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2 引手茶屋

 尾神家前当主であり静牙の祖父である尾神清牙(おがみ せいが)は正真正銘尾神一族の偉大な「親父さん」であった。
 祖父は主に女性と賭け事における奔放さで祖母や母を散々に泣かせてはいたが、仁義に厚く弱きを助け強きを挫く生き様を実践していたゆえに多くの一族に慕われていた。静牙は祖父の直系の孫たちの中で唯一の男子であり傍目から見てあからさまにわかるほど溺愛されていた。また出生とほぼ同時期に婿養子だった実父を亡くした静牙にとっても彼は父親同然の存在だった。
 しわくちゃだが大きくて頼もしい祖父に手を引かれて、それこそどこへでも連れていってもらった。近所の小川でザリガニを釣り、神社の裏手にある山で蝉を採り、雨上がりの森で水を飲みに来るアゲハチョウを今か今かと待った。塗装のはげかけた濃緑色の自家用車を転がして海に朝日を見に行くこともあれば、北の端っこにある街まで氷の海を見に行くこともあった。春になれば帝都中の名所で満開の桜を眺め尽くし、夏は背丈を優に越した向日葵畑で隠れ鬼をし、秋は紅葉を狩るついでに栗を拾い、冬は鼻の頭を赤くして日が暮れるまで雪で遊んだ。祖父が見せてくれた万華鏡がごとき七色にきらめく世界はそのどれもが目新しくて素晴らしかったが、中でもとりわけ静牙が気に入ったのは妖しくも華やかでそれでいてすぐに目を逸らしたくなるような変わった「街」だった。
 裏吉原。
 その場所を祖父はちょいと唇を歪めて「お里」と呼び、祖母や母は眉をひそめて「悪所場」と呼んだ。
 いつものように祖父に手を引かれ、大門をくぐったその日のことを静牙は生涯忘れないだろう。宵の口に差し掛かった街では三味線の音がひっきりなしに鳴り響き、門から一直線に貫かれた通りには引手茶屋の提灯が夢幻のように連なって白抜きの暖簾が夜風と人いきれに煽られ揺れていた。格子の向こうから聞こえる女の嬌声、白粉をはたいた白すぎる指、掌で自在に踊る金の煙管と紫煙、紅を引いた真っ赤な唇に金銀鼈甲のかんざしを差して結い上げた髪の華やかなこと。数人の仲間と連れだって歩く男の野太い笑い声、銭が鳴る音、引手茶屋の亭主のおべっか、千鳥足に重なる酔いの色。まるで別天地の光景に視線を彷徨わせる静牙に祖父は美味そうに煙を食み、そして言ったものだった。人生は泡沫のごとし、遊ばずして何とする、と。たっぷりとした余韻を含んで放たれた言葉は難解で、幼い静牙には容易く理解できるものではなかったが、そのあと少し乱暴に頭を撫でてくれた祖父の手の大きさと買い与えられる水飴の大いに甘いことは強く記憶に残っていた。
 繰り返し語られた言葉にどこか足元が覚束なくなるような浮ついた宵の空気。それは気が付けば静牙の骨身にじっくりと染み付いてもう離れやしなかった。
 祖父が没してから早六年が経つ。
 尾神の名を受け継ぎながらもその生き方を決めかねている青年は現実から目を背けるように今日も白昼静まり返った境内を一人歩く。参拝者も風もない平日の午後に注連縄飾りや鈴緒はぴくりと動く気配もなく、己のスニーカーの裏が白い玉砂利を踏み鳴らす音だけを聞きながら静牙は足早に本殿の裏手へと向かう。すぐそばまで迫った山にはほんのわずか切れ目のように見える獣道。そこへ本物の獣のようにするりと身体を滑り込ませればひんやりとした森の空気が身を包み、湿った落葉の匂いが鼻をついた。苔生した倒木や生い茂るしだの緑を横目に踏み均されただけのくねる小道をしばらく歩くと樹齢を重ねた松の木が忽然と木々の切れ目に現れる。漏れ出ずる光に青々とした常緑の葉を輝かせ見事な枝ぶりを晒す松は広葉樹の森の中でいささか不自然かつ異質ではあったが、静牙は何ら迷うことなくその根元へと歩み寄った。
 あの世とこの世の狭間にあって人と妖の入り乱れる場所。そこへと辿り着くための「お作法」は代々尾神本家の男子が継承してきた。だから祖父は静牙へとそれを惜しみなく伝え、静牙は口酸っぱくそれを己の子息以外の誰にも教えてはならないと言い含められてきた。
 木の前で目をつむり大きく深呼吸。そして周囲を反時計回りに三周。まじないはたったのそれだけで取り囲む世界の何もかもが変わる。
 木漏れ日に代わって瞼を焼く午後の日差し、ぐんと存在感を増した水の気配、遠のいた蝉の声に代わる人々のざわめき、駕籠を運ぶ男たちの掛け声は歯切れよく、風に乗ってやってくる客寄せらしき声は尾を引いて、鰹出汁と醤油の香りは強く腹の虫を刺激した。
 先程静牙が回り込んだのにそっくりな松の木の脇には小さなお社と朱塗りの鳥居、そして一対の狛狐が鎮座する。裏吉原大門のすぐそばにある吉徳稲荷神社。尾神の総社である真上神社の裏山にある松の木は裏吉原へと至る幾つもの道の一つとしてこの場所へと繋がるようになっていた。
 いつも通り辺りに参拝客の一人もいないのを確認すると静牙はひょいと神社を抜け出した。目の前には高札場と見返り柳があり、堤の上の道へと繋がる衣紋坂を数人の男たちがふらりと戻っていく。右手へと目を向ければ緩いカーブを描いた所謂五十間道に茶屋の軒先が連なっていて、その先に存外地味な外見を晒しているのは黒塗り板葺きの冠木門。お歯黒溝と黒板塀に囲まれた廓において唯一の出入り口から見える裏の吉原は昼見世を行わないゆえかぼんやりとまどろんでいるように見えた。
 本日の空は曇天。行き交う人影はまばらだが、その顔ぶれは多彩だ。着物にパナマ帽のご老体が杖をつきつき茶屋へと吸い込まれていけば、刈り上げ着流しの屈強は大門手前の名物蕎麦屋の暖簾をくぐり、かと思えば決め込んだスーツとゴールドのピアスが眩い妙齢の女性は急ぎ足で視界から消え、禿と思しき少女二人は蝶々結びの帯を揺らしてお使いの最中のようだ。静牙のようにティシャツにジーンズというラフな格好の者もちらほらと見受けられる。見た目だけは皆人間に見えるがそうではない者もきっと混じっているのだろう。そのすべてを飲み込んで受け入れて、しかも食らいついて離さないのがこの裏吉原だった。かつて江戸の時世に一大公娼街として栄えた廓をマヨイガに正確に再現した街。静牙にとっては幼い頃から通い慣れた遊び場、といったところだろうか。とはいえ祖父が連れていってくれたのは馴染みの引手茶屋がいいところで妓楼に足を踏み入れたことすらない静牙が通を気取ることはとてもではないができないのだけれど。
 無理して人波を避けることなく、ゆったりとした歩幅で門をくぐりいつものように見慣れた暖簾を目指す。大門からすぐの仲の町沿いにある何軒かの引手茶屋は歴史も格式も高い七軒茶屋として知られていたが、その中の一軒へ静牙は臆することなく足を踏み入れる。突き出した簾に畳敷きのあげ縁、掛け行灯と柿渋染めの暖簾に白抜きで示された屋号には玉浪亭(ぎょくろうてい)とある。
「ごてさん、おかさん」
 長い営業時間の狭間となる午後、土間に垂れた暖簾の奥の帳場では茶屋の亭主とその女房が二人して茶を啜っているところだった。五十を間近に控え藍染めの模様絣をまとった夫婦は静牙の来訪に揃って相好を崩す。
「おやまあ坊ちゃん、久しいですなあ」
「ちょうど坊ちゃんの話をしていたところですよ。次はいつ来なさるかって」
 遠慮なく上がり込む静牙に嫌な顔一つせず迎え入れてくれる夫婦は祖父のご贔屓だった。詳しい話は静牙も知らないのだが何でも「清さんには大変な世話になった」とかでこうして祖父亡き後も孫の静牙を祖父同様丁重に扱ってくれている。静牙自身も彼らを大いに慕って、こうして折りを見ては二人を訪ねていた。
「まだこっちも暑いね」
「盛りに比べりゃまだましですけどねえ。なに朝夕はそれでも過ごしやすくなって参りました」
「麦湯をお持ちしますね」
 ありがとうと返した静牙が靴を脱いで座に加わるのと入れ替わるように女房が席を立つ。盆には急須と湯呑みが二つ。一見何の変哲もないそれらが静牙の暮らす世界では目が飛び出るほどの値打ちだと言っても彼らは本気にしないだろう。この夢幻の街と現実を行き来できる静牙とは違い留まった国の留まった人間として生きる彼らにとって進み続けている国のことなど最早御伽噺の世界に等しいのだ。
「いやはやしばらくご覧にならないうちにまた坊ちゃんは精悍になられましたな」
「一月でそんなに変わらないよ」
「そうでしたか?しかし坊ちゃんも今年で二十歳?いや二十と一つでしたか?頃合いのお年だ。どうです、いよいよ馴染みの女郎など作られては」
 無論相方探しならあっしらにお任せをと引手茶屋の本分よろしく続ける亭主に静牙は困ったような笑みを浮かべた。祖父が亡くなり、静牙が十八を過ぎた頃からしばしばとりあげられる話題だが、静牙は未だに色良い返事をしたことはない。もちろん格子ごしに垣間見える美しい女郎たちに何の興味もないわけではないのだが、女遊びと聞いただけでないはずの角と犬歯と呼ぶにはおぞまし過ぎる牙を生やす祖母と母の顔が眼前をちらついて及び腰になるばかりだった。
「悪いなあ。俺が茶を飲みに来るばっかりじゃ商売あがったりだろうに」
「とんでもない。日中はそれほど忙しなくありませんし、坊ちゃんはあっしらの孫みたいなもんですからね。こうして茶を飲みに来てくれるだけで嬉しいもんです」
 夫婦には子供がいない。それもまた静牙を可愛がってくれる要因の一つなのかもしれなかった。こちらの世でも五十は決して若くない。二人がこの引手茶屋をどう次世代に引き継ぐつもりなのか、当然静牙は知らなかった。
「そういやこんな話をご存知で」
 蒔絵をあしらった煙草盆を引き寄せながら唐突に亭主が話題を変える。煙管に刻み煙草を詰め、火入れの火を移す所作は堂に入っていて淀みがない。嗅ぎ慣れた特有の香りがここでも鼻先を掠めた。
「この里には様々な妓楼が軒を連ね様々な春をひさいでおります。あっしら引手茶屋はお客人をお望みの桃源郷へと導く水先案内人、けれどもそんなあっしらでもご案内できない女郎がいらっしゃる」
「それはまた…一体どんな?」
「ぬばたまの黒髪を下げ髪に結い上げて肌は白皙、目許は涼やか、柳腰。所作は優雅で気品に溢れ、声は黒金の鈴を叩いたようで詩歌も琴もお得意な上、将棋の腕前も大したもの」
「そりゃすごい、まるで花魁だ。揚げ代が高過ぎるってことか?」
「いえ、そうじゃございません。何でもこの御方にお会いするには特別な手順が必要だとの噂」
「うわさ」
 興味を引かれて思わず問うた静牙に勿体ぶるようにして、亭主は吸い込んだ煙を吐き出すとカン!と音をたてて煙管の灰を落とした。
「噂です。何しろだあれもその女郎にお会いしたことはございません。しかもその御方、女じゃなくて男ってんだから」
「男?」
 声が上ずってしまった静牙にあくまで平静な声のまま、けれどわずかに口元を歪めて亭主も続ける。
「まあ可笑しな話でしょう?」
「男の女郎…影間?」
「ええ、おそらくこの廓に百人もおらんでしょう」
 その数が多いのか少ないのか静牙には正確に判断できなかったが、数千人の女郎がいるとされる吉原ではやはり異端の部類に入るだろう。静牙は花魁がごとき男の女郎というものを頭の中に思い浮かべてみようと試みた。もやもやと己の顔が浮かび、従兄弟の顔が浮かび、同級生たちの顔が浮かんでは消え、幻とされながらも人の口の端にのぼるほどの男傾城の姿はなかなか実像を結びそうもなかった。
「花魁より美しい野郎なんていてたまるかってのがあっしらの見解ですがね」
「ふうん…でも実在するなら会ってみたい気もするなあ」
 想像もつかないだけに。好奇心から気軽に口にした静牙におやまと目を見開いた亭主が大袈裟に表情を作る。
「興味がおありで?衆道趣味とは存じ上げませんでした」
「しゅ…!?」
「坊ちゃんのためなら一肌脱ぎたいとこですがこいつはなかなか骨が折れそうだ」
「いや…いやいや、俺、女の子が好きだし…」
 慌てて訂正した静牙に亭主は相変わらずの物腰を崩さぬまま、ほう左様でと煙を飲んだかと思えば途端にするすると口が滑り出す。
「では扇屋の薄雲なんていかがでしょう。先日突き出ししたばっかりなんですがね、これがなかなかの器量よしでして…いやね、坊ちゃんにはそれこそ高尾やら築山やらの手練手管の女郎よりかはまだちょいとおぼこいとこのある娘が宜しいんじゃないかと思いましてな」
 待ってましたとばかりに饒舌に喋り出す亭主にお茶をどうぞという女房の声が重なる。目の前に差し出された麦湯と吉原名物甘露梅に手を伸ばしながらも話の勢いの止まらない亭主に困ったように笑いながら常と変わらぬ心地良い空気に静牙は身を任せた。要するに先程の話は引き合いだったのだ。静牙に女郎買いを進めるための口実であってそれ以上でも以下でもなく、それが証拠にそれきり静牙が暇を告げるまで幻の陰間の話はもう一度話題になることはなかったし、静牙もすっかり忘れてしまっていた。
 いや、確かに忘れていたのだ、そのときまでは。


2015.10.05

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