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火照り鬼灯

 仲の町から西河岸へと伸びる揚屋町は吉原における商人と職人の町だ。通りの中央に渡された溝板に一定間隔で置かれた用水桶やたそや行灯は他の廓内の町と変わらないが立ち並ぶ店に妓楼は一軒も見当たらない。華やかな仲の町とは一線を画した表店には暖簾を吊るした台屋や小間物屋が連なり、行き交う人々は当然ながら商人風の者が多い。細々とした家屋が立ち並ぶ裏長屋にはぼて振りや大工などの職人が肩を寄せ合うようにして暮らしていた。
 そんな揚屋町のちょうど真ん中辺りにある二階建て長屋のうちの一つが患者であれば妖怪人間問わず拒まずの金看板を掲げる万年診療所である。簡潔に屋号を記した木板を土埃が白く霞ませる様は全体的に鄙びた印象を与えるが、それとは裏腹に名医として知られる「先生」を頼って門戸を叩く者は連日少なくなかった。しかし今日に限っていえば訪れる患者の数は朝から疎らなのだろう。閑散とした佇まいは裏吉原特有の昼間の静けさの中で息をひそめているように見えた。戸口の前にぽつんと置かれた素焼きの鉢の鬼灯も健気に葉を広げまだ青い実を所狭しと鈴なりに付けているがどこか所在なさげだ。
 そんな診療所の前に影を差したのはどう見ても病とは縁遠そうな男だった。逞しい長躯に刈り込んだ短い黒髪の似合う精悍な顔つき、反して嵌め込まれた瞳は白眼を持たぬゆえにそこだけぽっかりと穴でも空いたように無機質だ。矢鱈縞の着流しに柳色の帯を締め、骸塚髑髏(むくろづか どくろ)と己でつけた名乗りの通りしゃれこうべを象った根付が腰の辺りで小さく揺れている。彼は鬼灯の前にしゃがみ込んだかと思えば無骨な手を伸ばし、思いの外丁寧に枯れた下葉や虫食いをむしり取ると土の湿り気を確かめている。
 こうして折角譲り受けた鬼灯が連日の暑さによって萎れてしまいやしないかと気を揉んでいるのは概ね髑髏の方であって、肝心の先生は花が咲こうが実がなろうが最終的にすべて生薬にしてしまうのだからいいじゃないかとろくすっぽ興味のない態度だった。医者としては大変合理的で優秀といえるのだろうが、せめて実が色付くまでは楽しもうという情緒もないというのは如何なものか。とはいえそれもまた彼らしいといえばらしいのだけれど。
「先生、邪魔するぜえ」
 水遣り不要と判断した鬼灯から目を離し、一声かけつつも躊躇なく戸を開く。しかし覗き込んだ診療所の中に人の気配はなく強い薬種の匂いだけが鼻をついた。机の上は綺麗に片付けられ、放り出された医術書もなければ、解いたばかりの薬の包みもない。少し席を立ったわけでもなさそうな様子に首を捻ったのも束の間、髑髏は草履を脱ぎ捨てて無遠慮に室内へと上がり込んだ。
 一般的に長屋の構造は戸口が狭く奥が深い。万年診療所もその例に漏れなく、襖を引き開けた先は薄暗い小部屋が一つ、その奥へと進めば更にひっそりとした土間が現れ、火の気が消えた竃と二階へと続く急な階段があった。
 長躯を屈めるようにして髑髏は慎重に階段を登る。いつだったか力任せにして踏み板を壊してしまってからは殊更静かな昇降を心がけていた。その件で家主から咎められることはなかったが、髑髏は己の職である髪結い以外には粗野なところがある。多少気を使うくらいでちょうどいいと自省していた。
 階段を昇りきった先にある二階は家主の私的な部屋として使われている。変わらぬ独特な薬の匂いに墨と紙が混じり、畳の上に積み上がっているのは小難しい医学書。古ぼけた調合器具は無造作に箱に詰められ、蒐集品である人間や獣の骨も行き場をなくすようにして転がっていた。几帳面に整えられた仕事場とは異なり様々なものが雑多に置かれた部屋の奥、通りに面して格子窓が作り付けられたそのすぐ手前、胡座を組んだ膝の上に置いた書に没頭していた万年診療所の主であり医者である久木野々千年(くきのの せんねん)がつと伏せていた睫毛を起こし、山吹色の瞳をこちらへと寄越した。意外そうに瞬きを繰り返す様を見る限り、どうやら髑髏の気配にはまったく気付いていなかったらしい。
「すまない、気付かなかった」
「良いってことよ。相当集中してたみてえだしな」
「ああ…仕事は?」
「さっき終わった。芦屋の姐さんのご指名だ」
「芦屋というと泡海太夫と淡路太夫か?」
 髑髏を贔屓にしてくれている姉妹太夫の名をあげる千年に丸めて吊り下げられた蚊帳をくぐりつつ髑髏はかぶりを振った。開け放された窓からはむわっとした外の風が吹きこんでくる。ここ最近は盛夏らしい好天が続いているがそろそろざっと降るお湿りでも欲しいところだった。
「いいや、それが白羽の姐さんからでね」
「白羽太夫?あの?」
 彼が驚くのも無理はない。裏吉原で最大にして最高位の大見世芦屋の楼主である善知鳥蛭妃がその行方をぷっつりとくらませて以降、実質妓楼を取り仕切っていると専らの噂なのが件の花魁だ。言わば渦中の人である彼女直々に指名されたとなればそれだけで人の口の端に掛かる事態だが、芦屋に籍を置く三人の花魁の剣呑な事情も充分話題の一因となって然るべきだった。泡海、淡路太夫姉妹と白羽太夫は花魁としての地位をそれぞれ不動のものにして以来、表沙汰にはしないものの水面下での睨み合いと牽制を続けてきた。だからこそ髪結いとしてそこそこ名を馳せているとはいえ姉妹太夫ご贔屓の髑髏はこれまで白羽に呼び立てられることはなかったのだ。
「どういう風の吹き回しかねえ。八朔だからというわけでもねえだろうに」
「…確かによくわからないが、白天狗は業が深い。元より外道のものだから私たちには不条理に見えることも平気でしてみせる」
 よくよく気を付けた方がいいだろう、と含みを込めて言ってから恋人は眉をひそめてみせた。切り揃えた灰色の髪が藍染の襟の上でさらさらと擦れ、白い喉元が浮き上がって見える。
 今日初めて間近で対面した白羽太夫は雪のような白髪と鋼の意志を伺わせる美しい銀瞳の持ち主だった。あらわになったうなじは華奢でこれもまた初霜のように透き通り、静謐な声は高い教養と矜恃を感じさせた。数多の女郎をこの目で見、この手で結ってきた髑髏も思わず感嘆せざるを得ない美貌を彼女は確かに持っている。だが、どれほど花魁と呼ばれる女が理知的で見目麗しかろうと、この世にどれほど相対したことのない美しい女があろうとも。
「…なんだ、さっきから人の顔をじっと見て…」
 今目の前で居心地悪そうに身を捩る恋人には敵うまい。
「いやあ、俺の連れ合いはほんとに別嬪さんだと思ってな」
 その言葉をいつもの戯言だと思ったのか千年は一瞬目を見開いたあと、ふいと視線を逸らして口の中で何事かつぶやいた。その小声が聞き取れなくとも髑髏にはわかっている。薄っすらと朱を刷いた目元と頬。手練手管の女郎にはとても真似できない無垢な反応。それは二人が出会ったときから少しも変わらない。墓場で死人を貪り食っていた髑髏の前に突如として現れた赤々と燃える炎が妖だと気付くのに寸分の時間も必要なかった。まるで光の中から生まれ落ちるように四肢、胴体、首、顔と獣じみた本性が現れた瞬間、一目で恋に落ちたのが髑髏なら千年もまたまったく同じ思いを抱いていたのだ。これを合縁と言わずしてなんと言おう。
「私も、」
 突然彼が声を発し、髑髏はにやける口元を堪えながら取り出した煙管に刻み煙草を詰める手を思わず止めた。彼はすいっと髑髏の傍に近づき息を吹き付ける仕草で一瞬にして煙草へ火を灯すと続けざまにぼそりと言う。
「私も、君のことは好ましいと思う。…その、元の姿でなくともね」
 そう早口に告げると彼は素早く立ち上がり、茶でも淹れてこようと口走って階下へと姿を消した。とんとんと階段を降りる音が妙に余韻を残して響き、やがて薪を扱い水を汲む音が聞こえてくる。一方の髑髏はといえば恋人に手ずから灯してもらった煙草に口を付けることもなく、燻り続ける煙を片手に一人悶絶するしかなかった。
 大暑に早々と朱に染まる鬼灯は一つではなく二つ。時代変われど、世が変われど、長らく思い合う二人の妖による百年の恋はまるで冷める様子もないようだった。


2015.08.15

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