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1 首尾の松

 威圧的な電子音は一向に鳴り止む気配がない。
 尾神静牙(おがみ しずが)は鈍い呻き声をあげると寝返りを打った。百九十を超える長躯が沈む布団は昨日の内に誰かが(十中八九住み込みのお手伝いである佳代さんだが)干してくれたおかげでひどく柔らかく永遠の安楽を与えるかのような太陽の匂いがしていた。手放したくない。そう無意識に考えたのか右手がシーツをかき、手探りでどうにか探り当てた目覚まし時計の頂点を勢いよく叩く。びんっと哀れを誘う音をたてて狂ったような電子音はようやく止まった。
 薄手のカーテンから差し込む午前の日差し。数日前まで鳴き交わす鳥の声をかき消すほどだった蝉時雨はすでにその勢いをなくしつつある。暦は進み、季節は巡り、学生である静牙にとって夏の終わりは長期休暇の終了とほぼ同意義だった。
「……おい、」
 時は無情にもすべてのものに平等に流れる。帝都中心部にキャンパスを持つそれほど偏差値の高くない平凡な大学の凡庸な経済学部へ籍を置いて三年を迎える静牙は選択を迫られていた。それは同学年の大多数の学生と同じく将来の展望にまつわることなのだが、静牙の場合は家庭の事情が伴って少し真意が異なっている。
「おい、いい加減起きろ」
 尾神。その名の由来はかつて魔性に惑わされた日本武尊を導いたという白狼の神話にまで遡る。山岳を自在に行き来し、群れをなして鳥獣を狩る獣は数多の伝説に彩られやがて神格化、土着の神々の一柱となった。何を隠そうその血を今生まで引き継ぐのが尾神の一族だ。表向きは人の姿を真似て真上神社(まかみじんじゃ)の神職を務めながら、本性たる巨狼の姿をもってして鬼や魔を祓うのを生業とする。静牙はその尾神の中でも最も血が濃いとされる本家筋の当代唯一の男子だった。
「静牙!」
 鈍い衝撃と共に頬に触れる畳の感触。思わず見開いた視線の先には箪笥の重みによって沈んだい草がはっきりと見える。一瞬状況が飲み込めずまばたきを繰り返す静牙の前ににょきっと突き出される精悍な顔。齢は静牙と同じく二十一。背丈は静牙よりなお高く、体つきも屈強な青年が黒々とした眉を呆れたようにひそめてこちらを覗き込んでいた。
「よく転がされるまで寝てられるな…」
「転がしたのかよ…」
「お前が起きねえからだろ」
「だからってもうちょっと優しく起こしてくれたっていいだろ」
 そう恨み節を呟きながら身を起こせば、もう散々やったと言い返される。男の名は尾神狂牙(おがみ きょうが)。静牙とは血縁関係にあるのだが、その繋がりは静牙の祖母の姉の息子が高齢にして年若いお妾さんに手を付けて孕ませた子という実にややこしい上にたやすく口に出すのも憚られる内容だったため、二人は口裏を合わせてお互いを人に紹介するときは従兄弟だと言い繕うことにしていた。幸いにも血の継承を重んじてきた尾神の一族であり同い年の二人は割に雰囲気が似ていたので特に不審がられることもなく今日までそれを押し通すことができている。
「お前がいつまでも起きてこねえから叔母上がキャンキャンうるせえんだよ…」
 便宜上静牙の母のことを叔母と呼ぶ狂牙がうんざりと言った言葉通り開け放した襖戸の向こう、おそらく階下からはヒステリックな女の声が轟いていた。静牙はずるずると畳の上を四つん這いで進むと廊下へ首を突き出して大声で叫ぶ。
「起きたー!」
「早く朝ご飯食べなさい!佳代さんにどれほど手間かけたら気が済むのあなたは!」
「着替えてから行く!」
 引き合いに出された佳代さんがおろおろと別に私は構いませんよと母に対して話すのを申し訳なく思いながらも静牙はぴしゃりと戸を閉めた。夏休みの間中、ほぼ毎日聞いているとはいえさすがに寝起きの頭にあの声は堪える。もう少し母の気性が穏やかであればと願ったことは今までの短い生涯において星の数ほどあったが、それが決して叶わぬこともまた静牙は嫌というほど思い知っていた。母の豪胆で苛烈な振る舞いは尾神の女を代表する性質そのものだ。
「よくまああんなの毎日聞いてられるな」
 いつの間にか狂牙は勝手に開けた窓に寄りかかり煙草に火を点け一服しているところだった。喫煙者でない静牙は強い煙の匂いにむずむずと鼻先をこする。狂牙は美味そうに煙を吸って平気にしているが静牙はどうも嗅覚を抉るような両切りの煙草の匂いが苦手だった。
「逆に毎日だからなあ。もう慣れた」
「恐れ入るな」
「お前こそ今日はどうしたんだよ。朝からうちに来るなんて珍しいな?」
「仕事の報告だ。徹夜明けに叔母上の吠え声はきつい」
「う、ごめん」
 ふぁっと紫煙吐いて狂牙の黒い眼がひたりとこちらを見る。寝癖でぼさぼさになった髪を撫でつけていた静牙はその視線に気付きながらも気付かないふりをする。何のことを口にするのかもう知れていたから。そしてそれはなるべくなら静牙が触れたくないものだから。だが幼い頃から兄弟同然で過ごしてきた狂牙はそれを許してくれるほど優しい相手ではない。
「夏休みだってのはわかるが就職活動やってんのかよ、お前は」
「………」
「返事がねえってことはやってねえな」
 深々とため息をつき携帯灰皿で早々に煙草の火をもみ消した彼はどっかと畳の上に胡座をかく。男でさえ惚れ惚れするような体躯を持て余し気味にして犬歯の目立つ口を開けば、獣じみた印象に反して理知的な声が滑り落ちた。
「どうすんだよ。尾神の仕事につけねえ以上、人間にまぎれて暮らすしかねえぞ」
「…わかってるって」
 そうわかってる。尾神静牙は尾神本家筋唯一の男子でありながら、その中でただ一匹まともに本性に変わることもできなければ狼神としての力をふるうことも適わない所謂「出来損ない」だった。
 しかし、まだ物心つくかつかないかの頃はこうではなかったのだ。確かにほとんどが白い毛並みを持って生まれてくる尾神において静牙のそれは多少灰色がかった毛色違いではあったが、二足歩行と四足を使い分けることは呼吸するように自然に切り替えることができたし、普通の人間には見えるはずのない妖たちが行き交う姿を普通の光景として見ることができていた。それがいつからか願っても望んでも静牙の身は狼に変わることはなくなり、あれほど視界に溢れていた異形のものは霧が晴れるように消えていった。いつしか静牙の見る「世界」は尾神のそれではなく人間のそれとなっていた。
 そのことに気付いたときも正直言って静牙自身はそれほど悲観も絶望もしていなかった。元々持っていたものならいつか手の内に戻るだろうと気楽に考えていた節もあったし、消滅した感覚も視覚もどちらかといえば芒洋としていて、泣いて喚いて嘆くほど大事なものでもないように思えたから。
 けれど、母は違った。祖母は、三人の姉は、違った。
 彼女らはまるで人間のように落ちぶれてしまった息子を、孫を、弟を、異形のものでも見るような目で見た。その異物感がより顕著かつ露骨になったのはここ数年のことで、それはやはり尾神としての力を失ってからの人生の方が長くなってしまった静牙に対する失望だったのだろう。姉たちも狂牙も大学には行かず早々に尾神の本分たる鬼やらいの職に従事した。静牙だけがただ一人人間の若者たちと同様に曖昧模糊なモラトリアムの期間を許されている。否、辛うじて残されているに過ぎない、か。
「お前はいいよな…ちゃんと狼の力もあるし変化もできるし毛並みも真っ白だし…」
「とはいえ妾の子だからな。肩身は狭い」
「そうかなあ…」
「そうだ。この家がどれほど血筋を重んじるかお前の方がよくわかってるだろ」
 そう言って手持ち無沙汰に手の中のライターを弄りながら狂牙は俺のことはいいんだと若干乱暴に言い捨てた。
「お前が悪い奴じゃねえのはよくわかってるが、尾神じゃそれはただの命取りだ。叔母上の気が変わらないうちに自立してとっととこの家から逃げろ」
「逃げるって…」
「さっきも言ったが俺じゃどうにもできないことが多すぎるんだ」
 一瞬覗いた険しい表情をすぐに隠して狂牙はすっくと立ち上がった。夜通し仕事だったのは嘘ではないのだろう。辛うじて人間のそれより鋭敏な嗅覚が土と血の匂いを拾いあげる。
 尾神は本来ならばこのような仕事に従事せずとも生き長らえることができる血族のはずだった。だがこの国の人間が凄まじい速度で積み上げてきた歴史の過程でその神聖性はほとんど失われたと断言できるまでに至ってしまっていた。それは山が開拓され、草木を切り倒して道が作られ、村や街に明かりが灯され、獣が火と鉄によって追い払われたのとまったく同時進行だった。人は人より上にあった神々の存在を忘れつつある。国中にあれほど息づいていた信仰は最早風前の灯で、没落した尾神の名にはもう一族の皆が縋りついて生きていく太さなど残されてはいないのだ。
「じゃあな。ちゃんと学校は行っとけよ」
「ああ…ありがとな、狂牙」
 従兄弟の背を見送れば階段を降りる音にひぐらしの重奏が覆いかぶさる。開け放されたままの窓の向こうには季節の終わりを惜しむように巨大な入道雲がそそり立つところだった。


2016.09.29

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