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信仰を食らう獣

 全なる父、純潔の母、我らが兄弟。
 月明かりの差し込む祭壇で微笑むマリア像の前に立つは一人の修道女。禁欲的な衣装に若い肉体を包み、指を組んで祈りを捧げる姿は哀れな仔羊に見えただろう。けれど彼女は何にも絶望していない。女を魂ごと喰らおうと舌舐めずりし、歪な牙を、剥き出しの生殖器を、鋭い爪を唸らせる魔物を前にしてなお。鏡面のように静かに澄み渡った黒いまなこは少しも怯む様子はなかった。
 靴の踵が床を鳴らす。天井から吊るされたランプが軋み女は笑う。嘲笑、と。魔物は受け取ったのだろう。怒りの咆哮をあげ突進してくるけだものに彼女は冷静に右手を振るう。銀色の軌跡がきらめき、一瞬あとにその手に握られていたのは杖だった。蛇と知恵の実を象ったそれは魔力の象徴、魔法使いの証。
「背負え、重き十字架を」
 冷徹に嘲りを含んだ声が落とされる。途端暴走車のように辺りのものを吹き飛ばしながら突進していた魔物が動きを止めた。指一つ動かせない己の状況をわずかな知性が胡乱げに訝しがる。それもそのはず、彼女の魔法は目には見えない。
「私、重力の魔法が得意なのよ。どう?地味でしょう」
 そう自虐的に言った女の言葉は笑っていた。彼女はいつも笑っていたが、今に限って言えばそれは聖女の笑みではなかった。すべてを温かく迎え入れ、愛するための笑みではなかった。高潔な全知全能の母は醜悪な悪を断じて許さない。タン!と杖の柄が床を叩く。修道女の黒い衣装が翻り小さく引き締まった踝がわずかに覗いた。弧を描く唇が開かれすべてを灰燼に帰すための力ある言葉が紡がれる。
「断罪、火焙りの刑に処す」
 途端、魔物の周囲をごうっと音を立てて真紅の火柱が取り囲んだ。容赦のない熱波はその肉を焼き、血を干上がらせ、骨を溶かし、跡形もなく焼き尽くす。
 断末魔の悲鳴は燃え盛る炎の音にかき消されやがてすべてが終わったとき、そこには元どおりの静寂があるだけだった。
 修道女は杖を振るう。変わらぬ静かな夜に蔓延する焦げた匂いを振り払うように。白いかんばせに憂いとも歓びともつかぬ表情をのせ、神への祈りを捧げる。
「主よ、どうか迷える者の魂をお導きください」
 彼女は嘘をついていないが、反して真実を語っているわけでもない。信仰心は彼女の理性を守るための盾、彼女の嗜虐心を隠すための覆い、彼女のアイデンティティを保持するための支え。失くしてしまえば彼女は彼女を保てない。だからこそ彼女は敬虔な神の信徒として祈りを捧ぐ。先程屠った相手に対する一抹の憐憫を忘れないようにする。嗚呼、けれども、それでも滲み出る「それ」は隠せない。清い身体からとぐろを巻いてじいとこちらを見る二つの目。立ち並ぶ鱗、血生臭い牙、ちらりちらりと蠢めく真っ赤な舌。彼らは知っている。女が魔を蛇蝎のごとく嫌いながらも、また魔に囚われていることを。骨身に刻まれたその名前を。
「マーヤ、」
「殺したわね、マーヤ」
「人間だった」
「人だったのに」
「己の罪を認めて懺悔したのに」
「深い後悔と真摯な告白をしたのに」
「貴女は殺すのね」
「十字架で動きを止めて」
「火で炙って」
「そうよ」
 口々に喋る声は男女の子供の声でそれに答える女の声は冷ややかだった。冴え冴えとした月の光差す祭壇を前に女は笑う。誰も疑うことのない、疑いようのない聖母の微笑み。
「それこそがわたくし、雪水家に属する魔術師にして三賢者の一人、ウロボロスのマーヤの役目ですもの」
 双蛇は、笑う。


2015.12.25

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