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4 裏を返す

 夢を見ていた。果てのない闇の中は茫洋とした空気に満たされ寒くもなければ温かくもない。静牙はそんな空間に上も下もわからぬままぽっかりと浮いている。ぼんやりと見下ろした自分の身体は見慣れた人間のもので、なぜか一糸もまとっておらず生まれたままの姿だった。
 まあ深く考えても仕方がない。これは夢だ。
 早々に思考を放棄し、無重力の世界に再び身を投げ出そうとしたところで小さな雑音がそれを阻害した。しゃらん、しゃらん、と金属が微かに触れ合うようなその音は徐々に近付いてくる。思わず目を見開いてその音の主を探そうとすれば、どこまでも見渡せないはずだった空間にはどういうわけか映像を早回しにするようにして天井が作られ壁が作られ窓が作られ床が作られていく。
 静牙の身体はいつの間にかどこともつかぬ夢の世界にいるのではなく、限りなく現実に近しい布団の上にいた。確かめるまでもなく鼻腔を満たす紫煙の匂い、 掌に触れる人肌、爪に絡みつく濡れたような黒髪、視線の先にある鮮やかな赤の瞳は逢魔が刻の西の空にも似て静牙に迫る。幾度となく繰り返された同じパターン。重たい打掛が落ちて衣擦れが鼓膜の奥を穿つ。骨張った指先が目指す先を静牙は知っている。これは夢だ。けれども決して根拠なき夢想などでは、ない。

 突如静牙を真の現実に引き戻したのは目覚まし時計の電子音だった。

 視界にはっきりと映るのは間違えようもない自室の天井。開きっぱなしのカーテンから差し込む日差しはすでに頂点に近いらしく光に晒された埃がきらきらと輝く様は日常の光景だった。愚直に鳴り続ける時計を止めれば時刻は午前十一時。常であれば遅すぎる目覚まし設定は家人が不在の際の休日仕様だ。身を起こせば泥のような倦怠感が身体中を支配している。先程まで見ていた夢がはっきりとした記憶となって脳の裏側にべっとりと張り付いていた。
 そう、夢だ。
 確かにそれは夢ではあったが、その内容は決して夢の話ではなかった。静牙の夢中に現れた男は裏吉原においてとびきりの上玉と賞賛される男傾城、江戸町二丁目西田屋の環。何の因果か十日前、静牙はその陰間と寝たのだ。噂に違わぬ美貌と恐怖さえ感じるほどの存在感、緩慢でありながら次の一手が読めぬ仕草と流石の手練手管に手も足も出ないまま問答無用に流されてしまった。抱くというよりも抱かれたといった方がより正確だといえるほど彼は手慣れていた。無論それを本業とする陰間なのだから当然といえば当然なのだが、セックスといえば男女でするものという固定観念があった静牙にとってそれは些か衝撃であった。だが、今にして思えば生理的に受け付けないだとか快楽を得られないだとかマイナスの感情がわいた方がまだ良かっただろう。何しろ静牙は繰り返し夢で見るほどに。
「………うう」
 布団の中でいきり立つ己を自覚しながらあまりの情けなさに泣きたくなってくる。この十日間理性と羞恥によって吉原から足を遠ざけてきたが、寝ても覚めても静牙は彼のことを考えている。何度も現実に戻らなくてはと己を戒めた。あれは一時の夢であって、こことは異なるあの世のことであって、引手茶屋の亭主の義理を果たした以上もう二度と彼と会うこともないのだと。繰り返される日々は母の怒声で目覚め、三人の姉たちの嫌味と愚痴を聞かされながら朝食を平らげ、同級生たちに小突かれながら定刻に講義室へ向かい、就職活動の資料や掲示から目を背けて、逃げるように帰宅しては作り置きの夕食を食べて眠りにつく。それが正しい静牙の現実。嗚呼、けれどもそれはまるで呪いのように夜毎鮮やかに蘇る。何度も耳元で再生される掠れた鋼の声。しっとりと汗で濡れた身体。行灯の微かな明かりの中でちらちらと瞬く赤い火。
「……俺、最低…」
 自己嫌悪の渦は治まるどころか悪化する一方だ。しかも幸か不幸か今日は休講日で口うるさい母も姉たちもおらず、昼間から廓に行こうと咎める者は誰もいない。そんなことを考えてしまっている時点でもう。
 彼に二度と会わぬなどという選択肢は静牙の中で消滅しているに等しかった。

***

 果たしてどう馴染みの引手茶屋の亭主に切り出したものか、という静牙の悩みは結局のところ杞憂に終わった。
 暖簾をくぐり静牙の顔を見た途端、亭主はすべて心得たとばかりにてきぱきと例の茶屋への使いを店の者に指示し、女房はにこにこしながら麦湯を淹れに席を立つ。あまりの手際の良さに一瞬呆気に取られた静牙だったが、そういえばこれこそが引手茶屋の本分だったと今更ながらに思い直した。一通りの仕事をこなした亭主は坊ちゃんお待ちしておりましたよといつも以上に相好を崩し、いつにない饒舌さで静牙が訪れなかった間の出来事を尋ねるまでもなく話し始める。
「実を言うとあちらさんから次はいつ来るんだなんて再三催促が来てましてね。いやね、坊ちゃんは現世の方だから次なんてわかりやせんと、文の使いもできんと言ったんですが何しろ熱心で…揚げ代もあっしらが立て替えるつもりで心しておったらあちらさんが不要と仰って…ええ、もちろん滅多にあることじゃありませんよ。でもねえ陰間も女郎も人だか妖だかわからないと言ったって心があることには変わりないでございましょ?真に惚れた情男(いろ)なら身銭を切ったって自分とこに来て貰いたいってのが本心じゃございませんか。ええ、あっしはそう思いますとも。男冥利に尽きますねえ、坊ちゃん」
 そう亭主が語るうち韋駄天の使いは例の小男を連れて玉浪亭に戻ってきた。そして静牙は前回とまったく同じ衣装を身につけた男に先導され、まったく同じ道筋を辿り、まったく同じ声でそれじゃ静様ごゆっくりと一字一句違わぬ声をかけられ、背後で襖戸がぴしゃりと閉ざされる音を聞いた。
 ほぼ正方形の部屋には相変わらず倦怠感を隠さぬまま美しい男が一人、紫煙を燻らせている。
 幾つかの調度品は配置も角度も佇まいでさえ限りなく同じ形でそこに収まっていた。前回と異なるのはまだ昼過ぎの窓の向こうが天高く青いことと、差し込む日差しを受けて座す男の着物が衣替えを済ませていることだけだ。黒綸子地に穂を揺らす黄金色の芒原、前帯は同じ生地にまん丸に輝く月を一つ描く。変わらぬ下げ髪は幾つか挿し込まれたかんざしが異なるようだったが、静牙にはそこまで繊細な差異はわからなかった。
 手にした煙管の灰を落とし、緩やかな視線が静牙を舐める。暗い光を湛えた紅玉の瞳は感情を悟らせず、開いた口から放たれる言葉は限りなく平坦だ。
「お座り」
「はい…あの、」
 恐々と呼びかければ怪訝そうな顔をされた。野の獣に似た曇りのない瞳に見つめられ、気後れする気持ちを奮い立たせる。ただ単に会いたかったのも本当だが、彼に尋ねたいことがたくさんあるのだ。なぜ自分を呼びたてようとしていたのか。なぜ揚げ代は不要だと言ったのか。だが意気込んで質問を重ねようとした、その出鼻は挫かれる。遮られることなど想定すらしていない彼の言葉がゆったりと、しかし確実に覆いかぶさった。
「歌はできるかい?」
「う、歌?」
「歌合(うたあわせ)のことだ。二人しかいないから簡易的なものになる」
 唐突な質問に面食らいながら静牙は首を振るう。そんな平安貴族の真似事のようなことができるはずもない。自慢ではないが静牙の古典の成績は常に地を這ってきたのだ。
「囲碁は?」
「や、ったことないです…」
「将棋は?」
「ルールが…あやふやで…」
「花札は?」
 繰り返される問いに我ながら何もできないなと一人落ち込んできた頃、ようやく耳慣れた単語を聞き取って思わず静牙はぱっと顔を上げた。
「それならできます。じいちゃんとよくやったから」
 花札は静牙の祖父である清牙の数多ある趣味の一つであり特技だった。祖父が手の中で自在に弄ぶ十二ヶ月の花鳥風月が描かれた札は幼い静牙の目に特別な道具のように映ったものだ。目を輝かせて己の手元を覗き込む孫に祖父は喜んで手ほどきをしてくれた。教えられたルールを飲み込むのは早く、幾度となく繰り返した祖父との対決は手に汗握る真剣勝負からお互いふざけたものまでよくよくおぼえていた。
「そうかい。なら花札で遊ぼう」
「あ、遊ぶ?」
「嫌かい?」
「嫌では…」
 何かがおかしかった。困惑気味の静牙に対して環は相変わらず無表情一辺倒だが、先日の有無を言わさぬ強引さは一体どこへやってしまったのだろう。それともまだ日が高いからだろうか。昼見世をやらぬ妓楼ではこういったやり取りが普通、なのか。廓の素人が悩んだところで結論は出るはずもないが、無為に考え込んでいるうちに空気の読めない腹の虫が盛大にぐうと鳴った。思い起こしてみれば朝から何も口にしていない。気まずさから思わず目の前の男の顔を見れば彼はふうと白い煙を細く吐き出すところだった。
「正直な腹の虫だ」
「すみませ…」
 煙草盆に煙管を戻した男は無言で立ち上がるとずるりと裾を引きずって足音もなく部屋から出て行く。板張りの廊下を歩く後ろ姿を首を伸ばして見送れば彼はそのまま階段を降りて、やがて階下に見えなくなってしまった。
 静まりかえった廊下から首を戻した静牙は無意識に緊張して力を込めていたらしい肩を緩める。あれほど盛んに歌っていた蜩の声はもうこの部屋へと届かない。初秋の空から吹き下ろす風には稲穂が擦れあう音だけが薄く乗り、頬に触れる空気はどこか乾いていた。吉原に暮らす女郎や影間にとっては名が売れ、身体が売れ、初めて得ることができる自室。皆の憧れとも言える十畳の座敷を改めて見渡せど、部屋主の異彩を放つ印象と深く結び付けられるようなものは何一つ見受けられなかった。器物はどれも彼の支配を強く受けながらどこか余所余所しい。まるで美しい陰間を演出するための舞台の上に置かれた劇中だけの小道具のように。それらは真実を決して話すまいと固く口を閉ざしているように見えた。花魁がごとき男傾城。噂は嘘じゃない。だがその実をなす男は一体どこから来た何者だというのだろうか。
「静、」
 突如真後ろから聞こえた声に肩を跳ね上げ振り返れば件の男が立っていた。丸盆を両手で抱えているせいで戸が閉められないのだろう。するりと部屋へ入り込んだ瞬間、顎で示されて素直に静牙は戸に手をかけた。
 襖戸を閉め元通りの位置へと向き直ると彼は先程とまったく変わらぬ場所に座り、静牙の前には稲荷寿司と湯呑みののった盆が置かれていた。食欲をそそる酢飯の匂いに加え俵型に握られた狐色の寿司は艶やかに照り、知らず鼻をひくつかせた静牙に環は小さく唇を緩めたようだった。お食べという声に有難く両手を合わせたあと、手を伸ばす。揚げを噛み締めた瞬間、じゅわっとあふれた醤油と味醂の甘辛が舌に染みる。口の中でほどける酢飯はほどよい酸味で刻んだかんぴょうの食感は歯が当たる度に楽しい。
「うまいかい?」
「はい」
「そう」
 夢中になって平らげる静牙を環は珍しく煙管に手を伸ばさず目を細めてただ見ていた。
 結局三つの稲荷寿司をあっという間に片付け、湯呑みに注がれた茶を飲み干したところでようやく静牙は人心地ついた。いただきましたと手を合わせる様を待っていたかのように環も愛用の煙管を手に取る。引手茶屋の亭主同様またはそれよりも優雅な動きで彼は煙管の灰を落とし刻み煙草を詰め火入れから葉へと火を移す。立ち昇る一筋の煙は空気の流れに乱されてすぐに散り散りとなった。
「あの、」
 燻る紫煙をしばし眺めていた静牙は意を決して口を開く。数ある質問の中からどうしても訊いておきたいことを一つだけ慎重に選び取る。
「揚げ代を払わなくていい、と聞きました。あの、そうすると環…さんの負担になるんじゃ…」
「私は安くない」
「それは…知ってます」
 具体的な金額はわからないが一介の学生である静牙に払い切れる額ではないことは火を見るより明らかだった。けれど、だからと言って「ただ」というのはあまりにも道理が通らぬのではないか。女郎とはそのほとんどが身売りされてくるのだと聞く。妖怪女郎も多い裏吉原では事情が異なることも多いだろうが、それでも春を売って益を得ることが女郎、陰間の本分であることに違いはない。彼の不利益になるとわかって平気な顔をしてここに来ることなどできるはずもなかった。
 そう、言いかけた静牙の目と鼻の先にいつの間にか環の涼やかな美貌が迫っていた。相変わらず物音一つしない動きは獣のように素早く静牙を制する。夢にまで見た男の唇が開き真っ赤な舌が蠢いた。
「私と会うのは嫌かい、静」
 とん、とその声が胸を押す。くらりくらり脳天を揺らす。彼はいつから自分のことを「静」と呼んでいたのかどうにか思い出そうとして失敗した。掴もうとした記憶は切り裂かれ、ふわふわと羽毛のように虚空を漂う。しゃらん、と鳴る音はかんざしが触れ合うものだろうか。どこかで嗅いだことのあるような匂い、触れた場所から伝わってくる体温。孕んだ熱は指先から痺れを走らせ、やがてそれは全身に及ぶ。見惚れるほどに美しいが鮮烈な毒物のようでもある赤色がふと細まり、悪戯を思いついたように囁く。
「花札は今度にしようか」
 その声に否と言う術を静牙は持っておらず、口にしようとした言葉は声にならない。喉の奥は熱くひりついていた。日常茶飯は遥か向こうに遠ざかり、妖の声だけがほんの近くでこだまする。どうして、と。確か静牙は言ったはずだ。どうして俺に触れるのか、と。すると、男傾城は直視するのも憚れるほど鮮やかに微笑んで答えて曰く。
「惚れた男に触れるのに理由がいるのかい?」
 その言葉は驚くほどすとんと静牙の胸に落ち、気が付けばまるで他人事のように己の唇に重なる弦月を凝視していた。環、と解放された声帯を震わせて名を呼べばどこか嬉しそうに傾城が笑う。嗚呼それはなんて甘美な一幕なのだろうか。静、と繰り返される声とさっと外気に晒される肌、這い回る熱を持った掌。いつからその名で呼ばれているのかなんて、それこそもうどうでもいい気がした。


2015.10.21

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