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麦踏みのニーチェ

 煤けた青色が空一面に広がっていた。
 晴れでもなく曇りでもない。中途半端な空模様が生ぬるい風を運んできては彼女の髪を徒に乱す。衣替え間近。黒のセーラー服に白いリボンタイ、紺のハイソックスにローファーを履いた未草麦(ひつじぐさ むぎ)は私立或ヶ丘女子高等学校の二年生であり、世間への反目者である。否、それには多少の語弊がある。正確には彼女は非常に個人的な世間への反目者であり、要するに女子高生というこの世代の少女(特に私立の女子高に通いながら図書館で本の匂いに埋もれることを至高とするような)など一般的に皆が反逆者であると言っていいだろう。つまりは思春期であり、つまりは第二次反抗期であり、つまりは大人への階段を登る途中の「少女」たちは誰もが現実逃避の手段を考え、登下校中の物思いに没頭している。少なくとも麦は歩きながら読書をする行為に挫折して以来、ずっとそうしていた。それは勿論、今日というこの日も変わらない。

 この国はちょっと変わっている。

 変わっているというからには即ち他の国と比較してということだ。しかし、この比較といった行為が出来るようになったのも此処数十年の話で、それまでこの国は鎖国をしていた。つまり、周囲全てを海に囲まれていながら全ての外洋を閉ざすことで絶対の孤立を保持したのだ。当時、他国は大きな力―大きな船や大きな砲台や卓越した航海の技術―を持ってこの国の扉を叩きに来たのだけれど、その全てをこの国は撥ね退けた。どうしてそんなことが出来たのか。それは即ち二柱の龍神がこの国を守護していたからである。
 白龍神と黒龍神。二柱の神は想像上の存在でも宗教上の象徴でもない。確かにこの国に実在している。かくいう麦も帝都の中心部に座する龍神を見に当時健在だった祖母と出かけたことがあった。皐月の終わりに国に雨を呼ぶ為に高らかに天を舞う陰陽の龍の姿はそれはそれは美しく、帰り際に「神様の背中に乗る!」と駄々をこねて祖母を困らせたのも良い思い出である。
 要するにこの国は他の国が『遥か昔に忘れてきてしまったモノたち』と同居する世界で唯一の国なのである。というか人々が全く意識することなく送っていた当たり前の日常が、いつの間にか他にとって奇妙で貴重な事象に変わっていてしまっていたのである。
 ずっと閉ざされていた国交が再び開かれた時どっと押し寄せた外来の文化は一部は取り込まれ、一部は拒絶され、つまりは元の姿を残しながらこの国は相変わらず存在している。道を歩けば猫又とすれ違い、北の大地にはコロポックルと共に森で暮らす人々がおり、山を大口と恐れられる獣の神が駆け、稲荷の社には大晦日ともなれば数百の狐火が灯る。八百八町に八百万。帝都を中心に北は蝦夷から南は琉球に至るまで。とかくこの国は神様だらけ、妖怪だらけ。人は人という名の一種でしかなく、猫、狐、狸、山神、天狗、人魚に河童、雪女。最近では近代化著しい海の向こうの国からもこれは良いといって移住するモノが後を絶たないといった始末。
 やれやれ、である。否、別に麦がやれやれなどと勿体ぶって言う必要は全くと言っていいほどない。何しろ彼女は無味無力天下御免の女子高生であって、それ以上でも以下でもないのだ。敢えて何か特筆して自分の特徴的な部分をあげろと言われるならば、恐らく十秒ほどじっくり考えてこう答えるであろうという程度の平凡な少女なのだ。

「家族はお母さんと土蜘蛛の八蘇(やそ)」

 彼女が物心ついたときすでに父親はいなかった。代わりに彼女の側に何時もいたのが土蜘蛛の八蘇だ。
土蜘蛛はこの国では割とよく知られた妖怪で要するに巨大な蜘蛛である。かつては人をよく喰らいその腹を裂けば千を超す頭蓋骨が転がり出たとか言われているが、八蘇からは麦の記憶にある限り血生臭い印象を受けたことはない。てらてらと光る複眼と毛むくじゃらの八本の脚。軽く牛以上もある巨体を持ちながらも軽い音をさせて畳の上を行き来する八蘇の存在は麦にとって至って日常のものである。だが、知る限り、土蜘蛛と一緒に暮らしている友人はいなく、また父親のいない友人も極僅かであるため、麦は何時も散々に迷った末にそう答えることにしている。

「ただいまーっと」

 学校から約十五分。思索の時間を終えてがらがらと引き戸を開けて玄関をくぐると埃の匂いが鼻をついた。築五十年を悠に超す平屋の民家はあちこちガタがきており、時折みしみしと家鳴りを響かせる。一時は妖怪が悪さをしているかと疑ったこともあったが、冷静に考えてみれば土蜘蛛なんていう「おっかない」妖怪がいる家に「家鳴」なんてものは住みつかないだろうと思い当たりそれ以降は単純に家の古さのせいと割り切っている。
 板張りの床を歩きながらハイソックスを片足ずつ脱ぐ。足裏に伝わる温度がひんやりと心地良い。薄暗い廊下の奥を危なげなく見遣りながら麦は通りすがりの洗面所で洗濯機の中に紺色のぐしゃぐしゃを放り込み、左手にある引き戸をほぼ同時に開けた。

「おかえり、麦」

 出迎えたのは複眼であり温度のない八本の脚でありかさかさとした乾いた音である。天井に張り付いている八蘇を見上げて麦は片手をあげる。簡素なジェスチャーにも長年の付き合いで慣れた八蘇は口と思しき幾つもの角をざわざわと蠢かせてみせた。それを不気味と思う感性を麦は持ち合わせていない。
 部屋は冷蔵庫とシンクとずいぶん年季の入った食器棚と脚の長いテーブルという所謂台所であり、果実や玉葱やカレー粉や色んな匂いがいっぺんに麦の鼻をくすぐった。母子二人の生活を一手に担う彼女の母親は夕飯時も不在であることが多い。よって必然的に麦は自分で食べたいものは自分で食べるようになっていた。母親は帰宅した時に台所に残っているものを適当に食べたり、場合によっては外食したりする。朝には二人揃って食事をとり会話をする。それが未草家の暗黙のルールである。

「お腹減ったお腹減ったー何かあったっけ?」
「昨日作ったミートボール、まだ残ってるよ」
「そっか、お母さん食べなかったっけ。じゃあ、これ温めてーレタス洗ってーあと、ツナ缶!」
「納豆は食べないの?」
「食べる!ひきわりィ」

 トマトソースのミートボールにひきわり納豆は食べ合わせが悪くなかろうかというような人は此処には誰もいない。
 麦は慣れた手つきでガスコンロに火を入れて鍋をかけると冷蔵庫からレタスを取り出しじゃぶじゃぶ洗い出す。鼻歌なんて歌いながら皿にざっくりのせて、シンクの下からツナ缶を一つ。缶切りでキコキコとリズミカルに開けてレタスの上に缶をひっくり返して全部のせた。量多くない、という八蘇の声は無視した。そうこうしているうちに鍋からはトマトとコンソメの良いにおいが漂い始め、火を止めるとぐつぐと真っ赤に煮え立ったスープと肉を皿に思い切り盛り付ける。ご飯は冷蔵庫から取り出したままの冷ご飯だが何も問題はないだろう。ひきわり納豆は恭しく器に残った一食分を取り出して、辛子と醤油をスタンバイ。さあ、夕食の用意は整った。ここまで制服のままだが、麦は気にしない。それより何より空腹は勝る。

「いただきます!」
「召し上がれ」

 何もしない癖に相の手を入れる土蜘蛛の姿に似合わず少年のような声を耳にしながら麦は箸を動かすことに集中する。納豆はよく混ぜて辛子と醤油を投入した後、更に混ぜて少しずつご飯の上にとって食べるのが麦流である。ミートボールはさすが二日目の旨味というか味がよく染みて美味しい。ビー玉大の挽肉の塊りは噛み千切ると肉汁がじゅわと口中に広がり、トマトの酸味が後から追いかけてくる。ツナにはマヨネーズ、油と油のコンビネーションを存分に楽しんだ後はレタスの水気が実に心地よかった。

「私、現代っ子で良かったー」
「そんなに美味しいの?」
「あげないわよ」
「いらないよ、僕の味覚は人間の味覚にはあわないよ、きっと」

 だからって人間は食べないけど、と言い置いて脚を忙しなく動かす土蜘蛛に麦はうんざりと箸を咥える。お行儀が悪いことはわかっているが誰も見ていないとわかるとついやってしまう麦の癖である。真っ黒な少女の髪が肩口で流行りの花の香をまとって揺れた。

「一緒に住んでる人のこと食べるとか言わないでよね」
「しょうがないじゃない。だって昔は餌だったんだから。麦だって豚も鶏も食べるだろう?」
「でも私、豚とも鶏とも暮らしたことないし」
「だったら僕も人間とじゃなくて、麦と麻子(あさこ)と暮らしてるよ」

 そう言って何故か偉そうに胸を張った(ように見えた)妖怪がまるで幼い子供に見えて麦はため息をついた。
 麦は恐らく成長している。小さな小さな子供だったころから確実に何かを踏み越えて、何かを踏みつぶして、女へと続く階段を上っている。それは嫌が応に関わらず。そういう風に出来ているから。うんざりなことだがそれから逃れることはできないのだ、人間のメスに生まれた以上は。早い段階でそれを自覚した麦は一応のところ抗いながらも抵抗する力が弱いのだろう。踏みだした一歩が思ったより大きくて我ながら吃驚することさえある。
 しかし、それとは反比例するように八蘇は変わらない。昔から八蘇は八蘇であり、子供であり大人であり、そして子供でもなく大人でもない。妖怪だから当然と言えば当然で、生きる時間の軸が違うのだから当然と言えば当然で。でもやっぱりその差異が時々わからなくなる。あまりに毎日一緒にいるせいか、八蘇という存在を勘違いしてしまう。たとえば、自分を「わかってくれる」のではないかと。一番の理解者なのではないかと。

 まあ、そんなことはどうあったって有り得ないのだけれど。

 麦はミートボールに箸をぶっ刺し、口に放り込みながら八蘇を見上げる。複眼は相変わらず感情を映さないままそこにあって、巨体は重力に逆らうように天井に張り付いている。そういえばこの妖怪がいるせいで台所の空気は何だか何時も灰色に似ている。むいーんと小さな羽虫のような冷蔵庫の電子音。

「八蘇、」
「なに」
「私ってば何時か結婚するのかな」
「麻子も芳(よし)もおいねもしてたよ。だから麦もするんじゃない?」
「そういうもの?」
「人間は繰り返すの大好きでしょ」
「…ってことは私もまた戻ってくるの」
「そうなんじゃない?可愛い、女の子と」

 八蘇が可愛い、と言ったのが何故か無性にねっとりと聞こえて麦は思わず身震いを隠した。その感覚を打ち消すようによくねばついた納豆を口の中に書き込む。強い発酵の匂いが鼻腔を埋め尽くしたが、八蘇の気配は真上から消えてくれない。実際にいるのだから当たり前だが。

 曾祖母のおいねは一度は未草の姓を捨て、職人の夫との間に娘を設けた。だが、男はまもなく死んだ。全身を八つ裂きにされた遺体は密やかに埋葬された。曾祖母はやがてこの家に戻った。

 祖母の芳もやはり未草の姓を捨て惚れた男の元に嫁いだ。だが、一人娘が生まれて間もなく夫は死んだ。路上で見つかった遺体には無数の切り傷があった。間もなく祖母はこの家に戻った。

 母である麻子も当然のように男の元へと嫁いで未草の姓を捨てた。彼女の夫―つまり麦の父親は家の中で死んだ。

 噎せ返る血の匂い。覚えているのはほんの僅かなことだけ。からからと鳴る電々太鼓。毛むくじゃらの脚。底光りする複眼。土の香り。優しい声。蠢く角。だいじょうぶだよ、と意味などわからないはずなのに聞き取れた。まだ幼い、純白の魂にそうやって声は刷り込みを行う。未草の家に戻ってくるように。この、一匹の土蜘蛛が住まう家へ。

「お腹いっぱいになった?」
「うん」
「そっか」
「ねぇ、八蘇」
「なに?」

 麦の家族は母一人、土蜘蛛一人。
 それはそれは、昔から。

「私、早く結婚するよ」
「うん」

 そして、早く戻ってくるのだ。此処に。この、蜘蛛が住まう未草の家に。


2011.05.19

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