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無い物強請りのガールズトーク

 残酷な夢を見ていた。夢は願望を映す鏡と言うが、果たしてそれは真実だろうか。朧げな頭を振る。瞼の奥が酷く重たい。脳髄はどんよりと鈍って、どうも正常に機能する気配はない。
 薄闇の中で安物の時計の秒針の音が規則的に鼓膜に響いている。うるさい。カーテンの隙間から弱く届く太陽光に粗方の時間を推測する。早朝、梅雨の晴れ間、立ち込める湿気。大地と大気にここ数日かけて染み込んだ水気はそう簡単には抜けやしない。
 生乾きのまま寝たせいでうねうねと脈打ち、海藻のごとく広がった髪をかきあげて、彼女はため息をつく。諦念を万感に乗せて。今日も始まる一日への供物だ。

 彼女は陸人魚(おかにんぎょ)である。

 便宜上の名は魚住つづら(うおずみ つづら)。陸人魚とはその名の通り海に帰れなくなった人魚のことを言う。つまるところは妖怪の一種だ。
 帰れない、と言うからには陸人魚はかつては人魚だったものである。現に彼女も歌を歌ったり嵐を呼んだり漁師を海に引きずり込んだりして終わりを知らない日々を面白可笑しく暮らしていた。けれどもある時ほんの些細な切欠で陸にあがってしまったが最後。後は術なく転がるように。
 海にはどうしても入れないのに、いざ乾いてしまったらそれこそ本当にどうにもならないような気がして、身を潜めるように生き延びるために。吉原のお歯黒溝から江戸城千鳥ヶ淵のお堀まで。あらゆる湿気を求めてナメクジのように移動するうちにこんなところまで来てしまった。
 今やつづらは人魚としての自分よりもこうして人間っぽいなにかに擬態している自分の方がしっくりくるようになった。湿度が高くなければ人の姿をとれるようになったのも遠い昔のことように思える。潮の香りもエラ呼吸もただ懐かしいだけの感覚。酸素を求めて口をパクつかせる金魚を憐れと思うほど、彼女は人に馴染んでいた。
 そしてそれは陸人魚に成り果てたかつての人魚の多くが辿る道でもある。

 未だぼんやりした頭で今日の段取りを復習する。午前六時十三分。洗顔、朝ご飯、歯磨き、化粧、着替え、ストッキングの穴あきチェック、新聞、ハイヒール、水たまり。
 その全てが相応に面倒臭いことを再認識して、つづらはため息をつく。働かざる陸人魚食うべからず。他の多くの人の世に紛れる妖怪たち同様、つづらも協会の一助を得て極一般的な仕事についている。所謂、OLとでも言うのだろうか。兎角、人間的に生きるには通貨と世間体が欠かせない。そしてそれらは大抵職に就くことで得ることができる。だからこそ彷徨う妖怪はさて人間らしく生きましょうとなったとき、協会のお世話になる。
 妖怪たちに「協会」と呼ばれる組織の全容をつづらは知らない。恐らく大多数の妖怪も知らないだろう。協会は常にそこにあってほぼなんの見返りもなく路頭に迷う妖怪たちの補助をする。それに深い疑問を突きつける者も意義を疑う者もほとんどいない。妖怪の、妖怪による、妖怪のための組織。それが協会であり、それ以上でも以下でもない。そして、その存在そのものをあるがままに受け入れなくてはならない。

「ああ頭痛ぇ……ん?早いね」

 遠くで水を流す音が聞こえたと思ったら、ふらつく足取りで一人の女性が六畳間に現れた。切りそろえたショートカットに少しつり上がった瞳。細い眉、薄い唇。女性的なふくよかさに些か欠けるがスレンダーな肢体を晒した女性は西加仁子(さいか にこ)。つづらの同居人であり、生まれながらに化け蟹という妖怪であるにも関わらず人間に紛れて暮らす一匹である。

 二人は正直言って全く性質が異なるといっても相違ない。
 片や事故的な境遇で人として生きるしかなかったもの。
 片やその好奇心と蛮勇が災いして人として生きてみているもの。
 片や妖怪として未だ圧倒的な力と名声を誇るが、人としての地位は底辺に近いもの。
 片や妖怪としては「若干、丈夫」という冴えない特徴ながら、人としては確立した地位を得たもの。

 様々な状況を鑑みても、精々怠惰で異性に興味がないという二点を除いては大凡気の合うところはない。ただ、逆に言ってしまえば、その二点こそが二人を辛うじてこの305号室へと一緒に住まわせているのかもしれない。
 似子が六畳間に直接敷いたマットレスの上にふらりと倒れ伏す。弾みできらきら光る埃と共につづらの体は小さく跳ね上がった。肘で上半身を軽く起き上がらせていたために少しバランスを崩す。傾いた横目で伺う彼女の顔色が悪い。恐らく二日酔いだろう。周囲には微かにアルコールの饐えた残り香がある。

「飲み過ぎ。会社行けるの」
「…何言ってんの?」
「なにが?」
「今日、祝日。あんたんとこ暦通りでしょうが」

 休みよ休み、とひらひら片手だけ降って布団に突っ伏す仁子を尻目にばっと暦を仰ぎ見る。いつからそこにあるのかわからない錆び付いた釘にひっかかった近所の酒店の暦表は確かに祝日の朱色を示していた。今日は何の日、海の日だ。

「本当だ」
「嘘言ってどうすんの」
「海の日ってなんで休みなの?」
「人間の決めた休日の理由なんて知るわけな……ヴっ」

 それまで調子よく喋っていた仁子が突如声を詰まらせる。強くなったアルコール臭と腐敗臭につづらは眉をひそめた。彼女の深酒癖に関してだけは本当に心の底から理解できない。最終的なツケは全て自分に回ってくるというのに、苦しむことは自明の理というのに、どうして彼女は際限なく飲んで飲んで飲み続けるのだろうか。そして律儀にこの部屋まで帰ってくるのか。

「ここで吐かないでよ」

 だからこそ冷たく言い放ったのだが、返事はなかった。背を丸め、ぶるぶると震える彼女は限界なのだろう。恐らく人の姿を保ってはいられまい。
 つづらの予想通り、唐突に女の肢体は目の前で徐々に形状を変えだした。
 赤緑色の硬質な皮膚。鱗とも異なるすべすべしたそれが女の腕を、背中を侵食するように覆い、指先は集約されて一筋の爪となる。肋骨が割れたような音がして、女の横腹から同様の脚が飛び出す。瞳は落ち窪み、やがて飛び出し、着ていた服は中身の変化に伴いずるりと落ちた。
 かくしてものの数分もしないうちに、そこには一匹の蟹がいた。畳一畳分はあろうかという巨大な化け蟹の重量を受けて、変形しそうな勢いでマットレスが沈み込む。蟹は嘔吐の代わりに無言でぶくぶくと白い泡を口元にまとわせた。
 途端に潮の香りがより色濃く室内に満ち満ちて、つづらは小鼻をひくつかせた。それは清潔で乾燥した地上三階のアパートメントに不釣合いな匂いだった。海の気配。人魚があるべき場所であり、陸人魚が追いやられた不滅の母なるもの。鼻腔の奥がツンと湿ったような気がして、つづらは手の甲でまぶたを擦った。否が応でも迫ってくる海の匂いは仁子といる限り切っても切れないものだ。否、だからこそつづらは仁子と一緒に暮らしているのかも知れない。もう戻れないとわかっている彼方への羨望。それは情愛にも似て、人魚をずるずると蟹にすり寄せる。

『………吐いてないわよ』
「…泡なら一緒。シーツ洗わなきゃ」

 わざとらしくため息をついてつづらは蟹へともたれかかる。すべすべした甲殻の触覚が皮膚を通じて全身へ伝わる。海海海、海海海海海。愛しいようで遠すぎて、よくわからない。つづらは海を憎んでいるのかもしれない。自分を拒絶した海に。けれども同時にとても愛しているのかもしれない。蟹の甲羅にすがるくらいに。
 ふと無性に潮の香りを口に含んでみたくなって、おもむろに彼女は蟹の脚に手を伸ばした。ぱきっと軽い音がして、甲殻類の脚が一本、つづらの華奢な手に握られていた。手慣れた動作で殻を剥く。汁気の滴る生身の肉を舌の上に乗せると塩分と旨味が口中に広がった。搾り取るように啜る。喉奥から胃へと落ちるその身はまるで甘露のようだ。

『気軽に人の脚むしんないでくれる』

 くぐもった蟹の声。
 そこには怒りの感情はなくどちらかと言えば空虚な熱情のようなものがあった。人魚の食性を半ば呆れて、諦めている。それに生命維持ではない食には常に快楽が伴うように、ひょっとしたら生命危機のない被食にも快楽が伴うのかもしれなかった。それはまったく表情のない蟹の身からは窺い知れぬ話なので、ただのつづらの妄想かもしれないのだけれど。そういえば人の姿の仁子の脚をむしったらどうなるのだろうとふと思う。流れる血は赤いのか。

『つづら、』
「洗濯なら私がやるから」
『そういう問題じゃないでしょ』
「ごめん、仁子」
『…あんたねえ…』

 蟹の身を食らう時、それは仁子を食らっていることと同義なのかと考える。化け蟹の女と陸人魚の女。彼女らは何の因果か陸上で出会い、そして今日も。二人で暮らしている。
 全く、とため息ひとつと一緒に呟いて仁子が人の姿をとる。その両腕はしっかりと二本。質量保存の法則に反すると囀れば、彼女は強かに笑うだろう。存在する女の腕をじっと見つめる陸人魚の瞳。時々しか現れない失った故郷の、深い水底の真っ青な水晶。

「私、蟹になりたかった」
「あたしは人魚がよかったけど」

 だって自由じゃない。

 声にならない声は泡音に巻き込まれてすぐに消えた。
 窓の外には光が溢れ始めている。恐らく今日も何もない、いつもどおりの今日が始まる。恐いぐらい当たり前の今日と明日が。無い物強請りの女二人を飲み込んで。


2013.08.22

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