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5 馴染み(前)

 信号が青に変わる。ほんの一瞬無人となるスクランブル交差点にはすぐさま歩行者が流れ込み、人波に押し出されるような形で静牙もスニーカーの足を路上のストライプへと踏み出した。大学から自宅への通学経路において唯一の大通りは人と車の交代劇も忙しない。点滅する青色に急かされるようにしてどうにか歩道へ滑り込めばすでに歩行者信号は赤色に点灯していた。
 静牙と同様に道を渡った集団は先程までひとかたまりであったことが嘘のように三々五々散らばって各々の帰路につく。小さな町が幾つも肩を寄せ合って作られた一帯の住宅街は所謂文化住宅が密集し、帝都中心部に職場や学び舎を持つ人々によってベッドタウンが形成されていた。開発が進んだ「文化的」な町には無機質なアスファルトが氾濫し、便利になったと歓迎する人もいれば昔日の土埃舞う路地が懐かしいと嘆く人もいた。
 夕暮れまではまだ少し余裕のある時刻、静牙は傾いた午後の日差しに晒された町並みに足取りを沿わせるよう歩を進める。しばらくは似通ったデザインの二階建て住宅が延々と軒を連ねていくが、それらに背を向けてものの五分も歩けば身の丈ほどの生け垣に囲まれた古式ゆかしい日本家屋が並ぶ町並みへと変わった。庭先に植えられた金木犀が特有の芳香をすでに放ち始めている。家と家の合間にある空き地ではえのころぐさが風に揺れ、犬蓼の群生は風が吹く度に赤い海のように波打った。蝉の声は途絶えて久しく、代わりに野原にひそむ夜鳴きの虫たちが姿もないままその声を披露する。りりり、からから、しーしー。秋の夜長ではもの足りぬとみえる彼らの合唱は白けた午後であろうと鳴り止む気配はなかった。
 明日は今日となり季節は巡る。
 静牙の日常もまた時間の流れには逆らえないまま滞りなく進んでいる。ただしそれはあくまで物理的な事象に限られた話であって、精神はずっと晩夏の時節から同じところをぐるぐると回っているかのように留まったままだった。若き狼神の末裔の心を捕らえて離さないもの。それはあの世とこの世の狭間にある。
 マヨイガと呼ばれるその場所はただでさえ現実を見失いやすい土地柄ではあるのだが、こと江戸の一大遊郭を模した裏吉原においてその傾向はより顕著だった。漂う赤い提灯の明かり、そぞろ歩く人々が放つ酒精と女たちの嬌声、延々と鳴り渡る三味線の音色。世の粋を集めて、煮溶かして、再び昇華せしめたかのような独特の空気。静牙にとってかつては祖父に手を引かれて歩き、祖父亡きあとは現実から逃げるように足を運んだ歓楽街。長年通いを続けながら一度も妓楼の二階へと上がったことのなかった静牙があろうことか陰間茶屋へ登楼することになったのは幾つか重なり合った偶然の産物であって決して運命などではない。
 しかし、そうは思いつつも彼を思い浮かべるとき静牙は妙な因果を思わないでもなかった。烏の濡れ羽に似た闇夜の黒髪、白皙の肌、黒鉄の鈴の声、真紅に灯る妖の瞳。その容姿のすべてが静牙を惹き付けて止まないどころか、彼はまるで惹かれあうことこそ当然と言わんばかりの威風堂々とした口ぶりに態度。あるときは子供のようにはしゃいでみせたかと思えば次の瞬間には滲み出る劣情を隠そうともせず静牙自身を手玉に取る。そんな男の一挙手一投足に魅了される。視線は赤い糸となってその身を雁字搦めにする。虫が獲物を捕らえるように静かに、けれど確かな欲を伴って。
「静牙!」
 低い声で名を呼ばれ静牙は深い思索の沼から一気に現実へと舞い戻った。
 視線を上げればいつの間にか真上神社の参道の入り口である大階段まで帰って来ていた。見上げるような傾斜の両脇は鬱蒼とした森に囲まれ、木々の隙間から覗く石造りの大灯籠と巨大な鳥居がいつも通り無機質に鎮座している。
 何かに驚いて飛び立つ数羽の烏が山の向こうへと去って行く。つられるように視線を遣れば常より険しい顔をした従兄弟が静牙とは逆に上から狭い踏み石を踏んで降りてくるところだった。
「出かけるのか?」
「仕事でな。…それよりお前、」
 ちょうど階段の中腹にある踊り場で対面した狂牙は不審そうに眉をひそめる。何事かと静牙が思う間もなく彼の精悍な顔が突然触れるくらい間近に迫った。面食らった次の瞬間すんと鼻を鳴らされ匂いを嗅がれる。それは狼の血を引く尾神の者が相手の状態を確かめるためによくやる本能に近しい仕草だった。
「獣くせぇ…」
「え?」
「お前、最近あっち側によく出入りしてるらしいじゃねえか」
 女でもできたのかという従兄弟の問いに内心どきりとしながらもまさかと首を振る。脳裏をよぎった姿は鮮烈で生々しかったが、彼は女ではないのだから嘘はついてないと自分で自分に言い訳をする。そうまでして彼との関係を秘密にしたい理由は自分でもわからなかったが、静牙は自らの意志で口を閉ざした。勘のいい従兄弟はしばらく不満げに静牙を見つめていたが、やがてふいと視線を逸らした。アアと烏の鳴く声がする。隊列を組んだ黒い影が次々に鳥居の向こう側へと消えていく。
「まあいいけどよ。女には気をつけろよ。あいつらこっちのことを歩く道具程度にしか思ってねえんだ」
「わかってるって」
 軽くいなした静牙の名を狂牙が呼ぶ。彼は珍しく何事か言いかけようとして、けれども己に言い聞かせるように緩くかぶりを振るうと口を噤んだ。なんでもないと続けた声はとてもなんでもないようには聞こえなかったが、静牙はあえて追求しなかった。
「じゃあ俺帰るな。狂牙も気をつけろよ、仕事」
「お前と一緒にするな」
 軽口に笑う。従兄弟に背を向けて歩き始めてからもしばらくは視線を感じていたが、やがて階段を登り切った頃にはそれもなくなった。振り返れば大階段のどこにも人影はなく、見下ろした町並みには徐々に夕暮れの気配が迫っていた。秋の日は釣瓶落としだ。急速に涼しくなってきた風にぷるりと身を震わせて静牙は境内を横切ると家路を急いだ。
 静牙が母や姉たちと暮らす自宅は真上神社の敷地内にある。乗用車を利用する場合は境内を迂回する道路を利用した方が早いのだが、徒歩の場合は神社の参道から本殿の前を横切った方が近道だった。
 砂利を踏んで社務所の脇を通り過ぎ木々に囲まれた細い道を抜ければ、そこには瓦屋根の二階建て住宅が立派に整えられた庭を備えて建つ。新しいものを好む母によって祖父の死後すぐに建て替えられた母屋はかつての古民家然とした雰囲気を残しながらも近代的だった。
 御影石の飛び石を踏み、格子引き戸の玄関を開ける。鍵はかかっていない。誰か家にいるのだろう。背負った鞄を下ろして靴を脱ぎながらただいまと声をあげようとした静牙はふと耳に飛び込んできた声に動きを止めた。ひそひそと囁かれるそれは獣の本性を持つ女たちによる密やかな、けれど少しも隠しきれていない密談。
「ねえ、結局どうするのよ?」
「どうって静牙をこのままうちに置いておけるわけないんだから」
「そうよ。あんなろくに力も使えない、変わり身もできない子」
「出来損ない」
「尾神の恥さらし」
「こそこそ出かけていくところばっかりおじいちゃんに似て」
「悪い遊びばっかりおぼえて」
「やっぱり狂牙を養子にするしか…」
「でも断られたし…」
「何言ってるのよ。うちは尾神の本家なのよ」
「そうよ。妾の子を本家筋に取り入れようっていうんだから感謝されこそすれ恨まれる筋合いはないわ」
「お姉さんの婿でもいいんじゃないの」
「なあに、私に押し付ける気?」
「そうじゃなくって…」
「それも一案よ」
「お母さん!!」
 母親の怖いくらい冷静な声音。姉の悲鳴。一瞬、意味が、わからなかった。
 聴覚は正常でも意識がそれを聞き取るのを拒んでいた。母と三人の姉たちの声は折り重なって耳の奥でぐわんぐわんと共鳴を繰り返す。
 うちに置いておけない、出来損ない、悪い遊び、狂牙を、養子に?
 断片的な言葉の羅列が脳内を縦横無尽に走り回っているが、そのどれにも静牙の理解は追いつかない。頭の中は白い明滅が止まず、世界はぐるぐると回転していた。どうして、と掠れた声は声にもならない。
 どうして。
 確かに静牙は尾神としては出来損ないのかもしれないけれど。それでも母と父の子であり姉の弟であることには変わりないのに。たとえ狼でなくても家族であることに変わりはないのに。

 そう、思っていたのに。

 すべてはまやかしだったのか。信じていた世界が足元からがらがらと音をたてて崩れていく。傾いて、空転し、一度知ってしまえば最早元いた世界に戻ることなんてできやしない。
 震える脚が役に立たなくなるよりも早く、静牙はふらりと玄関から飛び出した。すっかり辺りを取り囲んだ夕闇が頬を撫でる。どうにか踏みしめた足裏が運悪く大きめの石を踏み、バランスを失ったかと思えば静牙の身体は大きく傾いで転んだ。地についた腕からも脚からも痛みを感じることはない。ふらふらと起き上がれども辺りに人の気配はなく、手を差し伸べてくれる人もいない。行くあてなどない。あるはずもない。けれど静牙はどこかへ向けて進んでいく足を止めることはしなかった。この場所に留まることはしなかった。そんなこと、できるはずもなかった。


2015.10.29

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