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7 心中

 目が覚めるとまだ部屋の中は薄い闇が支配していた。どことなく気怠い身体を引き起こしながら記憶を辿る過程で己が一糸まとわぬ姿のまま畳の上で寝ていたことに気付く。見下ろした手は確かに人間のもので、触れた顔は確かに人間のもの。では昨夜のことは果たして夢かと思えども、それは鼻先を掠める紫煙の香りが否定した。視線を巡らせれば窓枠に寄りかかるようにして煙を燻らす陰間が一人、気怠げにこちらへと視線を寄越している。結い上げていた髪をいつの間にか下ろし、黒く濡れたような色をした髪に装飾品の類は一切ない。白い襦袢、その上に白銀にきらめく繻子にやはり銀糸で天を舞う鶴の刺繍施した打掛をまとった姿はどこか見慣れなかった。
 変わらぬ赤い瞳で見据えられ静牙は思わず視線を逸らす。その先で脱ぎ散らかった自分の服が目に入り、これ幸いと手に取ってもそもそと身支度をする。美貌の陰間は相変わらず煙を食んだままその様子をじいっと観察しているかのようだった。
 このまま永遠に時が止まってしまえばいいと思ったがもちろんそうもいかない。気まずい沈黙の中、のろのろと静牙が衣服を整えると待っていたかのように環は煙管の灰を落として立ち上がった。今日の衣装は普段のように裾を引きずることもない。身軽な足取りに静牙が目を見張ったことにきっと彼は気付かなかっただろう。環は静牙の顔を見ないままその手を取るとやって来たときと同様に半ば強引に部屋を出る。
 環?と抗議とも疑問ともつかぬ声をあげる静牙を颯爽と無視して階段を降りると、一階の内所には相変わらずの様子で楼主が座り込んでいた。二人分の気配に気付いたのか、明かりを頼りに書へと落としていた視線がようやく上げられる。刻まれた深い皺が暗い半生を象徴しているかのように一層深い陰影を落とした。
「楼主、義理は果たした。私は行くよ」
「ああ、わかっとる」
 楼主と陰間は各々たった一言それだけ言葉を交わすとすべて心得たように向きを変えた。老人は書へ、男は外へ。静牙の手を引いたまま環が草履に足を突っ込んだので静牙も慌ててそれに倣った。
 引き戸を押し開いて通りへと出れば夜明け前の廓はしんと静まり返って犬の鳴き声さえ聞こえない。澄み渡った空気の果てには紺碧の夜天が広がり、水晶の欠片のような星々が一面に散らばっていた。ひやりと身体に差し込んでくる冷気を切り裂くように環は白い衣を振りさばき、迷いのない足取りで歩き始める。当然静牙の手も離されることはない。繋がった掌からじんと伝わる彼の体温だけに現実味を感じながら静牙はどうにか疑問を口にする。
「どこへ行くんだ?」
「九郎助稲荷に決まってるだろう」
 彼の返答は簡潔だった。裏吉原には実際の吉原と同じく大門の内に四つの稲荷社が設けられている。廓の隅にそれぞれ一社ずつあって、中でも最も大きな信仰を集めているのが羅生門河岸の奥にある九郎助稲荷だった。朱色の鳥居に一対の駒狐を構えた決して豪奢とも言えない社には日々多くの人々が願いを込めて参詣している。しかし、そんなところに一体何の用があるというのだろう。答えを得てもまったく腑に落ちない静牙は質問を続けようとしたが、それは叶わなかった。
 いつの間に走り出したのかどうしても思い出せない。
 気が付いたそのときには静牙はすでにもう環と手を繋いだまま河岸の通りを全力疾走に近い速度で駆け抜けていた。風が耳元でごおと鳴る。左手には延々と続くような黒板塀が続き、右手の見世はどこも戸を締め切って営業しているところは一つもないようだった。くすんだ赤色の提灯が揺れる。夜鷹蕎麦が店仕舞いする声がどこか遠くから届いた。行灯の僅かな明かりと月明かりだけに照らされた黒い景色はどんどんと後ろへ流れていく。
 とても自らの足で走っているとは思えない凄まじい速度に目を白黒させながらもふと視線を前に戻せばそこはすでに廓の隅、九郎助稲荷の社がほんの目の前まで迫っていた。なのに環は速度を緩めない。このまま進めば間違いなく社に衝突するにも関わらず二人は風のように走り続ける。
「た、まき…っ!ぶつかる!ぶつかるから!」
「大丈夫だ」
 彼は息一つ切らしていなかった。黒い髪をなびかせ白い裾を翻しそのままの勢いで稲荷社の鳥居へと突入して行く彼の手を振りほどくこともできず、静牙は思わず目をつむる。
 だが、いくら待てども予想していた衝撃はやってこなかった。
 そっと目を開けば、視界に飛び込んできた色は先程まで確かにあった景色とはまったく異なっていた。薄い闇の中に延々と続く朱色の鳥居。目にも鮮やかな柱は途切れることなく立ち並び、最早静牙の意志とは関係なく動き続ける四つ足は濡れた石畳の道を踏みしめる。鋭い嗅覚は土と古い木々の匂いを嗅ぎ取り、時折白い靄のような霞のような湿気の塊がゆらりと脇を通り過ぎた。爪が固い地を蹴る音は茫洋とした空間に滲むように広がっていく。
 知らぬ間に獣へと身を変じた静牙はそこでようやく気付いた。少し前を駆けるもう一頭の獣がいることに。
 深く艶やかに輝くぬばたまの黒い毛並み、少し小柄な体躯にぴんと立ち上がった耳、たっぷりと太い尾は犬のものでも猫のものでもなくその先だけが暗闇に灯る目印のように白かった。狐だ、と尾神と同じく獣の神の末席に名を連ねる種の名を思い出したところで美しい顔立ちが脳内で明滅する。黒い、黒い、夜に溶けてしまいそうな色。振り返ればきっと赤い瞳がこちらを捕らえて離さない。
「環!」
 思わず叫んだ静牙に緩慢とした動きで狐が動きを止める。連続した鳥居の回廊は終わりを告げ、そこは霧深い森の奥だった。小さく控えめに鳴き交わす鳥の声と樹齢を想像することもできなさそうな杉の巨木が乱立する秘された地に狼神の末裔は立ち、そして目の前には。
「静、」
 振り返った獣はやはり真紅の瞳をしていた。丸い足を音もなく滑らせ優雅な身のこなしで静牙へと近付いた狐は立ち尽くす獣に身をすり寄せる。
 親愛の情をもって行われる行為をけれど静牙は信じられないものでも見るように見ていた。妖怪だとは思っていた。人とは異なる瞳の色、尋常ならざる凄絶な美貌。嗚呼、けれども「ただの妖怪」などではあり得ない。この国に黒き狐の異形はただの一匹しかいないのだ。那須の国の殺生石に封じられた大陸由来の金毛白面九尾狐が唯一であるように、信田の森に住みながら男に見初められ偉大なる陰陽師の母となった白狐が唯一であるように。かつて歴史に実在した、才あふれながらも不幸にして一族を追われた武将と彼に寄り添った美しき愛妾。彼女の正体が狐だというのは妖怪たちの間では最早常識で、当然静牙も知っていた。
 静御前(しずかごぜん)。そう呼ばれ源義経の寵愛を受けた白拍子は今正に静牙の目の前で尾を揺らす玄狐。
「…お、まえ…」
「静、どうした?気が乱れている」
 そう、かつて己を愛した男が己を呼んだのと同じ名で静牙を呼ぶ狐は確かに世の常識と理を遥か超越していた。たとえ狼神の末裔といえども人の世に人として生まれ人として生きてきた静牙とは違う。彼は歴とした生まれながらの異形であり、終わらぬ生を緩やかに食い潰し、気まぐれに人を助けたり、助けなかったり、食らったり、連れ去ったりする。傲慢で、気まぐれで、愛情深いが冷酷でもある。八百万の神と呼ばれるようにありとあらゆる場所に宿り、自然と同様にただそこにある。
 そして今日、彼はその類稀なる力の矛先に静牙を選んだ。
「…俺…」
 口からこぼれた言葉が濃密な空気に吸い込まれていく。この場所は静牙が馴染んだ現世からは遠く、遠く、あまりにも遠かった。あの世とこの世の狭間であって、どこでもあってどこでもない。人ならざる者が緩慢に生きるためだけに作られた夢世の果て、輪廻から外れた籠の中。
「もう…帰れないん…だな…」
「帰る?何を言う。お前が帰る場所などどこにもない。お前がそう言ったじゃないか」
 そう、環は当たり前のように。どこか憤慨するようにも聞こえる声で言った。彼にとってそれは正当な理由なのだ。惚れた男が自分の元へ来て弱音を吐く。愛されていないと嘆く。ならばと攫った。環は何の悪意もなく善意のみで静牙をここに連れてきた。それこそ見世の前で蒼白な顔をしていた静牙の手を引いたように。恐ろしい現実に冷え切って震えていた静牙をその両腕で抱きしめたように。それは、力ある神々の情愛の行使。
「心配はいらない。私の気を受けていればすぐに元通りの力を取り戻せる。毛並みはそうさな、黒い方がいい。夜によく馴染んで美しいから」
 そう言ってすり寄ってくる狐の体毛はひどく柔らかくて温かくて懐かしい匂いがした。つんと鼻の奥が痛くなる。果たしてこれは何の涙なのか、獣でも涙をこぼすことができるのだろうかと思えば、素早く察した真っ赤な目に下から見つめられる。小首を傾げる姿は明らかに獣のものなのに、静牙にはそれは最早ただの愛しい男の姿にしか見えなかった。ひょっとしたら静牙はとっくの昔に狐に取り憑かれていたのかもしれない。頭も目もおかしくなって正しいものなど何一つ見えず、正しい声など何一つ聞こえていないのかもしれない。けれど果たして嘘と建前で固められた家族なんて、世界なんて、どうして「正しい」と言えるのだろうか。見えなくても聞こえなくともあの悪意だけは真実だった。嫌悪に満ちた雰囲気。厄介者を除外しようとする群れの気配。そんなものを歯を食いしばって見続け、聞き続け、耐える必要などあるのだろうか。彼の手を取ったそのときからきっとわかっていたはずだった。選択の余地すら与えられずではなく、選択の価値すらないのだと美しい獣は無言のまま断言する。
「静?」
 心配そうに鳴く狐になんでもないとかぶりを振るう。振り返ったその先にはただ深い森と霧の海が広がるばかりでくぐり抜けてきたはずの鳥居の朱色も最早どこにも見ることはできなかった。
 愛し獣の名を呼ぶ。見つめる赤い目に同色の己のそれが映る。彼がしてくれたようにその身にすり寄って艶やかな毛並みに鼻先を埋める。ありがとうと告げた声が掠れていたことをなんと受け取ったのか。恋に狂った人でなしは獣の声で愛し愛しと鳴いてみせ、応える獣もまたあらん限りに情愛を示した。行く道が暗き夜なれば戻る道もまた暗く、けれど引き返すつもりなどないけだもの二人にとってそれは何の障害にもならない。暗夜できらめく真紅の瞳は成就した恋路の果てでただ赤く赤く獣の本性をしたお互いだけを映していた。


2015.11.01

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