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現代帝都 蟹食う蟹と

 今年最後の定時まであと五分。
 事務員総出で師走の頭から取り掛かった応接室、給湯室、社長室、倉庫、事務所の大掃除は今日の午前中にようやく片付いた。小さい商社に相応しく皆それなりに年を重ね、総じてお喋りな彼女たちは大掃除を終えたからにはもう自分たちのすべき仕事はないと認識しているらしい。業務時間中にもかかわらず会議机を一つ占拠して、とめどなく話し続ける姿を咎める者がいない以上、それは職場の共通認識のようだった。
 居心地の悪さを感じているのはつづらだけだ。
 すでに自分の机の上も引き出しの中も隈なく片付け終わってしまった。手持無沙汰にペン立ての中のものをすべて取り出し、また入れ直す。それだけの作業をもう何度も繰り返している。外回りから冷ややかな空気を連れて帰って来る営業員たちもそれぞれ数名の塊になって雑談に花を咲かせていた。誰もつづらには声をかけない。それが当然であるかのように。
「お先に失礼します」
 終業の鐘が鳴った瞬間に席を立った。何人かがつづらがコートを手に取るのを見てわずかに会釈したが、それだけだった。
 大通りに面したビルのガラス戸を開けるとすでに日は落ちていた。青白い蛍光灯に照らされ、ぴっちり閉められたブラインドに四方を囲まれていると時間の経過は曖昧になる。吐く息は白い。コートの前を寄せ、肩を竦めてつづらは歩き出す。この職場の最大の利点は駅まで近いこと、その駅から自宅まで乗り換えなしで移動できることだった。
 路面電車に揺られ、自宅の最寄り駅で降りると、ようやくすべてから解放され、人心地ついたようになる。
 降車する人数は少なく、街灯はちりちりと明滅していた。ここから小さな川を渡り、住宅街を十分ほど歩くと、地上三階建ての周囲の住宅と比べて大きな、しかし妙に古めかしいアパートメントが見えてくる。
「ただいま」
 その三階、三〇五号室。重たい金属の玄関ドアを開けた途端、おかえり、と奥から声が飛んできてつづらは目を白黒させた。てっきり誰もいないと思っていたのに。よく見ると玄関先のタイルにはヒールの高いパンプスが横倒しになって転がっていた。つづらが絶対に履かないタイプのつやつやとしたエナメル製だ。
「た、だいま」
「おかえりぃ」
 短い廊下を抜けて居間へ行けば、すでに温まった室内、年末のどうでもいい特別番組をやたら賑やかに流すテレビ、それから世にも珍しいこんな時間から台所に立つ同居人の姿。
「なんで?」
「なんでってあんた、人が折角早く帰ってきて夕飯作って待ってたのに」
「おかしい。早すぎる。機嫌がよすぎる。何があったの」
「え、尋問……?」
 それ仕事にしてるのはあたしなんだけど、とぼやきながらも同居人、西加仁子はにんまりと笑って見せた。これはいよいよ機嫌がいい。何かある。たとえ彼女が万年脳天気で悩みとは無縁の化け蟹であったとしても、だ。
「実はねえ……」
 そう勿体ぶって取り出されたのは一抱えもある木箱だった。つんと鼻をつく木材の匂い。びっしりと敷き詰められたおが屑。その上で脚を縛られ、微動だにしないのはまさかまさかまさか。
「蟹!貰ったんだぁ」
「貰った?」
「係長からのお裾分けでね。全員分はなかったから班の皆でジャンケンして」
「勝ったの」
「勝った」
 得意げな仁子を尻目につづらは呆れていた。この妖怪は本当に自分の本性を理解しているのだろうか。それとも人間の姿に化け続けたせいで忘れてしまったのだろうか。だとしたら、思い出させなくてはならない。一応、海洋妖怪という同じ括りにあるモノの一人としてつづらは使命感に燃えた。
「あのね、仁子」
「うん」
「あなたは化け蟹でしょう?」
「そうだけど?」
「蟹を食べることは道理に反しないの?」
「な、」
 化け蟹はわかりやすく絶句した。
「なるか!蟹と化け蟹は別物!あんただって魚とは違うでしょう!?」
「当たり前じゃない」
「そういうことだ!」
 魚には人間の上半身がないのだから人魚と違うのは当たり前だ。でも、蟹はほぼ化け蟹と同じだし、逆も然りなのでは。という反論をつづらは飲み込んだ。これは個人の認識の問題だ。仁子がいいと言うならいいのだろう。たぶん。
「鍋にするの?」
 手元を覗き込んで話題をがらりと変えてきたつづらに仁子は一瞬たじろいだ。
 木箱を脇に抱え、まな板に転がった長ネギ、金属製のバットに並べられた白身の魚や浅蜊、豆腐、しいたけ、えのき、白菜などを順繰りに見回し、ああ、と我に返ったように呟く。
「そうそう。海鮮チゲ鍋にしようと思って」
「いいわね」
「でしょう?早く手洗ってきな」
 そう機嫌よく言って、仁子は土鍋を火にかけた。どうやら先程のやり取りはすっかり忘れてしまったらしい。やはり得な性格をしていると思う。うらやましい。
 コートを脱いで鴨居に引っ掛けたハンガーに掛ける。洗面所で入念に手を洗い、うがいをして、手を拭いた。ストッキングとシャツを洗濯かごに放り込み、部屋着に着替える。袖口が緩くなってきたスウェットはそろそろ替え時だろうか。つづらとしてはまだ着れると思っているのだけど、意外にもこういうことには仁子の方が口うるさい。
 ふと鏡を見れば草臥れた一人の女がいた。
 最早海の中にいた頃の妖艶な雰囲気は皆無といっていい。翠色のきらめく鱗、くびれた腰、柔らかな乳房、長く豊かな髪、爛々と輝く瞳に尖った歯。すべて、すべて失った。すべて、すべて奪われた。誰が悪い。否、誰のせいでもない。私以外、私の責任を負える誰かは存在しない。
 居間へ戻ると炬燵の上にカセットコンロが設置され、赤い出汁がぐつぐつと煮えていた。豆腐は沈み、浅蜊の口は開き、野菜にもすでに火が通っていた。蟹はといえば仁子の手によって完璧に解体され、大皿の上に並んでいる。鮮やかな橙色をした脚は最早一匹と数えられることはなく、圧倒的なまでに一本だった。生き物を食べるというのは、そういうことだ。
「つづら、ビールと日本酒どっち?」
「ビール」
 炬燵に両手足を突っ込む。途端に冷えきった肉体が先の方から弛緩した。
 鍋から立ち昇る湯気をぼんやりと見上げる。ゆらゆらと火加減によって姿を変えるそれは温かな幻想を映す蜃気楼のようだ。ちょうど浅蜊も入っていることだし。いや、あれははまぐりだったか。
「はい、ビール。適当によそうけどいい?」
 ん、と気のない返事をしたのを彼女は聞いているのかいないのか。手早く椀に盛られた具材は魚介と野菜のバランスがよかった。つづらはいつも魚介ばかりをよそってしまう。だから、おそらく信用されていないのだ。
「美味しそ!かんぱーい!」
「かんぱい」
 仁子はぱきょっと音を立てて開けた缶ビールをおよそ半量飲み干して酒臭い息を吐いた。つづらは小さいグラスにビールを注ぎ、泡を舐めるようにちびちびと飲む。
 最初の頃は炭酸飛ぶよ、ぬるくなるよ、と逐一指摘していた仁子も何も言わなくなった。お互いの嗜好になるべく口出ししないというのはこうして一緒に暮らすようになって、どうにか折り合いを付けるためにひねり出したルールだ。
 化け蟹と陸人魚。
 生まれも育ちも種族も違う二人は人間に化け、人の世で暮らすという唯一の共通点を拠り所に共生する。この息苦しい地上で、今日も明日も年の瀬も。
「蟹煮えたのから食べて」
「ん」
「うわ、おいし!」
 喜々として蟹の脚を頬張る化け蟹を見ると、この鬱々とした日々もなんとなく滑稽で馬鹿らしくなるから不思議だ。噛み合わなくても、ちぐはぐでも、運命なんかじゃなくてもまあいいか。
「ほんとだ、美味しい」
「でしょう!?」
 化け物二人、年の瀬に向かい合って蟹を食べる。

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