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淡々日記〜東西付喪神絵巻〜

 今年は空梅雨でろくすっぽ雨も降らぬまま、季節は移ろってしまった。
 気温の右肩上がりの勢いは凄まじく、いつの間にか現れたけたたましい蝉の鳴き声とともになだれ込むように盛夏へと突入した。廓をぐるりと囲む高い塀の向こうに広がった田園では例年なら力強く青々と茂る稲の様子が見られるはずだが、今年は痩せた苗がわずかな風に力なくそよいでいるだけ。仲の町の通りは常に白茶けた砂埃で霞み、瓦屋根はぎらぎらと鋭い日差しを照り返し、時折そよと頬に触れる空気は嫌気が差すほど熱を含んでいた。
 裏吉原一の大店、芦屋の誇る庭園に生え揃う草木も軒並み暑さによってうなだれている。威勢がよいのは太い幹に数多の蝉をたからせてもびくともしない欅の大木と東屋に絡みついた凌霄花ぐらいで、こぼれるように幾つも咲く鮮やかな橙色は芦屋のどこからでもよく目に留まった。それは当然芦屋の母屋ともいうべき妓楼の二階部屋からも例外ではないのだけれど、生憎部屋の主である女に今花を愛でるような余裕はない。
「暑い…」
 磨き抜かれた杉の柱と松が描かれた襖で仕切られた十畳間には蒔絵を施した金具箪笥に布を掛けた鏡台、琴、煙草盆、火の消えた行灯などが整然と並び、衣紋掛けには煌びやかな刺繍で鳳凰を描いた打掛が悠々と舞っている。この吉原で隆盛を誇る妓楼の頂点に君臨する花魁に相応しい部屋のほぼ中央で、脇息に寄りかかって萎れていたのは金色の髪を揺蕩う夜明けの海原のように広げた女だ。
 髪結いは夕暮れ前に来る予定なのだろうか。長く伸びた髪を鬱陶しそうにかきあげる仕草は気怠げで、真珠色の形よい爪が添えられた指は雪のように白い。彫りの深い顔立ちは彼女の出自である遠い異国を色濃く思わせる。眉も睫毛も輝く黄金の色合いを宿し、眼窩にはめ込まれた宝石は深い海の色を忠実に写し取っていた。凹凸のはっきりした肢体を包むのは紺の絽地に二枚貝や巻き貝、海草を加えて意匠化した海松貝の刺繍が施された打掛。銀糸で流水紋が施された帯は緩く腰の辺りに絡みついていた。
 淡海太夫(あわうみだゆう)。それが彼女がここ芦屋で生きていくために名乗る名。本当の名はほとんどもう呼ぶ者もいない。けれど、かつてともに戦場を駆けた同志が付けてくれた名も彼女にとってはまた愛おしいものに違いない。
 角屋敷綺麗子(すみやしききれいこ)。遠い異国で打たれ、英雄によって振るわれ、やがて魂を宿し、なんの因果ゆえか海を渡ってこの小さな島国に流れ着いた西洋剣の精霊、それが彼女。この国では彼女のような存在を付喪神ともいって、それなりに認知された存在だと知ったときの驚きを昨日のことのように思い出す。
 そんな「物の怪」の一員となって一体どれほどの時が流れたのだろうか。途方もない日々のようにも、まるで光陰のように一瞬だったような気もする。人と違って器物の化身である彼女にとって時間の感覚はひどく希薄なものだ。ただ、絶え間なく変化する周囲の環境だけが彼女に時間の経過を感じさせた。このマヨイガが「彼女ら」によって作り上げられたのは一体いつのことだったろう。百年、二百年、またはもっと昔だったろうか。
 簾越しに聞こえてくる蝉の声は記憶を霧散させる力を持っているようだった。
 九つの鐘が鳴ったばかりの日差しは高く、夏は一向にその猛威の手を緩めるつもりはない。暑い。それ以外の思考を許さない気温と湿度の暴力。たとえ鉄の塊だろうとこれは溶ける、と金色の髪が更に無惨に散らばったときだった。
「姉様、いらっしゃいますか?」
 襖を開く音と一緒に白い素足が畳を踏む。薄い浅黄色の紗には色とりどりの朝顔が描かれ、見上げれば柔和な笑みと目が合った。
 ぬばたまの黒色をした髪をきっちりと結い上げて櫛簪を挿し、丸みを帯びたまなこに優しげに引かれた眉。にこやかな形を滅多に崩すことのない顔立ちは迫力の美人というよりかはお育ちのいい器量よしだ。
 綺麗子とは真逆の印象を受ける彼女の名は淡路太夫(あわじだゆう)、本来の名は角屋敷可愛子(すみやしきかわいこ)。元々綺麗子と契りを交わした義姉妹であり、芦屋においてもともに花魁の地位を守る姉妹女郎の関係だ。そんな彼女の本性は何を隠そう刀の付喪神。国の東西は違えども、人の武器として作られ、存分に振るわれたのちに自我を得た存在として、二人は深い絆で結ばれていた。
「かき氷、お食べになりますか?」
「可愛子…あんたって子はなんてできた妹なの…」
 そんな大袈裟なと小さく笑いながら姉の傍に膝をつくと、妹は手にしていた盆を畳の上に下ろした。襖を両手で閉める所作も実に如才なかったが、姉はすでにそんな妹の仕草に着目してはいない。碧眼は一心に二つ並んだギヤマンの皿に注がれている。一つはほのかな砂糖の甘味が嬉しいみぞれ、一つは甘く炊いた小豆がたっぷりのった金時。
「私、金時!」
「姉様、お好きですものね」
「あんたはみぞれでいいの?」
「はい。わたくし、みぞれ大好きです」
 手に取った器は氷の冷たさを吸い取って指先が痺れるほどに冷たい。竹を削った匙をさし、一口すくって口に入れれば、ひやっとした冷気がすぐに唇から舌までを支配した。まるでそこだけ真冬がやって来たような心地に綺麗子は身を捩る。続けて餡子を口に含めば少しだけぬるい舌ざわりと甘さが存分に幸福感を満たしてくれた。
「ああ、生き返る…」
「それはよかったです」
「危うく鉄の塊に戻るとこだったよ」
「それは大事ですわ」
「人の身ってやつは面倒だよねえ。夏は暑いし、冬は寒い」
「でも、それゆえ楽しいこともございますでしょう?」
 何よりわたくしは姉様にお会いできましたし、とそうにっこり笑って可愛子は氷を口に含む。妹のこういうところに慣れたつもりではあるのだが、不意を突かれた姉はすぐさま気の利いた返答を思いつくことができない。ただ先程よりは俄然意志のある動きで金色の髪をかきあげると、匙を咥えたまま器用にため息をついた。
「あんたのそういうとこ感心するねえ」
「恐れ入ります」
「私の自慢の妹」
 そう言うと可愛子は二度三度瞬きを繰り返し、常日頃から浮かべている笑みとはまた違った類のものをゆったりと口の端にのせてみせる。緩く、ほどけるようなその顔を見ることができる者はひどく限られている。彼女にとって特別な、ほんの一掴みの内の一人であることが綺麗子は何より誇らしい。出自も違えば、経緯も生い立ちも異なる二人は、それゆえにお互いをより理解しようと努めてきた。より姉妹であろうとしてきた。その結果があの妹の笑みであり、そしてひどくわかりづらい妹の感情を手に取るように理解することができる姉の能力だ。
 妹は口を開く。傍目には先程から露と変わらぬ表情の奥に鋼の冷徹と刃の鋭利を秘めて。
「今年の八朔は白羽太夫が行うことに決まったようですよ」
「ふーん」
「ふーん、って…」
 よろしいので姉様、と毒気を抜かれたように問う妹に綺麗子は鷹揚に頷いた。いいも何もありゃしないと言った言葉に嘘はない。
「私らは女郎だ。白羽も女郎だ。妓楼は女郎が仕切るもんじゃない。奴は道理に反してる」
 可愛子は小首を傾げてそれが何かといった顔をする。綺麗子は氷をまた一口運び、舌の上で丁寧に溶かした。地下にある氷室で井戸水を冷やし固め、一年を通して作られる氷は口当たりも柔らかい。しかし、その繊細な余韻を味わう間もなく、透明度の高い食感はすぐさま砂糖の甘さによって塗りつぶされてしまう。
「道理に反したものは長く続かないものさ。私らが目くじら立てずとも自ずと滅びる」
「そうでしょうか…」
「そうさ。あんたも私も何度人の世の栄枯盛衰を見てきたよ」
 生きているものにはいずれ必ず終わりが訪れる。それは形あるものがいつか壊れるのことと同様に。特に道理を外れたものに対して、それは顕著に現れるのだ。悪行、非行、放蕩、不義。道を踏み外し、儚く消えていったものたちを、呆気なく踏みにじられたものたちを、人に使われる器物であった姉妹はすぐ近くで見てきた。何度も、何度も。
 妹は納得したのか感嘆したのか、なるほどと呟いてそれきりその話題に触れることはなかった。
 彼女は妹としての立ち位置をよく弁えていた。決して姉の言うことには逆らわず、決して姉の言葉は疑わなかった。姉が窮地に陥るとなれば何を賭してでも助けた。無論、姉も同じようにする。それが二人の間で交わされた誓い。見た目も生まれも何もかもが違う義姉妹が義姉妹たる、たった一つの事実。たおやかな娘のなりをした二振りの物の怪はお互いに傷付け合わぬよう、温度のない刀身をそっと寄り添わせるようにして、今日まで生きてきた。きっとそれは明日も明後日も百年後も変わらない。いずれ錆び付き朽ち果てるときが来ようとも、最期の褥は妹とともに土くれになるまでと切に姉は願う。
「今年の夏は暑いですね」
「暑すぎるよ…」
 人の身をした付喪の神にも平等に降り注ぐ蝉時雨はやむことはなく、日没の鐘まで氷で得た一時の涼が保つことをただ祈るだけだった。


2016.08.02

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