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狂い廓の猩々緋

 この国にはかつて公娼制度があり、遊廓と呼ばれた公娼街が各地に点在していた。
 錦の花は夜毎咲くのかはたまた散るのか。女は豪奢な衣装を纏い、濡れ羽色の髪に色とりどりの簪並べ、白粉はたいて紅を差し、妖艶な笑みを浮かべては吸いさしの煙管を客に差し出す。灯るぼんぼり、鳴るは清掻き。甘ったるい香に包まれ柔らかな肉に埋もれ、一夜の夢に溺れるを男は粋とし、女は良しとした。
 その裏に見え隠れしている腐臭と暗い夜には気づかぬ振りをして。
 きらびやかな袖の下に落ちる金と涙の色には目を向けず。
 酒と楽と女に、人々は酔った。
 けれども、そんな栄華もやがては終わりを告げる。国が長らく続いた鎖国を解き、限りなく限られた人数といえど諸外国の人間を受け入れ、そうして生まれた奔流に押し流されるように。徐々に遊郭の灯りは仄暗くなっていった。そして、お上の決定により公娼制度が廃止され、大門が取り払われたとき、それは決定的なものとなった。
 "ただの性風俗店"が立ち並ぶ町は最早、かつて華やかな花魁がそぞろ歩いた粋な場所ではない。囲いの中で上手にしまわれていた汚泥に似た何かがそこかしこから昇り立ち、男たちはそれと知りつつその日限りの欲望を処理するために町へと足を踏み入れる。女の嬌声、男の罵声。ただそれだけが繰り返される町に人々はいつしか背を向けるようになっていった。
 ここ、吉原も例外ではない。
 浅草十二階と浅草寺の白煙を遠くに見やるかの地はかつての面影をもう全く残していない。隙間なく並ぶコンクリートの無機質な建物と対照に肉感的過ぎる色鮮やかな看板。帝都の歓楽街として辛うじて名を残す以外にかつての吉原の気配はない。しかし、この場所には相変わらず酒と金と男と女が集まってくる。行き交う雑踏、千鳥足。夜毎繰り広げられる夢と呼ぶにはあまりに現実的な乱痴気騒ぎに、魑魅魍魎も逃げ出す始末。
 そして、毎夜繰り返される他愛のない噂話。
 酒の匂いを撒き散らしながら、香水臭い女を抱く男たちが飽きもせずに繰り返す。吉原で酒を嗜む者の常套句とも言おうか。語られるのは、夢のような現代の御伽噺。そう、もう一つの吉原の話だ。いわく、そこは未だ吉原が正しく遊郭であった時代そのままの姿であるとか。相変わらず粋を求めて男が集い、気位高い花魁が煙管を燻らせているだとか。実は表向きには公娼制度を廃止した政府が、本当の吉原を存続させているだとか。
 いずれも他愛のない酔客の戯言。事実、もう一つの吉原に行って帰ってきたというものは一人もおらぬ。幻視の錦に幻聴の三味線。しかしなぜだろう。この話は人々の心を捕えて離さない。手垢が付くほど語りつくされていると言っても過言ではないのに、なお今日もどこかで誰かが繰り返す。その遊郭はね、こちらの吉原の真裏にあるんだそうだ、鏡で返したみたいにまるっきり反対に、だからみんなこう呼んでる―――裏吉原。失われた狭間の町、だと。



*****



 歓楽街の本番は夜である。故に午前の十一時と言えば、通りをゆくのは残飯を漁るカラスやそれに対峙する野良猫がほとんどだ。人影はと辺りを見渡せば、疲れた表情をした露出の多い女が欠伸を噛み殺しつつ歩いているか、店の雑用係とおぼしき若い男が重たそうな荷物と共によろよろ裏口をくぐっているぐらいだ。
 どこからともなく羽音を響かせて飛んできた蝉が電信柱に衝突するように留まった。かと思えば、次の瞬間にはけたたましく鳴き始める。乾電池大の昆虫とはいえ、発せられる大音量は夏の鮮烈な日差しをより強めるかのように錯覚させる。日はすでに高い。照りつける陽光はじりじりとコンクリートを焼きつけた。
 そんな中、通りを足早に歩く青年がいる。年の頃は二十代前半だろうか。中肉中背。太っても痩せてもいなく、背は百七十半ばほど。襟足の長い赤い髪は後ろで一つに結っているせいで、彼が歩くたびにぴょんぴょん揺れる。やや細型の瞳はよく動き、人懐っこそうではあるが、所謂二枚目ではない。ティシャツに短パンと今時の若者らしい格好になぜか履物は下駄で、小脇に小さな包みを抱えている。総じて言ってしまえば、取り立てて特徴のないどこにでもいそうな普通の若者である。先刻も述べたとおり、昼の最中にこの人通りの少ない歓楽街を歩いていること以外、なんら不審な点はない。
 だが、下駄を鳴らしながら至って平凡に歩いているように見えて、彼はその実、用心深く辺りを探っていた。蝉の声以外音もなし。猫の子一匹気配なし。重々それを確認すると、突然進路方向を変えて、ひょいと路地裏に逸れる。両脇をビルに挟まれ昼なお暗い谷底のような小道をゆく。ビール瓶の入った木箱を避け、排水溝にたむろする鼠を追い払い、生ゴミの匂いをかき分けて、行き着く先はなんの変哲もないコンクリート塀。だが、彼は構わなかった。
 一歩カラコロ、二歩カラコロ。
 躊躇いもなく進む青年が無残にも壁に激突し、のたうち回る現実は結果やってこなかった。

 瞬間、景色が歪んだように見えたのは幻ではあるまい。
 まばたきの間に突然目の前に現れたのは勇壮な門だった。

 二本の太い柱に瓦葺の屋根。掲げられた朱色の大提灯。肝心の門扉は固く閉ざされていたが、青年は慌てる様子もなく勝手知ったる風情で脇の扉へと向かう。その側で恨めしそうに太陽を睨んでいた角のある門番は青年の顔を一瞥すると、なんの問答もなしに道を開けた。彼は軽い会釈だけして、門の内側にするりと入り込む。
 そこには正に、正に噂にたがわぬ裏吉原の風景があった。
 大門よりまっすぐに伸びるは吉原最大の通り、仲の町。その両脇に二階建ての木造建築が隙間なく立ち並び、瓦葺に張見世の格子窓。一度日が落ちれば三味線の音色が通りを覆い尽くし、華やかな遊女たちが格子の向こうに姿を現す。夜が本番なのは表の吉原と同じだ。今はちょうど遊女も短い眠りについている頃だろう。店には暖簾も女の姿もなく、じりじりとした夏の光が人影もまばらな通りの道を焼いては陽炎を作り出すばかりだ。
 青年はどうにかここまでと言わんばかりにふうと一つ深呼吸すると、手の甲で額の汗を拭った。先程あちらの吉原を急いで通過していたのに反して、心なしか歩調を緩めて仲の町を歩き始める。大門から続く通りのどん詰まりに青年の目指す場所はある。迷いようがなかった。
 眠っている町は静かだった。時折聞こえるのは妓楼の楼主が算盤を弾く音、洗濯物を扱う水音。軒先の朝顔はとっくに顔を隠し、店先から髪を掻きつつ顔を出した着流しの裾から蜥蜴の尾が見える若い衆は青年と目が合うとすっと視線を逸らせた。

 表の吉原の噂では決して語られなかった真実が一つある。それは裏の吉原の住人たちのこと。
 あちらは当然ながら人の世の理に属し、人が人として作り上げた町である。中には妖怪も混じっているのかもしれないが、それでもその割合は限りなく少ないと見てよいだろう。それに対してこちらの吉原はと言えば、そもそもが妖の、人ならざる者の理から作られた町である。空間と時間を捩じり、怨念と願望を混ぜ込んで凝縮し、変わらぬように捉えて押し込んだ、言わばあの世とこの世の狭間。マヨイガ、とも呼ばれる取り残された時代。
 そして、この吉原にはあの妓楼が、ある。

 芦屋(あしや)

 そう言えば誰もが心得て、手を打つほどの大店。仲の町のどん詰まりに位置し、堅牢な二階建てはどの妓楼と比べても一際大きく、また敷地内をぐるりと囲む生垣は吉原の中でこの店にしか持つことを許されていない。最高位の花魁は三名。美しい銀瞳を持ち聡明で気位高い、白羽太夫(しらはだゆう)。金色の髪に碧い瞳、異国の人形のような淡海太夫(あわうみだゆう)。長い漆黒の髪を結い上げその微笑、聖母の如きと謳われた淡路太夫(あわじだゆう)。
 そして何より楼主の名を聞き、妖怪であるものならば誰もが、深く頷く。この吉原でも珍しい女楼主。名を善知鳥 蛭妃(うとう こうひ)。言わずと知れた裏吉原を含むあの世とこの世の狭間の創始者の一人である。

 青年は仲の町を歩き切ると突き当たった妓楼の母屋に上がることはせず、生垣沿いに右手へと回る。幸い誰に見咎められていない。内心冷や汗ものだったが、今回も無事おつかいを果たすことができそうだ。生垣の角を二回折れたところで急に現れるのは、表の壮麗さとは異なり実に簡素な木戸。青年は片手に包みを持ったまま、もう片方で戸を押した。なんの抵抗もなく開いたそこから素早く身を滑り込ませ、今度こそ本当に大きく息を吐く。目の前には二階建てとはいえ、妓楼とは明らかに異なる建物がある。どちらかと言えばこじんまりしていて、単なる住居のような建物の裏手に木戸は直結しているのだ。
 砂利を踏みしめ、青年はゆるりと家屋の表側へと向かう。開け放された縁側。真夏の日差しによって作られる陰影の濃い日影に、彼の人はいた。
 亜麻色の長い髪を無造作に紐で一つに括っている。白皙の肌、整った鼻梁。空を仰ぐ瞳の色は甘く、女のように長い睫毛が縁取っている。白地に大きな海老の柄が施された奇抜な浴衣も彼にかかればなぜかしっくり似合うとしか言いようがない。浅葱色の帯は彼の髪に一房二房と混じる髪の色とお揃いだ。
 どこから持ち込んで誰に準備させたのか。たらいに氷を浮かべてその中に素足を突っ込みながら、それでもなお暑いと団扇を扇ぐ彼の名は善知鳥 蛭姫(うとう ひるき)。あの善知鳥蛭妃の一人息子であり、妓楼の若旦那であり、この青年、伊村 猩々(いむら しょうじょう)の主であり、名付け親でもある男だ。
 砂利の音に気づいたのだろう。主は気怠げに猩々へと視線をよこす。決してお世辞にもいいとは言えない目つきに涼しげな柳眉。真顔なら息もつめたくなる威圧感すら発するが、生憎と彼はそう言った真剣な顔を猩々に向けてする気は一切なかった。

「しょーじょー、遅いじゃんか待ちくたびれたぜ」

 にやりと歪めた口元。間延びした声。些か緊張感に欠ける態度が彼の平生である。それを知っている猩々はこちらも唇を尖らせて応酬する。たとえ主と言えど、彼自身こんな性格なのだから、態度も気安くなろうというものだ。口から飛び出すのは流暢な西の訛りだ。

「せやかてぼんさん、こんな朝も早うからお稲荷さんて…いや売ってましたけど、やってましたけど」
「おっ、買ってこれたの?」
「買うてきましたよ」

 ほら、と抱えていた包みを渡すと彼は小躍りせんばかりだ。まあそんなに喜んでもらえるなら朝から駆け回った甲斐があるというものだ、と思ってしまう猩々も大概単純である。

「日本橋次郎吉の稲荷寿司!これが食べたかったんだよー」
「狐やないんやから」
「俺だって稲荷寿司くらい食べる権利あるだろ?」

 苦笑して言う猩々に、真顔で蛭姫は首を傾けてみせる。
 彼の真の姿は今目の前にあるものとは全く異なる。この姿は言ってみれば疑似餌のようなものだ。美しい姿で老若男女を誘い喰らう、毒々しく不気味な軟体動物。蛭姫は常日頃からこうして人の姿をとっているが、それはあくまで体面でしかない。彼の本性は紛うことなく妖怪であり、自分に言い寄る女性を片っ端から丸呑みしてしまう悪癖を持った、恐れるべき化け物なのである。
 だが、猩々はそれを知ってなお、蛭姫を変わらず慕う。この際、蛭姫が化け物であろうと、人間妖怪構わず食おうと、最悪猩々を食ってしまうことがあったとしても、それはそれで構わなかった。
 なぜなら、善知鳥蛭姫は船場の墓場で漂っていた赤色の鬼火に手を差し伸べたのだから。
 なんの手違いか、たった一人意思を持ってしまった焰を見つけて、名づけて、姿を与え、役目を与えてくれたのだから。孤独に耐えかね絶望のまま、その火を自ら落とそうしていた物の怪に意味をくれた。猩々は彼がために存在し、存続している。だからこそ、猩々は彼にかしずく。自身の世界そのものに対して、諸手を広げて降伏する。

「そらもちろん」

 猩々の返答に満足をしたのか、蛭姫は唇の端を歪めて笑ってみせると、たらいの水を右足で大きく跳ねあげた。霧状に散った飛沫が夏の空に小さな小さな虹をかける。その七色を見上げながら、相変わらず唐突に蛭姫は口を開く。

「夏だね」
「もう長月やから、残暑も残暑です」

 猩々も淀みなく返す。

「蛭妃がいなくなってからもう一年?」
「…ええ」

 一寸の間があった。

「あいつ、どこで何してるんだろうね」
「御母堂のことをあいつなんて言うたら叱られますよ」

 この吉原で絶大な影響力を持つ芦屋だが、未来永劫安泰なわけではない。
 少なくとも絶対的な権力者であった善知鳥蛭妃がある日なんの前触れもなく、忽然と姿を消してから蛭姫にとってここは安寧の地ではなくなった。芦屋の柱であり、引いては裏吉原の中心と言ってもよかった妖の突然の消失はマヨイガに衝撃を走らせた。無論方々手を尽くして思い当たる節を探しているのだが、結局今に至るまで彼女は見つかっていない。芦屋は主の不在を嘆き悲しむものであふれ、しばらくは仕事に身が入らないものも多くいた。
 だが、白羽太夫、名を弥勒院 咲桜(みろくいん ささくら)という遊女は違った。
 元々野心のあるタイプだったということもあるだろうし、本性が白天狗というのもあるだろう。また、彼女自身の性格や才覚がそうさせたのかも知れぬ。楼主が消えたとなった途端、彼女は妓楼の主としての頭角を現し、あっという間に実質的な芦屋の楼主として君臨した。人の世の妓楼では考えられぬことだろうが、妖の統べるこの裏吉原ではなんでもありだ。即ち遊女自身による妓楼の統治。何十人もいる遊女の中には彼女を新しい形の主人として受け入れるものもいれば、楼主の息子たる蛭姫への反発から彼女に肩入れするものもいる。順当に考えれば楼主の不在を肩代わりするのはその息子だろう。それがないということは、要するにこの若旦那、人望がないのだ。それはもう徹底的に壊滅的に、誰からの信頼もなく、加えてやる気もない。
 とはいえ、ある意味それは当然の結果とも言えた。蛭妃は確かに蛭姫の母親ではあったが、その生まれの全てを伏せていた。つまり、蛭妃が息子だと申告したから、蛭姫はこの妓楼の若旦那だったというだけであって、彼女がいなくなった今となっては残念ながらただの穀潰し以上の身分はない。むしろ、蛭妃がいた時点ですでに妓楼に近づくことはほとんどなかったし、仕事をしていた訳でもないので、仮の穀潰しが正式な穀潰しに格下げされた程度の些細な違いである。

「咲桜のやつ、まーだ楼主ごっこなんてするつもりかな」
「せやから、ぼんさんがやったらええんです。すぐにでも、明日にでも」
「興味ない」

 緊迫感は皆無だ。とにかく、自堕落であることにかけては天才的な彼はぐでんと自重にしたがって背中から倒れた。ついで落ちた右手の団扇がぱたっと畳を叩く。その表面には浴衣と対になるように紺地に白抜きで蟹の模様が描かれていた。そんなに甲殻類が好きか。

「暑い、稲荷食べる」
「脈絡あらへんやん……」
「あるって大あり。それは太陽が黄色いからだ」
「会話する気もありませんね…」

 ぐったりする猩々とは対照的に麦茶!氷!と元気な主に応えるためによろよろと母屋の方へ足を向ける。相変わらず空は白けるほど青く、日差しは強く、主はやる気がなかったが、それは今までの十年ずっとそうだった。そして、きっとこの先十年も続くのだ。必ず。

「ぼんさん」

 ふと思い立って振り返る。主は相変わらず寝っ転がったまま、なーにーと気のない返事をした。亜麻色の長い髪がばらばらと散らばり、薄い胸が上下している。白い首筋、喉仏。見慣れた姿に隠れた本性。その本来の姿を、未だ蛭姫は猩々に見せたことがない。それは信頼がないのではなくて、友愛の情だと猩々は理解している。そうでなくては猩々は彼にこんな思いを抱かないだろうから。

「何があっても、俺はぼんさんの味方や」

 瞬間、驚いたようにぴたりと動きを止めた蛭姫はけれどすぐにいつもの調子に戻って、仰向けの状態でにいと唇を歪めてみせた。当然でしょう、と声に出す代わりにふらふらと足を動かして猩々に言う。

「その名は星、その名は焰」

 歌うように。

「吠えるな。君は盾だ。それだけの価値がある」

 庭の池から飛んできた蜻蛉が目の前でくるりと宙返りして去って行く。僅かに静かにやって来た秋の気配を猩々は大きく息を吐いて見逃した。こみ上げる熱いものは、きっと隠している焰の本性だ。嗚呼、これだから。歪曲で自堕落な主の下僕はやめられない。
 浮かんだ言葉は口の中で音にならずに消える。届かないそれはあっという間に蒼天に吸い込まれ、空の端からゆっくりと姿を現した巨大な入道雲に覆い隠された。


2014.08.21

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