなく。なんとなく野の獣を助けただけで、それが殊更美しい生き物だったということで、萩はどこか浮かれた気持ちを抑えられなかった。口の端に笑みを浮かべるとまた軽く礼をして、本当に早くよくなるといいと思いながら、踵を返して獣道を戻る。家に戻ったら鹿にやってしまった巻き布について何と言い訳しようかと考えながら。

 足跡が完全に聞こえなくなると、後に残ったのは変わらず清らかな流れと風の音。

 人の気配がなくなったのをいいことに数羽の小鳥が獣の周囲に舞い降りて来て、賑やかにお喋りを始める。伏した獣は首を伸ばし青年の後ろ姿を見送っていたようだったが、突然すっと呆気なく立ち上がった。木々が鳴る。長い脚から小さな頭まで、全てが露わになる異彩の黄金色。堂々たる巨躯に大樹の如き角を携え、理知的な瞳をわずかに細めると、獣は静かに口を開いた。

「…知ってます」

 秋に咲くその花の名を。他でもない「彼」は知っている。




女郎花の花言葉は、「親切」「忍耐」「約束を守る」


2014.09.15

新しい記事
古い記事

return to page top