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溝より内にて世はすべて

 じりじりと焼けつくような暑さもようやく少しはやわらいでこようかという夕暮れ時。裏吉原では仕事始めに備え、そこかしこから三味線の音がちらほらと聞こえ、文を抱いた禿が早足で姐さんの元へと急げば、若い衆は見世から飛び出して引手茶屋へと駆けていく。昼間とは違うどこか落ち着かない空気がゆるりと蔓延し始めていた。まだ蝉の鳴き声も旺盛だが、やがて日暮れとともになりをひそめるだろう。そうなれば町中の行灯に火は灯り、辺り一帯を占めるのは弦を弾く音。格子の向こう側では絢爛な衣装を身にまとった女郎が並び、重たい裾を引きずった彼女らは勿体ぶった仕草で煙管から細い煙を燻らせては客を誘う。大門は華々しく開かれ、金銀は乱れ飛び、酒と肴は舞い踊る。裏吉原の本懐にして本性。狂乱に満ちた熱気が昼をかき分けるようにしてやって来ようとしていた。
 とはいえ、女郎相手に商売をしている者にとっては彼女らが本業をしている最中は当然しばしの休みとなる。小間物屋、呉服屋、文使い、貸本屋、卵売り、それに髪結い。吉原に数多住まう商売人たちは店仕舞いの気配を察知して、素早く人波をすり抜けて家路へと急ぐ。
 かくいう髑髏も一仕事終えて、ちょうど妓楼から出てきたところだった。片手に道具箱を提げ、まだ強い日差しを手で作った庇の下から白眼のないまなこで睨む。短く刈り込んだ漆黒の髪に屈強な体付き。強面なせいで禿たちにことごとく恐れられるのが目下の悩みではあるが、確かな腕と良心的な価格が幸いして仕事の依頼が途切れることはなかった。
 お天道様を睨みつけるという不毛な行為を止め、ふらりと歩を進めながらさてどうしようかと思案する。吉原の商売人の例に漏れず髑髏も先程の客で今日の仕事は仕舞いだった。普段ならすぐに己の長屋に戻って道具を片付けたあと、揚屋町にある万年診療所に向かうところだが、今日はどうも小腹が空いて仕方がない。腹が減っては戦もできぬ、と昔の武人も言っていた。いや、髑髏は武人でもましてや人間でもないが。
 そんな詮ないことを考えているうちにどこからともなく漂ってくる香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。そこは仲の町から一本裏手に入った角町の通り。長屋と長屋の合間に設けられた井戸の前、少しだけ土地が開けた場所に白い暖簾を下げた大ぶりの屋台が止まっていた。「天麩羅」と堂々書かれた文字の向こうからはぱちぱちと油のはぜる音が絶え間なく響いている。西日を避けるように建物の影にひそりと構えているせいか客は一人もおらず、足を止める者もいない。だが、店主はそんなこと気にも留めていないのか、紙を敷いた大ざるには次から次へと白い衣をまとった具材が並んでいった。今が旬の鱚、蛸、烏賊、芝海老、穴子、青柳。新鮮な魚貝の数々がからからと軽い音をたてながら山と盛られていく様を見て、思わず腹の虫が鳴くのを抑えられようはずもない。
「親父さん、烏賊、鱚…あと青柳」
 心持ち急いた足運びで屋台の奥に声をかければ、天つゆの入った器と長い串が無造作に差し出された。懐から取り出した銭と交換に受け取った串を危なげなく繰って早速衣をまとっていてもわかる烏賊の白い身を刺す。さくっとした衣と程よい弾力。素早くつゆにくぐらせれば、透き通った褐色の液体に油の玉が幾つも浮かぶ。汁が垂れぬよう素早く口に入れると、味醂と醤油の塩気、まだ軽やかさを残した衣、奥から現れる熱々の烏賊の旨味と食感が瞬間的に舌の上へと広がっていく。
「うっま…!」
「親父ぃ、穴子三本揚げてくれ」
「あいよ」
「ひ、姫さん!?」
 思わず大声をあげてしまったのは、いつの間にか気配なく隣に誰かがいたことよりもその相手が顔見知りだったことが原因だ。烏賊を飲み込んでしまった文句を言うことすら忘れて、その横顔をぽかんと見遣る。一度見たら忘れようもない稲穂の色をした長い髪に鮮やかな浅葱色が一房二房と混じり、日に焼けたことのないような白い肌、通った鼻梁にすっと引かれた柳眉。目つきはお世辞にもいいとはいえないが、はめ込まれた瞳は吸い込まれそうなほどに甘ったるい飴色をしている。裏吉原一の大見世芦屋の次代として切望されながら自堕落の限りを尽くし穀潰しと呼ばれてなお泰然と座布団の上にふんぞり返って憚らない生まれながらの若旦那。善知鳥蛭姫は手にした組紐で別段自慢でもないらしい目立つ髪を素早く括るとこちらを見もせずに、よう髑髏と気安く人の名前を呼んでみせた。
 その長い指がどこから取り出したのか漆塗りの重箱のふたを恭しく開ける。中に詰まっていたのは照り返す白色も眩しい飯だ。そう白飯持参で天麩羅屋に来る野郎がやることは一つしかない。
「まさか天重…!?」
「他に何があるの」
「いやいや、姫さん…ただでさえ大見世の若旦那が屋台に天麩羅食いに来るってだけで相当なのに天重…?」
 よくししゃも姐さんが許してくれたなあと芦屋の台所を守る専属料理人の名を出しつつ続ければ、若旦那は平然と飯くれたのししゃもと言った。ああ、そうだ。あの小さい姐御も大概この男に甘いのだった。穀潰しだの親の七光りだの油売りの権化だの言われようともどこか人を惹きつける不可思議な魅力が確かに彼にはあった。それは母である善知鳥蛭妃、淡子姉妹の威光とも違う。いつまでも子供のように奔放で美味いものにとことん目がなく、愉快なことが大好きで、道楽にかけては一切の手を抜かない。憎めない彼の性質そのものを羨み、惹かれる物の怪たちが一定の数いることもまた確か。そして髑髏もやはりその例に漏れず、彼との付き合いを続けている妖怪の一匹に過ぎないのだけど。
 箸を握りしめながら穴子が揚げられている油鍋をわくわくと見つめる男の横顔を見れば苦笑しか出てこない。けれどもそれは決して嫌悪や憎悪などから来るものではなくて、言わば子供を見守る親のような気持ちに最も近いのかもしれなかった。
 油の跳ねる音を聞きながら食事を再開する。鱚の身は柔らかで串で扱うにはこつがいるが、髑髏にとっては日常の所作に過ぎない。難なく目当ての白身を口の中に放り込めば、口内に広がる淡泊な味わいにつゆを吸った衣が絡み合う。
「そういや姫さんが真夏に出歩くなんて珍しいな」
 毎年ほとんど溶けてるみてえなもんだろと無遠慮に言う髑髏に特に気分を害したふうもなく、芦屋の姫様は鷹揚に頷いた。
「昼間かき氷食い過ぎて冷えた」
「おい」
「訊いたら今日の夕餉は素麺だっていうし、余計冷えるだろう?だから出てきた」
「さすが芦屋だな…」
 ありとあらゆる贅を甘受できる街、吉原でも夏の氷は貴重だ。冬の間に作っておいた氷を氷室に入れて大切に保存するか、山奥の万年氷を切り出しに行くかしない限り、それを入手する術はない。ゆえにこの季節の冷たいものは非常に珍重されるのだが、身体が冷えるほどかき氷が作れるとなると、どうやら芦屋には豊富に氷の蓄えがあるようだ。
 すると髑髏の考えを見透かしたように蛭姫が首を振る。尻尾のように伸びた長い髪がぱたぱたと彼の着た着流しの背中に咲く睡蓮を叩いた。
「うちの氷室は雪女がいるんだ。だから夏でも氷作り放題」
「は?」
「でもあいつすぐ怒るんだよ。昨日も今日もかき氷用の氷、こっそり持ち出そうとしたら鬼みたいな顔で追いかけてくんの」
「…そりゃ勝手に持ち出す方が悪ぃだろ」
 骸塚髑髏は追求を放棄した。古今東西、雪女を氷室に据えて冷蔵設備にするなど聞いたことがない。そもそも雪女とは愛情深いと同時にひどく冷酷で、本来なら雪深い北の山中にひっそりと居を構えて人とも妖とも交わらずに生きていくものだ。無論、例外的に人と関係を持つ者もいなくはないが、それにしたって妓楼の氷室に雪女。
 髑髏は想像してみる。薄暗い地下には最低限の明かりとわずかな空気孔から行き来する風の音しかせず、そんな陰気くさい場所の片隅にござを敷いて座す美しい女が一人、凍えるような冷気を発し続けている。春も夏も関係ない。諾々と氷室を冷やす女の身体はまるで自身が氷であるかのように冷たく、女の白い指先が触れたが最後、万物は凍りつき、人間は魂を吸い取られてしまう。
「完全に怪談じゃねえか…」
「へえ、穴子お待ち」
 髑髏の独り言に天麩羅屋の親父の声がかぶさる。菜箸が三往復して蛭姫が持参した重箱は立派な穴子天が山盛りとなった天重へとあっという間に変貌を遂げる。そこへ天つゆをどばっと景気よくかけ、礼儀正しく両手を合わせると、朱塗りの箸の先は慎ましくふっくらと火の通った穴子の身を割り裂いた。しかし、丁寧なのは最初だけで続いて大胆に穴子が飯とともに彼の口の中にかっ込まれていく様は何度見ても清々しい。まあなんとも美味そうに飯を食う男だと髑髏が改めて感心していると、怪談て言うけどなあと人に見つめられることに慣れた姫様が口いっぱいに頬張りながら言う。正確には明確な発音は出来ていなかったが、長年の付き合いからどうにか聞き取った髑髏がそれでも意味がわからず首を傾げると、彼は箸の先でびっと暖簾の奥を指してみせる。
 そこには屋台から少し離れ、人心地ついた様子で煙草に火を点ける親父さんがいた。宵闇にゆるりと立ち昇る紫煙、煙を食むその顔に表情はない。表情どころか目も眉も鼻も口すらもない。つるりとした卵のような面立ちは辻で人を脅かしたらこの国一番の妖怪。
「のっぺらぼうだったのか!?」
「へえ」
「むしろなんで気が付かないのさ」
 そう言われてしまえば返しようもない。妖のための、妖による、妖の廓。それが裏吉原。行く人も来る人も決して人とは限らない。そんな場所で格式張った常識を語るのは無意味ということだろう。永遠に続く物の怪の世で今日も巡る平凡な日々。それは別段誰かのためでも、どこかへ向かうために続いているのでもない。この緩やかな停滞を続けていくために彼の母たちは命を賭した。ただ、それだけのために今日も裏吉原に火が灯るのだ。
 どこかから少し気の早い清掻きの音色が聞こえ始める。飯食う姫様は相変わらず咀嚼を続けながら、酒が欲しいなあと呑気に呟いた。


2016.08.14

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