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冷たい肋骨の余剰

 もし、と控えめに戸が叩かれたのは、廓の大半が眠りに落ちた丑三つ時のことであった。
 耳聡い家主が異音に気付いたのは、二度目の申し出のとき。まばたきを繰り返すと、夜目の効く双眸は瞬く間に視界を取り戻す。ぼんやりと浮かび上がるのは「万年診療所」と自ら名付けた小さな医院の部屋の影。使い古した秤に薬匙。乳鉢には薬草の臭いが染み込んで取れず、蝋紙は箱からはみ出ている。文机の上には読みさしの医学書。行灯に火はなく、真夜中の月が冷え冷えと障子越しに差し込むばかりだ。しばらく待ってもあるのは全てが寝静まった夜半の世界。気のせいかと彼が首を捻ったところで。

「もし」

 今度ははっきりと正確に届いた。戸を叩く、小さな音。小さな声。音程の高いそれは少女のものだろう。こんな夜更けに何事だというのだろうか。瞳を眇め、男は見えぬ戸の向こう側に向かって問う。

「誰だ?」
「芦屋の禿、しぐれと申します」

 間髪入れずに声は答えた。裏吉原随一の大店の屋号を告げた少女にほんの僅か男は警戒を解く。芦屋。ある種の畏怖を持って、この廓、引いては妖怪たちの間で認識されている妓楼の名。だからこそ、その名を平然と騙るものはいない。それは同胞に対する侮辱だとみなが心得ているからだ。

「お助けくださいませ、先生。みくらがギヤマンの小鉢を割ってしもうて…姐さんは明朝、先生を呼んでくださるって申したのですけども、一刻程前から熱が出て…苦しそうで…」

 声はやがて震え、尻窄みに聞こえなくなった。先生、と呼ばれた男は己の腰に無遠慮に巻き付く屈強な腕を取り払うと、囲いから抜け出るように這い出し、行灯へふっと息を吹き付ける。常人であれば、火を消す仕草となるそれは、彼が行うことによって部屋へと明かりを灯す火種を生み出した。淡い光が照らし出す室内にぼんやりと男の影が浮かび上がる。切り揃えた灰色の髪に、虎の目のような黄色の瞳。男にしては線が細く、銀鼠色の着流し姿はどちらかと言うと書生の風情だ。
 草履を引っ掛け、土間に立つ。自分でしたおぼえのない用心棒を外し、戸を引き開ける。
 かくしてそこには更待月に照らされて、一人の少女が泣きそうな顔で立っていた。上等とすぐさま知れる着物は鮮やかな朱色。袖に匿うように、茶褐色の丸い毛の塊を抱えている。視線だけで促すと、少女は静かに敷居を跨いで素直に中へと入ってきた。医療施設に来たのは初めてなのだろう。噎せ返るような薬事の臭いに吃驚したように目を見開いている。
 畳の縁に腰掛けるように勧め、自身は彼女の手の内を覗き込むようにしゃがみこむ。少女に守られるよう浅く呼吸をする生き物が、彼女の言う「みくら」だろう。滑らかな毛皮に鼻先を埋めているのは痛みを耐えているせいだろうか。小刻みに震える小さな耳は薄く丸く、尾は長く先はすすきのように広がっているが、それもぴったりと体にくっつけている。みくら、と少女が優しく呼ぶ。声に応えるように獣は緩慢な動作で小さな頭を動かす。円錐形の頭にトンボ玉のような黒々とした目玉。ひげを震わせ、上目遣いにそれはそれはか細い声で鳴く。

「せんせい、」

 すねこすりか、との医師の問いに少女が代わりに頷いた。どこからともなく現れて、山道を行く旅人の脛をするっと擦って去って行くという至って無害の妖怪である。恐らく常はしぐれと名乗った少女と同じく人の姿に化け、芦屋で禿として従事しているのであろう。今はそれどころではなく本性が暴かれてしまっているが。先刻の少女の言葉を反芻する。ギヤマン、割って、熱。

「どこか怪我をしているのか?」

 医師の言葉に再度少女が頷く。彼女が慎重に獣の身体を動かすと、小さな右前足に白い布が巻かれていた。一言断ってその覆いをそっと取り外す。血が滲んでいる箇所はほんの少しだった。だが、確かにその小さな手は熱を帯びている。

「落としたんです。それで慌てて欠片を拾おうとして」
「触ったのか?」
「はい」

 思い当たる節があった。草履を脱ぎ、座敷へ上がると行灯のそばに二人を呼び寄せる。拡大鏡を部屋の隅から取り出し、医療器具を入れた琺瑯の箱から一本の長い金属針を抜き出す。少女は怯んだように肩を震わせたが、それを宥めて、獣の掌を差し出すように指示する。中空で針先に向けて息を吹く。灼熱は一瞬だけ金属の色を変え、すぐに消えた。
 灯りの元、小さな獣の手を見やる。レンズ越しに覗き込めば、褐色の細い毛と渇いた血の塊に紛れて何かがちらちらと光る。角度を変えて見る。決して動かないよう少女に言い含め、そっと針先をその煌めきに伸ばす。
 事は一瞬だった。弾かれた透明な硝子の破片は畳の上に軽い音を立てて落ちた。医師は注意深くそれを拾い、もう誰の手にも触れないよう、素早く半紙にくるんだ。ここまでものの数秒である。まるで魔法でも見せられた子供のように少女はぽかんと口を開けている。

「ギヤマンは割れると細かい破片になる。しかもそれは鋭く、強く触れれば容易く皮膚を食い破る」

 医師は針を戻し、手元の薬箱を引き寄せながら淡々と言う。その声が忠告と知って、少女はピンと背筋を伸ばした。顔を見やればその目は真剣に潤んでいる。余程妹分が可愛いのだろう。おそらくもう彼女らは同じ間違いを犯すまい。ふと肩の力を抜いて、小さな前足に取り出した真新しい包帯を巻く。異物がなくなったせいか、獣の横顔は心なしか穏やかに見えた。人間とは比べものにならないくらい本来持った治癒の能力が高いのが妖怪だ。回復するのもきっと早いだろう。
 巻き終わると医師は静かに立ち上がり、壁一面に備え付けられた蜂の巣のような棚から手際良く二つの抽斗を抜き出した。それらを手に文机に向かうと、薬匙で一盛り二盛り掬って蝋紙で包む。一方に半紙で紙縒りを巻いて、わかりやすく目印を付けると少女に一つずつ説明しながら手渡す。

「こちらは浦黄。切り傷、火傷に効く。傷口に直接乗せれば治りが早い」
「はい」
「こちらは地竜。熱を下げる。今夜一晩様子を見て、下がらなければ煎じて飲ませなさい」
「はい。ありがとうございます」

 少女は深々と頭を下げると、大事そうにそれらを懐に入れた。そして、ずっと抱えていた獣をようやく安心したように膝の上にそっと下ろすと、袂を探る。医師が訝しがる間もなく、少女は掌に美しい細工の櫛を乗せ、差し出した。お代です、という声は凛として迷いがなかった。柘植に螺鈿、真珠が埋め込まれたそれは、清楚で静謐な輝きに満ちている。恐らく彼女の姐さんがくれたのであろう大事なそれを、右手でそっと押し返した。困惑の表情を浮かべた少女に、医師は静かな声をかける。

「私は男だからそういったものは持て余す」
「でも、先生」
「元気になったら二人で顔を見せにおいで。その時、私の仕事を手伝ってもらうよ」

 お代はそれにて、と言外に告げる医師に少女はなおも申し訳なさそうにしていたが、やがて納得したように小さく頷いて重ねて礼を述べた。美しいつむじを見下ろしながら、医師が帰りを促そうとしたその時だった。

 ミシ、と聞き慣れた軋みの音。

 反射的に少女の身へと覆いかぶさる。驚いた彼女は両手で獣をしっかり包みはしたが、終ぞ声はあげなかった。ミシミシミシ、と何重にも連なっていく音は生きとし生けるものの不安を煽る。それもそのはず、これは死そのものが奏でる悲鳴だ。薬草の臭いを上書きするようにどこからともなく腐臭が届く。地獄の底から揺さぶり起こされるような感覚に弄ばれる。
 かくしてオオっという一際大きな暗い叫喚が聞こえた後、二人と一匹は骨の檻に閉じ込められていた。
 目の前にあるのは巨大な鎖骨。見上げれば行灯の仄かな光に照らしあげられるように、頸椎が連なり、そして頭蓋骨。今にもぱかりと開きそうな口には灰白色の岩のごとき歯がびっしりと並んでいる。真暗な眼窩には何もない。ただ、ただ深い暗闇があるだけである。

「せ、せんせい…」
「もう帰りなさい。心配いらないから」

 肋の隙間から手を伸ばし、戸を引き開けると、少女を押し出すように外へとやる。彼女は振り返り振り返り、心配そうな顔を向けていたが、やがて思い切ったように一礼すると、さっと踵を返して去って行った。その背中を見送り、息をついて戸を閉める。真夜中の静寂が戻ってきた診療所には黄色い瞳の医師が一人と空間を埋め尽くすしゃれこうべ。ため息は一つ、寝息は絶え間なく。

「起きろ…髑髏、起きるんだ」

 仕事の顔から普段の顔つきへと戻り、男ー妖怪人間外科内科問わずの名医として裏吉原で知られる久木野々 千年(くきのの せんねん)はなんの遠慮もなく、柱と見紛うほどの太い肋骨を叩く。すると、反響が伝わったのか僅かに骸骨が身じろいだ。ミシミシという軋轢に似た不協和音と共にゆらりと頭骨が揺らぐ。表情はない。無論、表情筋などあるわけがないのだから、当然だが。

「…せんねん…?」
「私に布団を掛けに来てくれたのはわかるが、寝ぼけて本性を出すのはやめろと言ったはずだ」

 ぼんやりした重低音に叱責の声が飛ぶ。怒られたしゃれこうべはああ、と呻きにも似た声を絞り出すと呟いた。

「寝てた」

 それはわかっている。そう声に出しても無駄なことは承知していた。何しろ長い付き合いだ。骸塚 髑髏(むくろづか どくろ)。見ての通り、がしゃどくろという名の妖怪を本性に持つ彼とは、この裏吉原が出来る以前からの仲である。その本性から死体を求めて彷徨っていた千年と、その本性で人を震え上がらせては貪り食っていた髑髏が曼珠沙華咲き乱れる墓場で出会い、たったの一目で恋に落ちたのは最早必然と言えよう。
 千年はそっと、しゃれこうべの滑らかな額に手を伸ばす。触れれば乾いた音をたてるその白い質感がたまらなく愛しいといった具合に。表情にも態度にも最早怒りなどない。あえて言うなら、やはり恍惚、が一番相応しい。
 久木野々千年、その本性は罪人の死体を求め炎によって焼き払う妖怪、火車。加えて重度の骨格陶酔の性癖を持っている彼が毎夜こうして寝ぼけて本性を露わにする恋人を強く怒れないのも無理はない。何を隠そう彼にとってそれは、至福の到来と同意なのだから。

「こら、千年。人型に戻れないだろうが」
「…一晩このままでもいいんじゃないか?ちょうどよく収まっているようだし」

 しゃれこうべの苦笑が振動となって千年の腹に響く。それにすらぞくぞくとした興奮を抑えきれず、火車は小さく身じろいだ。正しく骨の手が細い腰を柔く抱く。繊細な動きに感じるのは痺れるような愛情だ。

「患者が帰った途端、これだ」
「なんだ、起きていたのか?」
「夢現で声だけ聞こえた。邪魔しなかっただろう。褒めろ褒めろ」

 結果的には患者を怯えさせたわけだが、そこのところは記憶から抜け落ちているらしい。実に髑髏らしいと今度は千年が笑って、冷たい骨に生身の温度を伝える。灰色の髪を白い指の先が撫でる。触れ合う箇所はいつも乾いた音がする。
 その肋に触れたくて、手を伸ばす。心臓に一番近い、その場所。かつて異国の神が最初の男よりへし折り抜き出し、最初の女を作ったというその骨。二人にとっては不要な、けれどそれでも奪い取りたい冷酷な余剰。

「髑髏、髑髏」
「なんだよ、甘えん坊め」

 心地よい生臭さに酔う。死臭と腐臭とが一挙に押し寄せたような無情に気を狂わせる。この世の誰よりも自分が、自分だけが愛せる自信のある腕の中で千年はそっと目を閉じた。差し込む月の光は傾いて、部屋に長い光の帯を作る頃。明かりは無用と瞳を眇めれば、行灯の火は主の命令に従うように速やかに消えた。後に残るは甘い悲鳴と、月夜に映える影二つ。それは確かに恋人の姿をしていた。


2014.08.30

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