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3 初会

ud24 本作品は性描写を含みます ud24


 徐々に傾いてきた西からの陽光が廓の町並みを焼き尽くすように差していた。
 前を行く小柄な男は晩夏にも関わらず榛色の羽織をまとい、まだ日暮れ前だというのに茶屋の屋号が入った箱提灯を提げている。見たことも聞いたこともないその屋号は玉浪亭の亭主曰くやっとの思いで掴んできた「幻の陰間」にお目通りする手順の最終工程であるらしい。とはいえ、いつものように馴染みの引手茶屋の暖簾をくぐったその瞬間、半ば強引に男と同行するよう促された静牙には詳しい事情はよく理解できていない。ただ飲み損ねた麦湯を思い、じりじりと焼け付くような日差しと田畑に囲まれた吉原特有の湿気にまとわりつかれて止まらぬ首筋の汗を拭う。律儀についてゆかぬともと自分自身に呆れながら玉浪亭の亭主の体面を思えばそれもできない。しかも元はと言えば自分が気軽に例の陰間に会ってみたいなどとこぼしたのがいけなかったのだ。果たして本当に会えるのか。未だ半信半疑ではあるものの引き返すわけにもいかない以上、前を行く男の薄くなった頭髪を見つめながら愚直に歩を進めるしか静牙にするべきことはなかった。
 歩き始めてまだ十数分と経っていないだろうか。町並みの整った吉原では迷子になる可能性はほとんどない。仲の町から垂直に伸びるこの通りは先程くぐった木戸のおかげで江戸町二丁目だということがわかっていた。中央に溝板を渡し用水桶と誰そや行燈が等間隔に配置された道沿いには戸を閉ざした妓楼が並んでいる。宵の口の喧騒にはまだ早い二階窓の薄闇からは拙く三味線を弾く音や女たちの囁き声が絶え間なく漏れていた。
 各町の通りを入ってすぐに面した見世は所謂大見世であって、広い間口と見世の格を表す格子を壁一面に張り巡らせた総籬が特徴的だ。中でも廓のどん詰まりに位置する芦屋は吉原最大にして最高位の見世として知られるが当然こういった高級妓楼はごく一握りの遊客しか登楼することができない。正しく一見さんはお断り。大見世は引手茶屋を介した客しか通さぬのが絶対の決まりだった。しかし茶屋を通さねば女郎遊びはできぬのかといえばそうでもない。裏吉原に犇きあう無数の妓楼はピンからキリまで揃っている。大見世、中見世、小見世と次第に見世の規模と揚げ代が下がり、特に河岸見世とも呼ばれる小さな見世が並ぶ東西の河岸のうち東側は強引な客引きと劣悪な環境でこの世の地獄、羅生門河岸として恐れられていた。その羅生門河岸は今まさに静牙と男が歩く通りを直進した先にある。
 まさかそこまで行くんじゃないだろうなと今更不安になり始めたところでようやく小男は足を止めた。
 河岸まではあと十五棟といったところだろうか。こちらですと促されたのは一見何の変哲もない小見世だった。角行灯に記された屋号には西田屋とあり、申し訳程度の籬の奥は営業前だからなのか、がらんとしていてひと気がない。見上げた二階窓からも物音一つ聞こえない。
 初見の客を退けるような独特の雰囲気に気圧される静牙を他所に小男はさっさと土間へと踏み込んだ。仕方なく静牙も逡巡を振り切ってその後を追う。暖簾をくぐれば妓楼独特の裏向きに設置された階段がまず目に入り、上がり框には脱ぎ捨てられた下駄が一組所在なさげに転がっていた。小男は土間から楼主殿と呼びかける。外から見た印象と同様薄暗い見世の中、内所と呼ばれる妓楼の主人の定位置には煙草を吹かした初老の男が一人平べったい座布団に腰を据えていた。歳は六十を過ぎた辺りだろうか。全体的にくすんだ色の着流しをまとい、頭には短く切り揃えた総白髪がみっしりと生え揃っている。何の因果で陰間茶屋の楼主などしているのかは預かり知らないが強面の老主人はかさかさに乾いた頬の皮膚を微動だにすることなく値踏みするような目線で静牙を睨めつけた。
「初会でございます」
 小男が囁くようにそれだけを告げる。対する主人は相変わらず表情を動かさぬまま白い煙を散らすかのように突然声を張り上げた。
「たまきぃお支度ぅ!」
 静まり返った楼内に響き渡ったその声は数秒の余韻を残してから静寂の中に吸い込まれるように消えていった。面食らった静牙とは異なり楼主は何事もなかったかのようにまたむっつりと黙り込んで煙を食む。
 かつての吉原がそうであったように裏吉原の妓楼にも数多くのしきたりがある。その不条理は廓遊びの粋とされ、静牙も幾つか聞き齧ってはいたがそれはあくまで通常の妓楼の話だ。陰間茶屋の道理など当然わかるはずもない。訳のわからぬまま呆然と突っ立っていると、小男はいつの間にか草履を脱いで二階の登り口へと足をかけるところだった。お早く、と促されて静牙も慌てて履物を脱ぐ。楼主は最早静牙たちの方へ目を向ける様子もなく、落とされた視線の動きは畳の目地でも数えるかのような不毛な作業に見えた。彩度をなくした景色の中、痩せた両肩の向こうに見える神棚に捧げられた榊だけが妙に瑞々しい色を保っている。
 妓楼の多くは二階建で一階が楼主の部屋や台所となり、二階には宴席や女郎が客を取る部屋がある。ここ西田屋でもその間取り自体には変わりないらしく、恐る恐る登りきった広い階段の先にはぴしりと閉ざされた襖戸が何枚も規律正しく整列していた。仄暗い廊下からは中がどういった用途で使われているのかまったく伺えない。おそらく通りに面した方が宴席を兼ね、裏手に面するのが女郎たちが客と寝る部屋なのだろう。いや、この妓楼には陰間しかいないのだろうから女郎と限定するのは誤りか。
 興味深そうにきょろきょろと周囲を見渡す静牙とは対照的に、茶屋の小男は勝手知ったる様子で歩みに迷いがない。彼は階段の昇り口の裏手に回り、襖戸で二方を囲まれた角部屋の前に来ると足を止めた。廻し部屋にしては手狭だなと静牙が首を傾げたところで小男が四枚綴りの戸の中へと丁寧に整えた声をかける。
「陰郎、失礼いたします」
 返事はない。だが男は構うことなく戸を開き、静牙もまた導かれるようにして鴨居をくぐった。十畳ほどの畳敷きの部屋には開け放された障子窓が二つ。いつの間にか日は傾いて四角く切り抜かれた空は薄紫色に染まりつつあった。桐の箪笥、立て掛けられた琴、鏡台、笹に雀の屏風。思いのほか質素な調度品が壁際に寄り添うように肩を並べる中、中央に座すその人だけが異彩とも思えるきらびやかな存在感を放つ。
 静牙が思わず息を呑んだのも無理はない。その容貌は凄絶という他言い表す言葉もなかった。
 黒鉄の艶を湛えた漆黒の髪を金銀の簪で下げ髪に結い上げ、あらわになった白い額に弧を描く柳眉、瞬きする度に昇る月が如き赤色の玉が鮮やかに見え隠れする。すらりと通った鼻梁、絶え間なく紫煙を吐き出す薄い唇の隙間から覗く歯は小さく整っている。わずかに隆起した喉仏、銀の絽地に水墨画の趣で舞う蝙蝠と枝垂れ柳をあしらった打掛に包まれた幅広の肩が辛うじて彼の性別を引き寄せた。
 この世とあの世の狭間にあって人も妖も区別なく入り乱れ、あらゆる妓楼があらゆる春をひさぐ裏吉原でさえ十数軒しか存在しない陰間茶屋。そこに籍を置く百にも満たない陰間の中でも飛び抜けた上玉。花魁のごとき容姿と高い教養を持ち得ながら選ばれたわずかな客としか会わぬゆえに幻とさえ呼ばれる。それが今正に目の前で気怠げに紫煙を燻らす江戸町二丁目西田屋の環(たまき)。
 聞きしに勝るその美貌に思わず呆然と見入ったまま立ち尽くす静牙にここまで案内を務めた小男のお役御免の愛想笑いがかかる。
「それじゃ静様、ごゆっくり」
 襖は素早く閉められた。閉ざされた部屋の中で宵の口の空はいよいよ色濃くなり、陰間ながら一つ部屋を与えられた男の背へと夕暮れが迫る。夏の終わり、ひぐらしが振り絞るように鳴き重ねる音色にふうっと吐き出された煙が緩慢に混ざりあった。
「お前さん、静っていうのかい」
 硬質な鈴を響かせたような声色だ。思ったよりはすっぱな物言いが目の前の男から発せられたと理解するのに静牙の耳と頭はしばらく時間を要した。
「あ、はい。正しくは静牙といいます」
「ふうん。立派な名だ」
 手の動きだけで示されてそろそろと畳の上に腰を下ろすと、おもむろに吸いさしの煙管を突きつけられる。蚊遣りの匂いを押し退けてつんと鼻を突く煙に静牙は反射的に首を振るった。
「俺、煙草は…」
 しかし男は許さない。狭間を這い回る異形の瞳がこの私に恥をかかせるつもりかと鋭く凄む。有無を言わせぬその気迫に仕方なく静牙はそれを受け取った。ひやりとした金属の吸い口に慣れぬ手付きで唇をつけ、やけくそのように煙を吸い込めば案の定盛大に噎せる。目に涙を浮かべて激しく咳き込む静牙に彼は薄く冷ややかに笑ったようだった。昼の閑散とした空気を喰らい尽くすような夜を前になお昏い闇を抱えた男が声もなく笑う。
「いい子だ」
 そのとき静牙の背を走り抜けたのは一体なんだったのだろう。恐怖か畏敬か、それとも戀か情欲か。少なくとも胸を張ってお天道様の下に晒せるものでないことだけは確かなそれを押し隠し、せり上がってくる生唾を悟られぬよう静牙は努めて密やかに飲み込んだ。想像では決して形を成し得なかった男傾城はこうして現実に存在して目の前に座し、静牙が口を付けた煙管の吸い口から美味そうに煙を飲んでいる。
「男は初めてかい?」
 簡潔なその問いかけは静牙にとってまるで浮世離れしていて、まったくと言っていいほど現実味を帯びていなかった。不意を突かれ一瞬思考は白紙となる。何か返さなくてはと開いた口から出てくる言葉はない。市松模様の前帯がずるりと畳を擦る音がする。女郎仕立ての着物は恐ろしいほどに彼の雰囲気に合致していた。放たれる言葉も改めて間近で見る肉体も男であることに違いないのに、いやだからこそその姿はある種のあやしい艶めかしさをもってそこに鎮座せしめているのだろうか。
 伸ばされる白い指先、殻の薄い貝に似た爪の形。
 静牙の履くジーンズの前を億劫そうに寛げる動きは緩慢だが、どういうわけか静牙はその手から逃れることはできなかった。気が付けば腕も脚も、凍りついたように動かない。開いた唇は酸素を求める金魚のようにぱくぱくと声にならない上下運動を繰り返すばかり。耳の奥にじりりと何かが燻る音がする。開け放されたままの窓の奥から生ぬるい風が吹き込み、あっという間に剥き出しにされた下半身を撫でた。投げ出された己の脚の間には紛うことなく男がいる。だが、それは静牙自身のそれほど長くもない生涯において見たこともないほど飛び抜けて美しい男である。
 玩具と戯れるように下肢へと触れる掌は当然のように体温を持っていて、迫る黒髪に映える銀のかんざしはしゃらりと鳴った。何をするのかと問う暇もなく、また問うこともできないまま、静牙の性器は男の口内にすっぽりと含まれてしまう。瞬間、温かく濡れた感覚が敏感な部分を通して背骨を伝い血管を通して隈なく全身を走り抜けた。喉の奥からは妙な呻き声が漏れる。それは男にとって予想外だったのだろうか。静牙のものを口に咥えたままこちらを見上げてくる赤の瞳は扇情的というにもほどがある。羞恥と快感と。思わずカッと頬を染めた静牙に彼は先程と同様やはり小さく笑ったようだった。
 動きを再開した舌が丹念に鈴口を舐め、括れの部分をなぞり、執拗に静牙を責め立てる。じゅ、と響く湿った音にも煽られて無尽蔵に熱量を増してゆく性器に静牙が唇を噛みながら耐えていると、男がどこかとろりとした目で自ら育て上げたそれを撫であげながら言う。
「我慢せずとも気をおやり。見ていてあげるから」
「…っ」
「うん?口で果てる方がいいのか?」
 別に静牙は何も言っていない。だが、そもそも人の話など聞いてはいない男はさっさともう一度屹立した静牙の性器を口に咥えると思い切り吸い上げた。与えられた強い刺激は若い静牙の精を搾り取るのに充分だった。放たれた青臭い匂いに彼がそれを口で受け止めたことがわかる。
 肩で息をし荒い余韻を何とか鎮めようとする静牙の前で男はゆるりと帯をほどく。衣擦れの音はいよいよ日の落ちた吉原で奇妙なほど耳に残り、鼻先を掠めた香りは煙草でも花でもなくどこか懐かしいような気もした。いつの間に灯されたのか、それとも最初から灯っていたのか。燭台に揺れる炎に白い横顔を照らしあげられた美しい男は確かに己が男であることを見せつけるように薄く整った裸体を惜しみなく晒し、鮮やかに笑ってみせた。
「さあ、いい子にしておいで」
 取って食いやしないから。そうつぶやかれた言葉を静牙はどこか朦朧と霞がかったような意識の中で聞く。結果的にそれが静牙にとって西田屋でのはっきりとした最後の記憶となった。遥か遠くに遠ざかる喧騒を抱えるほどに夜は長く、やわりとした動きで手の甲に触れた男の指の腹は意外なほど熱を持っていた。


2015.10.09

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